7世紀後半、白村江の戦い(663年)で、百済遺臣軍とともに唐・新羅連合軍と戦い、大敗北を喫した倭国は、古代最大の内戦・壬申の乱(672年)を経て成立した天武・持統朝において中央集権体制を確立し、「日本」と名乗るようになった。「大王(おおきみ)」を、中国の皇帝に対抗しつつ差異化をはかるために「天皇」と号するようになったのも、この時期と考えられる。
また、『古事記』『日本書紀』を編纂し、「天皇」家による「日本」支配の正当性を、「歴史(および神話)」の形を借りたイデオロギーによって確立しようと図ったのもこの時期だ。外征軍の大敗と大規模な内戦という2つの戦争が、倭国から「日本」への変貌を遂げ、「天皇」制を生み出す契機となったのである。しかし、その時期においてなお、「神道」はまだ確立していなかった、という。
岩上安身は2016年11月22日に『「神道」の虚像と実像』の著者である井上寛司氏に単独インタビューを行い、中央集権化の過程で、「日本」という国号や「天皇」号、さらには「神社」までもが創出されていった経緯を聞いた。
インタビュー2日目となる11月23日、話題は中世と近世へ展開。井上氏によれば、『古事記』『日本書紀』といった天皇神話の編纂や「神社」の創出によって確立された「神祇信仰」を、「神道」として成立させたのが、室町時代の神主・吉田兼倶(よしだ・かねとも)であるのだという。
- 収録日時 2016年11月23日(水) 14:30~
- 配信日時 2017年1月8日(水) 18:00~
- 場所 島根大学(島根県松江市)
「信仰」から「宗教」へ――吉田兼倶の理論化・体系化によりはじめて「宗教」となった神道
学術的な定義によれば、ある信仰形態が「宗教」として成立するためには、「プラクティス(実践・儀礼)」と「ビリーフ(信条・教義)」の両面を備えていなければならない。井上氏は、古代以来の「神祇信仰」にこの両面を付与し、宗教としての「神道」を確立したのが吉田兼倶であったと説明する。
「吉田兼倶が画期的だったのは、『唯一神道』として神道理論を体系化したことです。儀礼体系としての神祇道は古代から同様に続いているのですが、中世に入って『神々についての思想的解釈である神道(神道教説)』が生まれ、それを統合するかたちで『吉田神道』が成立しました」
▲京都市左京区の吉田神社境内にある斎場。吉田兼倶の構想により、1484年に建てられた(写真:Wikipedia)
吉田兼倶は、『唯一神道名法要集』という書物で、『古事記』『日本書紀』に記述された天皇神話に対して思想的解釈を行い、神道教説を体系化した。7世紀後半に創出された「プラクティス」にこうした「ビリーフ」が加わることで、中国の仏教とは異なる宗教としての「神道」が、日本史上初めて成立したのだ。
「神道」は、大日本帝国において鼓吹されたような、古代(どころか神代)以来、変わることなく続いてきた「日本固有の民族的宗教」などではなく、中世にこそ成立したものなのだと、井上氏は説く。
対外侵略の肯定へと向かった「神道」~幕末における「国体論」の萌芽
中世において、ようやく宗教としての条件を整えた「神道」だったが、近世に入ると時代の波に揺さぶられて、再び変化を余儀なくされることとなった。
大日本帝国による侵略戦争を正当化した「国家神道」の思想が芽を吹き出す。この思想に決定的な影響を与えたのが、幕末における「国体論」の登場と流行である。