「翁長は日本政府と戦い、米国政府と戦い、埒が明かないから、国連まで何回も足を運ぶ人。自分の命がなくなる寸前だからって、すべて投げ出すような人ではなかった」
2018年9月4日火曜日、沖縄県那覇市内で、岩上安身は故・翁長雄志沖縄県知事の妻、翁長樹子(みきこ)さんにインタビューをおこなった。
▲岩上安身のインタビューに応じる翁長樹子さん(IWJ撮影、2018年9月4日)
翁長知事は2018年8月8日、膵がんのため67歳で永眠した。かつては自民党に所属し、保守系政治家として、那覇市議会議員、沖縄県議会議員、那覇市長などを歴任。2014年、米軍普天間基地の辺野古移設に異議を唱え、オール沖縄の支援を受けて知事選に立候補し、移設賛成派だった仲井真弘多知事を破って知事に就任した。以来、辺野古への基地建設阻止のため、様々な方法を駆使して国と対峙してきた。
樹子さんは「沖縄の保守」である翁長知事の沖縄への思いを紹介するとともに、悪化する体調の中で、「辺野古埋め立て承認の撤回」という最後のカードを切った壮絶な最晩年の様子を振り返った。また、沖縄の現状や、翁長知事の死去に伴って9月30日に投開票がおこなわれる沖縄県知事選挙についても、率直な意見を述べた。
自公推薦の佐喜真淳(さきま あつし)候補が、選挙戦で辺野古問題を封印していることについて、樹子さんは「作戦か何か知らないけど、辺野古の『へ』の字も言わないなんて。この難しい沖縄県の知事を務めようって人が、みみっちいことを」と批判。
野党が支援する前衆議院議員の玉城デニー氏については、生前の翁長知事と後継の話をした際に、「デニーだったら、どうかな」と名前が挙がっていたことを明かし、「あの人は底がすごい深いんじゃないか。言葉が鋭いと何回も思った」と期待を寄せた。
樹子さんは、今回の知事選は「弔い合戦ではない」と明言する。「弔い合戦は1回で終わっちゃうけど、沖縄の戦いは連綿と続くから」と説明し、次世代へつなげていかないと沖縄の状況は変わらない、と訴えた。加えて、安倍晋三総理、菅義偉官房長官に次のようなメッセージを送った。
「安倍さん、菅さん。あなたたち、いったい何考えて沖縄にやって来るの? 沖縄に、これ以上押しつけてどうするの? 沖縄に寄り添うって、よくおっしゃるけど、本当に寄り添っているんですか? この現状を見たら、そんなこと恥ずかしくて言えないんじゃない!? 」
- 日時 2018年9月4日(火)16:30~
- 場所 那覇市内(沖縄県那覇市)
沖縄の保守と革新は、沖縄を良くするために戦う。それを「上で笑っている人たちがいる」と見抜いていた翁長知事
岩上安身「はい。改めまして、IWJの岩上安身です」
翁長樹子夫人(以下、翁長夫人)「はい。翁長の家内でございます」
岩上「お焼香させていただきまして、本当にありがとうございました」
翁長夫人「こちらこそ、ありがとうございます」
岩上「生前ですね、いろんな形でお世話にはなっているんですけれども。2014年、翁長知事は保守だったのに、『辺野古、建設反対』ということで、野党側の方々の方に立って、この、オール沖縄結集の核になられて出馬されたときのことです。そのとき、私は沖縄に行きまして、単独インタビューをさせていただいたんですね(※)。1時間強ぐらいお話しいただきましたかね。
▲岩上安身のインタビューに応じる翁長雄志氏(IWJ撮影、2014年10月16日)
そのときの印象が非常に強く残っていてですね。できればまた、在任中、まだまだね、知事をお続けになると思っていましたから。ただ、お忙しいので、少し遠慮してしまいまして。節目には、また単独のインタビューをさせていただこうと思ってたんです。それがね……」
翁長夫人「ねぇ」
