2019年9月10日(火)18時30分より東京都豊島区のIKE・Biz としま産業振興プラザにて、『オリンピックから改憲へ!? ~深まりゆく対米従属から抜け出す道は…~』 が開かれ、ゲストに、白井聡氏(京都精華大学人文学部専任講師)、鈴木邦男氏(一水会元最高顧問)が招かれた。
白井聡氏(1977年、東京生まれ)は、2013年、戦後日本の対米従属的な政治体制の核心には敗戦を否定する歴史観があることを指摘した『永続敗戦論』の著者、京都精華大学専任講師である。
鈴木邦男氏(1943年、福島生まれ)は、いわゆる「星条旗右翼」と一線を画し、戦後体制の打破と「対米自立」を目指す一水会の名誉顧問である。
第一部は1時間半のパネルディスカッションで、主催の城北法律事務所の船尾遼弁護士と小沢年樹弁護士が司会を務め、天皇の生前退位問題と8月15日に初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声を詳細に記録した『拝謁記』の一部公開が話題になった。
第二部の質疑では、安倍9条改憲と東京五輪への疑義が話題になった。2019年の開催だが、白井氏の「むしろ、このオリンピックは激しい、酷いオリンピックになった方がいい」、「戦争で何百万死んでですね、俺たちは馬鹿だったらしいと気づくよりかは、オリンピックで失敗して気づく方がよっぽどましである」という発言は、2021年7月27日の今、2年間にわたる紆余曲折を経て東京五輪を迎えている我々の耳に突き刺さる。是非、最後まで御覧いただきたい。
以下は第一部の抄録である。
船尾弁護士「5月に天皇が生前退位して、令和がはじまりました。8月15日に初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声を詳細に記録した『拝謁記』の一部が公開され、昭和天皇が戦前戦後どんなことを考えて生きてきたのかについてさまざまな議論がされています。
戦前と戦後の天皇制、天皇はどのようなものであったか、何が変わったのか、国体についてご意見をうかがいたいと思います」
白井氏は戦後日本で、天皇の戦争責任問題はタブー視されてきたし、昭和天皇は責任を認めていないと思われてきたが、2018年に出た小林侍従日記で、やっと天皇自身が戦争責任問題で最晩年まで悩んでいたことが明らかになった。昭和天皇を包んできたタブーのベールが少しずつ薄皮のように剥がされていっているが、まだ残っている最大のタブーは豊下楢彦が指摘していると述べた。
白井氏「(拝謁記について)昭和天皇は歴史上の人物であり、いろんな資料が出やすくなってきたということがあります。ただ、画期的というのは誇大広告ではないか、まだ一部しか公開されていないが、あまり新しい情報はないではないかと。関係者は、ちょっと待ってくれ、出す出さないは田島さんの遺族が持っている。遺族が出したくないといえば出せなくなる。デリケートな配慮が必要だと言っていましたが。
昭和天皇も退位を真剣に考えたことはあるというが、訴追もされない、退位もしないとなると何もしないというのはまずい。せめて天皇の名において行われた戦争について謝罪、悔恨、反省の言葉を入れたかったが、吉田茂がそれを押し留めた、というのが新事実だというんですが、すでに幻の謝罪原稿が、田島長官の遺品から10年前に出てきています。専門家の間では知られていたことでした。
ただし、一般の人たちはまだあまり知らなかったと思います。昭和天皇は退位すべきだということが社会的に大問題になって盛んに議論されたということを知らなかった。当時は公然たる議論だったし、国会でも取り上げられています。
そんなことはしかし、昭和天皇の退位が大問題になっていたことなど、今や誰も言わないし、知らない。タブー扱いされてきたということではないか。昭和天皇が榭在位しようとしていたということが出てきたのは、やっと10年前です」
白井氏「豊下(楢彦)先生は『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』 (1996、岩波新書) で、安保条約を成立させた中心人物である吉田茂の行動には不可解なところがある、それは昭和天皇が『二元外交』をやっていたからではないかと、つまり、昭和天皇が吉田の頭を飛び越えて積極的にアメリカに米軍駐留継続を望む働きかけをしていたのではないかということです。
それによって、アメリカが駐留したいからではなく、日本が駐留を望むから駐留してあげるのだという、不平等な条約の基礎ができてしまったのではないかと述べているのです。
それは自発的な主権の放棄であり、その主権放棄を主導した人物が誰あろう、昭和天皇だったのではないかということを豊下先生は突きつけている。
私はこれこそが昭和天皇の生涯における最大のスキャンダルではないかと思います。この点は大いに研究が進められ大いに議論されるべき話です」