「国策で原子力を推進する以上、原発に反対する国民は『敵』とみなされる」~ 岩上安身によるインタビュー 第280回 ゲスト 茨城県東海村村長・村上達也氏 日本の「軍事警察国家化」を懸念 2013.3.1

記事公開日:2013.3.2取材地: テキスト動画独自
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(IWJテキストスタッフ・関根/奥松、文字起こし・@sekilalazowie, 校正・@85singo)

※2015年3月6日テキスト更新しました。

 「原発は一睡の夢、短い間の幸せで終わる」——。

 茨城県東海村の村上達也村長(当時)に2013年3月1日、茨城県那珂郡東海村庁舎で岩上安身がインタビューを行った。1997年から東海村村長を務める村上氏は、「中央依存体質からの脱却。地域主権の確立で、小規模分散型のエネルギー政策を」と、脱原発に向けたエネルギー政策の必要性を訴えた。

 1999年に原発事故による初めての死者を出した「東海村JCO臨界事故」を経て、国が国策として欠陥品を輸入していたことを知ったという村上村長。「原発立地の地方自治体の中で、脱原発の声を上げている首長は自分ひとり。原発に依存した地域は、しばらくすると文化もコミュニティも壊れてしまう。東海村の将来を考えた場合、厳しいかもしれないが、脱原発を目指すことにした」と、自らが原発肯定派から脱原発に転じた理由を語った。

■イントロ

国策に依存する政治、財界、御用学者、マスコミ

 冒頭、村上氏は、「3.11から2年を迎え、脱原発の意識は一般に定着してきたものの、政治がそれに応えられていない。国策という言葉で、政治、財界、御用学者、マスコミなどの利権集団が、経済性と自己保身に依存する体質がある。国民に冷たい国、という印象を強く持った。また、国民が国の依存体質から脱し、自ら考えるように自立しなくてはならない」と指摘する。

 岩上安身が「村上氏は銀行出身で、1997年に村長に当選した。その2年後にJCO臨界事故、そして今回の福島第一原発事故が起こった。原子力政策のまっただ中の地域で村長に就任したが、原発などについては、どう考えていたのか」と尋ねた。

最初は原発肯定派だった村上村長

 村上氏は、「前の村長だった、須藤富雄氏の意思を引き継いだ形だった」と述べ、当時の考えを明かした。

 「須藤村長は、自治体の首長として、日本の原発社会の先頭を切って、旗振り役をした人。自分も原発肯定派だった。しかし、のちに日本原電の3、4号機新設には、慎重な態度をとった。狭い地域に原発が増えることに、抵抗を感じていたからだ」

 また、「常陸那珂火力発電所の建設計画もあり、この辺一帯を700万キロワット規模のエネルギー供給基地にする構想があった。そこに、1997年3月11日、東海村で動燃の(現JAEA)再処理工場爆発事故、1999年9月30日には、JCO臨界事故が起こった」と振り返った。

 さらに、「東海村は、原発立地地域でも、原発10キロ圏内に25万人、20キロで75万人も住んでいる人口密集地帯だ。村長の立候補時にアピールしたことは、市町村合併問題と原子力の安全対策だった。それで、庁舎内に原子力対策課を作った」と話した。

 原発はアメリカのシステムだから、少しは信用していたという村上氏は、「それ以外の施設、再処理場など、日本のものには信用を置いていなかった」という。

 「しかし、今回の事故後にわかったことだが、マークI型原子炉などのアメリカ製の原発について、格納容器が狭い、サブレッション・プールの変形など、国は欠陥を知っていたにもかかわらず、日本に17基も導入していた。これは驚きだ。目先の利益を上げるために、慌ててやっていくことはいかがなものか。日本は、加工技術は優れているのだろうが、システム技術は弱いのではないか」

文化もコミュニティも壊す原発依存

 村上氏は、「国策とは、恐ろしい言葉だ。国策の危険性を、自分は指摘し続けている」と訴え、政府の判断にこう憤った。

 「2012年9月14日、政府(当時は野田内閣)は革新的エネルギー環境戦略を立てたが、中途半端だ。核燃料サイクルには踏み込めない。30年代原発ゼロを謳ったが、財界とアメリカからの横やりで、閣議決定をやめた。安倍首相は、それをゼロベースに戻すことにしてしまった」

 その上で、脱原発に舵を切った経緯を語った。

 「原発立地の地方自治体の中で、脱原発の声を上げている首長は、自分ひとりだ。原発に依存した地域は、しばらくすると文化もコミュニティも壊れてしまう。原発は一睡の夢、短い間の幸せで終わる。それで、東海村の将来を考えた場合、厳しいかもしれないが、脱原発を目指すことにした」

国の指示を待たずに村民の避難を決めたJCO臨界事故

 岩上安身が「JCO事故の際、東海村では国の指示を待たずに、村民の避難を決めた。また、国に厳しく迫ったと聞く。どういう心境だったのか」と尋ねると、村上氏は「JCOの臨界事故は、内容が明瞭だった。情報が早く把握できて、これは汚染事故ではなく、中性子線の照射事故とすぐに知った。JCOから500メートルの範囲内を避難させてくれ、という指示が、JCO所長からあった。当時、国と県は、それぞれ対応も見解も違っていた」と振り返る。

 「結局、独断で50世帯ほどを避難させたが、最終的には500人ほどが避難した。その後、バケツとひしゃくで放射性物質を扱うなど、ずさんな作業体制が明るみに出て、JCOは安全意識を問われたが、元をただせば社会システムの問題だ。衆議院などに参考人で呼ばれた際は、そこを訴えた」

原発に反対する国民は敵になる軍事警察国家

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  1. 榊原千鶴 より:

    〈敵は国民?!〉  はたして日本はかわれるのか。
     1997年9月、JCOによる臨界事故を経験した東海村の村長、村上達也さんへのインタビュー。印象的だったのは、「国策」という鍵語により重ね合わされた戦前の日本軍と戦後の原発政策に共通する無策ぶりである。昭和16年(1941)南方進出と対ソ戦の準備を打ち出した「(情勢ノ推移ニ伴フ)帝国国策要綱」を機に、日本は資源の問題から開戦を決める。以降、統帥権の独立により、議会や国民の声は無視され、結果、沖縄・広島・長崎の悲劇を生む。敗戦必至の状況下、逃げようとした国民は国家にとっての敵とされた。
     戦後、「国策」となった原発政策も、掲げた「安全神話」のもと、具体的な対応策を練らないままに事故(敗戦)を招いた。「2030年代原発稼働ゼロ」も閣議決定は見送られ、国民の声は届かない。しかも背後には、戦前よりも強力なアメリカの存在がある。福島県双葉町の井戸川克隆・前町長が、「国境があることで、国民は敵とされる」と語ったとおり、無能な政府に異議を唱えれば敵と見なされる。
     独自のエネルギー政策を行う上で、自主独立と民主化は不可欠、けれど現実には、日米安保体制と原発利権集団の存在により、原発はさらなる悲劇の可能性を抱えた状態が続いている。はたして日本はかわれるのか。
     JCO事故当時、村上村長は、大混乱に陥った国や専門的知識をもたない県からの指示をはねつけ、死中に活を求めて生き残っていくとの決意のもと、辞職覚悟で町民を守ろうとした。以後、東海第2原発の廃炉を求め、地方の原発依存体質と中央集権からの脱却、そして地域主権による持続可能な社会を構想する。村上村長の理念に、あらためて基礎自治体のありかたを考えさせられた。

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