岩上「まさか、かなわぬことになるとはねぇ。本当に、ひとつひとつね、奥様にお聞きしていきたいんですけれども。直近のことも、もちろんあるんですけれども。翁長さんはですね、保守の政治家として歩まれて、連れ添われて来て、だけれども、あの4年前の2014年に、今度、県知事選に出られるというときに、大変大きな決断をされたわけじゃないですか。ご本人からの思いというのは、お聞きはしているんですけれども。一緒に、脇でね、支えながら見ていた翁長さんの思い、決断というのは、どういうものだったんだ、と。その原点からお聞きしたいなと思います」
翁長夫人「決断も何も。翁長が最後の頃に言っていた言葉は、『沖縄の人で、みんなわかっている』と。『心の中で沖縄の人は、僕らが何を言おうとしているかもわかっている。沖縄の人で、未来永劫、沖縄がこのままでいいと思っている人は1人もいない』っていうのが、翁長の考えだったんですよ。
『心の中、みんなそれぞれわかっているけど、立場であったり、目の前の生活であったり、いろんなことがあって、いろんなことおっしゃるけど、心の中はみんな一緒なんだよ』ってのがね、翁長の言葉だったの。だから、皆さん、保守とか革新とか簡単に分けるけど、そんなもんじゃちょっと言い訳できない。みんな、分別できないものを心に抱えているわけですよ。
『保守だったのに』っておっしゃるけど、翁長が言った言葉に、『僕は保守は保守でも、沖縄の保守だ』って言ったんです。どういうことかと言いますと、(翁長知事は)67年間、ずっと不条理の中で生きてきて。翁長の父も保守の政治家でしたし、兄もそうでしたし、本人もそうだったけど、『なぜ、好きでもない、自分たちが望んで持って来たわけでもない米軍基地を間に挟んで、保守だ革新だってワーワーしなきゃいけない? 皆、同じウチナンチュー(※)で、同じように沖縄を愛して、少しでも沖縄を良くしたいって、皆思っているんだよ』って。
(※)ウチナンチュー:沖縄の人という意味。
『それなのに、その戦いを見て、上で笑っている人いるんだよ』っていうのが、翁長のね。だから、あなたが言う保守とか革新は、ヤマト式の保守とか革新であって、沖縄の保守と革新とは違うわけ」
岩上「なるほど。『上で笑ってるよ』と。こういう思いというのは」
翁長夫人「それが『苦しい』『悔しい』だったんです」
岩上「それは、昨日今日抱えた話じゃないんですね」
翁長夫人「いやいや、もう、ずーっと。だから、翁長がずっと言っていたのは、『僕はね、自民党がベストと思ったことは一回もない』って言っていたんですよ。『今ある政党の中でベターだと思うから、自民党に身を置いているけど、決してベストではないよ』って。
それでも翁長の自民党時代、那覇市長になる18年前に、自民党も離党しましたけど、18年前まで自民党にいて、そのときの自民党は、まだ、とても幅がありました。つまり、自民党の中には、右も左もたくさんいて、いろんな方たちがワーワー侃々諤々でお会いしながら、お互いを掘り下げていく、大きくなっていくってところがあった。だけど、今の自民党はちょっと違うよね。申し訳ないけど」
岩上「まさに。その話もちょうど同時並行のように、自民党総裁選というドラマと、それから翁長さんの逝去にあわせて沖縄知事選がおこなわれるという、2つのドラマが重なりあっているわけですよね。その両方を、見ていかなきゃいけないと思っているんですけれども。
少し話を戻しますが、そういう忸怩たる思いをずーっと抱えて来られて、なぜ、あのときのタイミングで出馬しようと……」
翁長夫人「革新だったかと?(笑)」
岩上「出馬しようと思ったのか……」
「辺野古を諦めたら支えてあげるよ」 ~自民党からもオファーが来た2014年の沖縄県知事選。「絶対、諦めないと言って革新側から出たんです」
翁長夫人「翁長は多分、自分から一度も言ったことないと思うの。自慢話みたいだから。実は、もう、びっくりする話があって。あのとき、実は翁長はね、保守側からも革新側からも『次の知事候補』って言われたんですよ。
そのとき、翁長が自民党に対して言ったことは、『僕は辺野古を諦めないよ』って。『必ず、あそこは止めるよ』って言ったわけ。革新の方には『僕は自民党だよ。安保は認めてるんだよ』って言って。『保守だから安保、認めてるよ』って言って、『どうするんだ?』って。つまり、それぞれに痛いところを投げたわけです」
岩上「なるほど、なるほど」
▲翁長樹子さん(IWJ撮影、2018年9月4日)
翁長夫人「自民党の方たちは、保守の方たちは、『もう、何とか辺野古だけ諦めてもらったら、みんなで支えるよ』って言ったのを、『それは、僕はできない』。革新の方は、『えーい、もう何でもいい、翁長だ、翁長雄志だ』ってね、呼んでくださったの。
自民党出身の、安保も認めている翁長雄志、であることを認めて、『それでも自分たちと一緒に』って言ってくださって。だから、あのときに自民党の方が、『わかった。じゃあ、みんなでがんばろう。沖縄はひとつだよ』って言って、やってくれたら、申し訳ないけど、多分、自民党から出たはず」
岩上「そのかわり『沖縄の保守』として、つまり」
翁長夫人「だから、みんなも」
岩上「基地は反対、っていう保守だったら」
翁長夫人「そう。『辺野古は絶対、僕は諦めないよ』って。『辺野古だけは諦めないよ』って言ったのを、あちらの方たちは、自民党沖縄県連の方たちは、『いや、何とか、他は何でもいいけど、辺野古だけは諦めてくれないか』っていうのが条件だったの。それは無理だ、ってことで。
こちら(革新系)は、『もう何でもいいよ。何でもいい、翁長雄志だ、翁長雄志』って言って、『がんばろう』でね、まとまってくださったんです。
でも、そのとき考えたのが、つまり保守から出ても……。つまり、保守から出るってことは、辺野古を認めるってことでしょ。どっちから出てても、厳しい。革新から出ても、『翁長雄志なんか信じられるか』って思う。それまでバリバリの保守だったから。『翁長雄志なんか信じられるか』って思う方、多分、たくさんいらしたはず」
岩上「当時はね」
翁長夫人「革新の中に。だから、『あなたはね、両方からお願いされて、両方どっちから出ても厳しいね』って私は笑ったわけ」
岩上「そういう会話されていたんですね」
翁長夫人「はい」
岩上「翁長さんは何ておっしゃっていたんですか?」
翁長夫人「しょうがないよ、って(笑)」
岩上「ご夫婦で」
翁長夫人「もう、だからみんな、『確かに、僕はずっと自民党で活動して、市議も県議もずっと活動してきて、那覇市長も』。つまりそういった風な、保守からの推薦を受けて当選してきて。
でも、最後の頃ね、那覇市長最後の頃。共産党の皆さんがね、『市長、体に気ぃつけてがんばってくださいよ』って言うようになっていたんだって。『おかしい。僕、自民党のはずなのに。共産党から一番激励されるんだよ』って笑ってたの」
岩上「(笑)」
翁長夫人「そしたら、いろんな出来事があって。ああ、もう、困ったな。彼は、前の知事さんのときに、東京でいろんなあれがありました」
岩上「はい」
翁長夫人「あのときに……」
岩上「全部の、こちらのね、自治体の方々が反対して、それで署名集めて、ってことですよね」
翁長夫人「いえいえ、それではなくて」
岩上「それではない」
翁長夫人「うん。仲井真さん、……名前言ってしまったな」
岩上「仲井真さん(前沖縄県知事の仲井真弘多氏)」
▲仲井真弘多前沖縄県知事(Wikipediaより)
翁長夫人「仲井真さんが東京に行って、もう、辺野古は何とか、容認とまでは言わないけど、そういった風にあれして」
岩上「『良い正月を迎えられる』と言った件」
翁長夫人「そうそうそう。『良い正月迎える』と言ったときに、もう、どうしようと思ったのは、ああ、もう、これはもう、結局はあの発言がものすごい大きな心の傷をつけつけたんですよ」
岩上「ああ」
翁長夫人「とっても傷ついて。もう、仲井真さんの芽はないと。翁長に鉢が回って来ると、私はちょっと、あれしてしまったわけ。もう、恐ろしいこの状況をわかっていたから、『もう、何とかお願い、やめて』と思いました。あのときね」
岩上「仲井真さんのその発言を聞いて、これは、仲井真さんは(再選は)ない……」
翁長夫人「沖縄の人にね、あの人、許されると思ったら大間違いだったの。あの言葉はね。どんだけあの言葉で、沖縄の人が傷ついたかね、多分、本人が気づかなかったんだね。
あの後、(知事選に)出ていらしたから。普通だったらあそこで、『もう、僕はこうで』って言って止まるところを、退くところを、出ていらしたから。『意地でも出てやる』で出て来たから。官邸も必死に止めたけど、出ていらしたから。『ああ、あの言葉が、どんだけ沖縄の人を傷つけたのかね、本人は気づいてなかったんだ』って思ったの。
だから、どっちから出るのかよくわからないけど、『あ、翁長にお鉢が回って来る』って、あのとき、正直思いました」
岩上「そういう声が上がってくると、そのときにはもう、どっちから出ても厳しいと」
翁長夫人「厳しいでしょ? 保守から出ても、仲井真さんの後継ぎみたいで怒られるし、革新から出たら、『何で、あいつ、元々保守だろう』って言われて、皆さんが信じてくださらないかもしれないし。だから、『あなたは両方から望まれるのに、両方どっちから出ても厳しいんだね』って、夫婦では笑ってた」
「沖縄の人は、心の中のものは失くさない。ウチナンチューは皆わかっているよ」という翁長知事の言葉の意味
岩上「そういう中、翁長さんは結局、革新サイド、あるいは革新サイドと言うよりも、辺野古反対派サイドの人々との結集ですね。で、そこには、いろいろな色合いの違いがあるでしょうけれども、そこで手を結ぼうと。辺野古反対を貫こうという人たちと、じゃあ、共に立つ、ということを決断された。奥様は、その決断を……」
翁長夫人「いや、『もう、いいんじゃないか』と思いました。つまり、これ以上いらない。いろんな事件事故があってもね、私の感覚なのか、『私たちの感覚』と言っていいかどうか、わからないんだけど。
つまり、復帰前の沖縄があって。米国と直接対峙するわけです、沖縄は。対峙するけど、もう、にっちもさっちもいかない。言うこと全然聞いてくれない。もう、ワーワーしてる中に復帰があって、やっと私たちは、少なくとも私はね、『やっとこれで、日本に守ってもらえる。憲法の下でね、同じように守ってもらえる』と思ったら、なんと、日本政府は間に入ってね。普通だったら、国民がそういったふうに、いろんなことがあったときに、国は、その国民を背にして、相手方の国に抗議しなきゃいけない。日本て国はね、間に入ってね、後ろに米国を置いてね、(こちらを)抑えにかかってくるわけ」
岩上「どっちを向いてるんだと」
翁長夫人「どっちを向いてるなー、と言いたくなるような状況がずっと続いてましたから、この復帰後46年間。変だと思いません? なんで沖縄だけ『NO』って言う権利もないの? もしかして国民じゃない? ……と思ってしまうわ。ごめんね。悪いけど、切って。ちゃんと」
岩上「全然大丈夫ですよ。全然OKですよ。いやいや、これは、皆さん沖縄の方々が、思っているお気持ちそのものだと思いますし。私はこちらに来て、お話をうかがうようになってずいぶん経ちますけど、いつでもそういう思いをね、どんな立場の人からも聞きますから」
翁長夫人「だから、『皆、心の中ではわかっている』のは、そういうことだと思いますよ」
岩上「ああ、そうですよね」
翁長夫人「どの立場であっても、皆、それぞれいろんなことがあって、目の前の今の生活もいろいろあったりして、いろんなことをおっしゃるけど、『心の中、皆わかってるよ』って。『皆一緒なんだよ』、翁長の。
もうひとつ、これは、翁長の得意だと思ったところは、選挙とかでいろんな結果があるでしょ。オール沖縄、正直厳しかったですよ、この4年間。市長選挙は厳しかった」
岩上「ついこの間の選挙もね、厳しかったです」
翁長夫人「そうそうそう。名護市長選も厳しかったでしょう?」
岩上「負けました」
▲渡具知武豊(とぐち たけとよ)名護市長
翁長夫人「(翁長知事が)でも、樹子(みきこ)ねぇ、って。『ウチナンチューが一生懸命考えて、もう、どうしたらいいかわからなくて、いろんなことを考えながら暮らしてね、あれなんだから。これを恨みに思ったらいけないよ』って言ってたの」
岩上「ああ、そういうふうに」
翁長夫人「だから、『ウチナンチューは皆わかっているよ』って言葉に行き着くわけですよ。『本当はわかっているよ』って言って」
岩上「なるほどねぇ」
翁長夫人「だから……」
岩上「恨みに思ったらいけないよ、っていうのは」
翁長夫人「ウチナンチューが一生懸命、僕たちと同じウチナンチューが、一生懸命考えて下した結論で、『ダメだよーって、それを責めたらいけないよ。何でよ、と思ったらいけないよ』って。『皆、一生懸命考えたんだよ』って言ってたの」
岩上「なるほどねぇ。どちらに決断下しても……」
翁長夫人「ウチナンチューが考えたんだよ、って。『同じウチナンチューが考えて下した決断なら、しょうがないよ』って言って。それでも、ウチナンチューは決して心の中のものは失くさないから。必ずこんなふうに持ちながら、成長する」
岩上「私ね、先ほど、(翁長知事に)単独インタビューさせていただいたと申し上げたときに、本当に忘れられない言葉がありまして。インタビューで、しつこいくらい、『なぜ、こういうお立場だったのに変わっていったんですか』って。そのあたりをしつこく(尋ねた)」
翁長夫人「いやー、変わってなかったのよ」
岩上安身に「ミサイル2発で沖縄は終わるんだ!」と声を強めた在りし日の翁長知事。有事に狙い撃ちにされる故郷への思い
岩上「いや、そうなんだって思うんですけど。それをね、やっぱり、『どうしてなんですか』ってのは、やっぱりしつこく聞くわけですね。で、翁長さんはですね、その『イデオロギーよりアイデンティティー』っていうような言葉が、あのあと、ずっと流行り、そして今も、そのスローガンが受け継がれてるんですけど。
でも、そのスローガンの意味が、単なるカタカナに、今なってるような感じがするんですけど。『アイデンティティーってことは、つまり』って、そのとき、一段と声を大きくして、『沖縄は、ミサイル2発落ちたら終わるんだ!』と」
翁長夫人「そうなの」
岩上「すごく大きな声でね、おっしゃったんですね。『基地があれば、ミサイルに狙われる。そして狙われたら、2発で終わるんだ』と。もう、そういう時代ですよね。時代が時代ですよね。空爆だった時代じゃないんです。
だから、あっと思って。沖縄の人にとって、沖縄がすべてですから。その沖縄がもう、木っ端微塵になって人も住めない、これもう。そのときにも『ミサイル』って言ったのは、『核』って言葉は付けませんでしたけど、核のことをイメージしてらしたと思いますし、放射能を考えたら、人の住めない死の島になってしまったときに、ただ本土でね、受け入れられて、そこで住んだとしても、沖縄の人にとっては、かけがえのない故郷のふるさとの島を失うことになる。そんなことは、あってはならない」
翁長夫人「だから、あなたもふるさとが大事でしょ?」
岩上「もちろん」
翁長夫人「どっか知らないけど、大事でしょ」
岩上「東京です」
翁長夫人「沖縄も一緒なのよ。大事な沖縄なわけ」
岩上「同じですよ」
翁長夫人「私たちの沖縄なの」
岩上「誰にとっても、ふるさとは」
翁長夫人「大事なふるさと。そのふるさとが、こんな風な扱いを受けたら、あなたは耐えられますか、って言いたいの」
岩上「そうですよね」
翁長夫人「あなたは耐えるの? 『日本全体のために我慢しろ』って言われて、『そうなんですね』って言って、我慢できるの?」
岩上「できないですね」
翁長夫人「できないですよね。だから」
岩上「なぜ、沖縄だけが最前線になり、標的になるのか。最前線の基地を造ると、抑止力だと言うけれども、沖縄は、その基地があることによって、敵から見れば、そこを、まず狙い撃ちするわけですから」
翁長夫人「もう、だから、ひとつだけ。もう言いたいと思ってるのは、たとえば沖縄が、もう、これ以上嫌だと思って基地の反対運動をするけど、じゃ、そういう基地を『どっかに持ってけ』とね、正直、皆、思ってるかどうかったらね。『持って行ってもらえたらありがたい』とは思っているけど、じゃあ『持ってけ』と思っているかっていうと、私はちょっと、そうじゃないと思う。私は、そうは思ってないわけ。沖縄が、もう『NO』と言った時点で、沖縄でこんなに嫌なのに、あなただって嫌で、この方だって嫌なはず、この方も嫌なはず、と思ってしまうわけですよ。
そしたら、皆が嫌なのは当たり前。皆、嫌なの。でも、沖縄も嫌なんです、それは。だから『NO』って言う権利を沖縄は持つし。で、次考えたときに、どんなにがんばってもね、中国、北朝鮮、ロシア、韓国も、台湾も、皆ね、お隣近所。あんな山ほどのいろんなのを使ってね、『今にも戦争を始めます』みたいに準備をするよりは、そのお金を使って、皆と仲良くする方法、考えた方がいい。そうじゃないとね、お互いね、沖縄だけで済まないですよ。そういうことですよ」
岩上「皆、破滅しちゃいますよね」
翁長夫人「うん。皆、一緒に破滅しちゃうの。だから、それを考えたら、もうそろそろね、愚かしいことはやめて、一歩踏み入れるんじゃなくて、一歩退いて、お互いにね。きちんと歴史の整理もして、歩み寄るとこ歩み寄って、お互いウィンウィンで、いい関係を作っていく方がよっぽど建設的よ。『何なの、何考えてんだろう?』って、とっても思うの、私」
死の12日前、「辺野古埋め立て承認の撤回」を語った記者会見30分の壮絶! 「できるかなぁ、と初めて弱音を吐いて……」
岩上「うん。本当にですよねぇ。貫かれました。そして、お迷いもね、いろいろあったと思うんです。この4年間の間に、辺野古を、最終的に承認を撤回するという、ここに至るまで、『もっと早くやってくれ』って言う人もいたかもしれませんけれども、あらゆるいろいろな情勢を考えて、結論としてですね、承認撤回をするということを表明された、と。この表明をされて、そしてそれが、がんに罹っているということと、ほぼ同時期だったですよね。がんであることを明らかにしたのは、5月……」
翁長夫人「4月ですね」
岩上「4月にわかって」
翁長夫人「わかって」
岩上「5月に表明したって。4月にもう、表に出してたんですか。そうじゃないんですよね?」
翁長夫人「いや、出してたはずよ」
岩上「あ、そうですか」
翁長夫人「うん。即だったと思う。即入院だったし。あ、即、言ったかどうかは覚えてないけど、少なくとも即入院でした」
岩上「即入院だった。このときは、正直どうだったんでしょうか。『まだ、大丈夫だ』っていう思いは、ご本人、あるいは奥様にあったんでしょうか?」
翁長夫人「もう、覚悟のね、すごい、もう……。変な話だけど、もう言っていいのかな。わかった時点で、私には『12月までもたないと思う』って言ってた」
沖縄の事情が少しわかりました。私たちは余りにも沖縄について知らな過ぎたと思います。対岸の火事ではなくおしゃるように自分の故郷の事なのですね。日米地位協定何とかならないかと思います。 日本が主権を取り戻す日が早く来ますように。