「死んでもこの世に残り、たたり続ける」――。
2017年12月7日、東京都江東区にある富岡八幡宮で、宮司の富岡長子氏が殺害された事件で、富岡長子氏を殺害した後に自殺した弟の茂永容疑者が、事件直前に氏子あてで投函したとみられる手紙を、事件2日後の9日、IWJ代表・岩上安身が入手した。
手紙は「約30年にわたる富岡家の内紛について、その真相をお伝えさせて頂きます」とし、姉や両親への恨みが8枚の便箋に1万文字以上で綴られていた。さらに、関係者に対して姉を神社から追放し、自分の息子を宮司に据えることも要求。「実行されなかったときは、死後においてもこの世に残り、たたり続ける」と強い怨念が込められていた。
この手紙は、富岡八幡宮の氏子宛てに送られていた。内容は、殺害された姉・長子さんや両親に対する恨み、そして、宮司の地位をめぐる家族間でのトラブルの経緯が、中学生時代までさかのぼりつづられている。
手紙の本文中では、姉に対する執拗なまでの恨みがうかがえる。
「私の姉で現在の宮司(宮司代務者)である富岡長子は、中学生のときから、シンナーや覚せい剤、男遊びなどに溺れ、高校にも行かず、錦糸町の喫茶店で、ウエイトレスのアルバイトをしながら、家出同然の生活をしておりましたが20歳の時に喫茶店の客として来ていた国鉄勤務の男性と結婚し、一児をもうけました。しかしその異常なまでに激しく、乱暴な性格から、子供を捨て出戻って来る事になりましたが、中学しか出ていない姉を雇ってくれる会社もなく、当時宮司であった父の██が神社の経理をさせる事にしたのです」
また、姉の長子氏が宮司になれない理由を、女性だから神社本庁が認めないという問題点には触れず、宮司としての資質がないからと激しく非難している一文がある。
「一般的にも神社本庁傘下の神社では宮司代務者は研修歴が足りない等の理由でも1~3年が常識で、5年間宮司代務者の者は、生涯宮司にはなれないとも言われています。社家に生まれ研修も全て終了しているのに、6年以上も宮司になれなかったのは、富岡長子だけでしょう。しかも4回も責任役員会が具申書(推薦書)を提出したとの事。前代未聞の恥さらしです。神社庁も神社本庁も、富岡長子が如何に薄汚く、あくどい事を繰り返してきたのか、お見通しだったから、最後まで宮司にしなかったと云う事でしょう。神社界では非常に嫌われています。富岡家の、そして富岡八幡宮の末代までの恥さらし、富岡長子を富岡八幡宮から永久追放しましょう」
殺害された姉の長子氏の宮司としての資質に問題があったかどうかはさておき、内情をこれでもか、これでもかとばかりに暴く執拗さには驚かされる。この手紙が外部の人物による怪文書の類いではなく、弟の茂永容疑者の真筆である可能性は高いと思われる。
富岡八幡宮は江戸初期に創建された歴史の長い神社で、将軍家の保護を受け、「深川の八幡さま」として信仰を集めてきた歴史がある。また、江戸勧進相撲の発祥の地として、「横綱力士碑」など、相撲関連の石碑が境内に立つことで有名な神社だ。
また、この姉弟の祖父で18代宮司だった富岡盛彦氏は神社界で重要なポストについていた。盛彦氏は鹿島神宮(茨城県)で宮司をした後、49年に岳父の後継として富岡八幡宮の宮司に就任。59年には神社本庁の事務総長に就いている。このあたり、国家神道再興と政治に首を突っ込んで日本の右傾化をすすめようとするきなくさい動きとの関わりが濃厚に感じられる。
最晩年には、臨済宗円覚寺派管長の朝比奈宗源氏や「生長の家」創始者の谷口雅春氏、明治神宮の伊達巽宮司らと「日本会議」の前身組織の一つである「日本を守る会」の設立(74年)に関わっている。
しかし、富岡八幡宮は2017年9月に神社本庁から離脱。2010年に姉・長子氏を宮司にするよう神社本庁に具申。ところがその後、5回の具申にもかかわらず、発令はなかった。
この事件は、「宮司の地位をめぐる家族間トラブル」にとどまらない。事件の背景には神社本庁が女性宮司を認めないという、問題点も潜んでいる。
神社本庁は全国8万社の神社を管理・指導する神社界の中枢であり、総元締めでもある。そしてその地方機関である神社庁は、「神道政治連盟(神政連)」という政治団体と関係が深く、現・安倍政権とも深いかかわりがある。これらの問題については、追って続報をお届けする。
以下、どこのメディアでも公開していない茂永容疑者が書いたと思われる氏子あてへの手紙の全文を公開する。
なお、文中には様々な関係者の名前が出てきているが、そうした名前は伏せている。また、誤字・脱字については原文のまま表記していることを御了承願いたい。
1
ご関係の皆様
富岡八幡宮 元宮司 富岡茂永
富岡八幡宮及び富岡家の内紛、お家騒動、歴代宮司(宮司代務者)の数々の不祥事につきましては、氏子崇敬者を始め、神社界の皆様、ご関係各位に、長期に亘り多大なるご迷惑と、ご心配をお掛け致しました事、衷心よりお詫び申し上げます。
さて、先ずは約30年に亘り続きました、富岡家の内紛について、その真相を此処にお伝えさせて頂きます。私の姉で現在の宮司(宮司代務者)である富岡長子は、中学生のときから、シンナーや覚せい剤、男遊びなどに溺れ、高校にも行かず、錦糸町の喫茶店等で、ウエイトレスのアルバイトをしながら、家出同然の生活をしておりましたが、20歳の時に喫茶店の客として来ていた国鉄勤務の男性と結婚し、一児をもうけました。しかしその異常なまでに激しく、乱暴な性格から、子供を捨て出戻って来る事になりましたが、中学しか出ていない姉を雇ってくれる会社もなく、当時宮司であった父の██が神社の経理をさせる事にしたのです。当時の私は、大学を卒業後、皇學館大學の専攻科を修め、富岡八幡宮の権禰宜でした。(私と姉は1学年違いです)姉は名目上神社の事務員でしたが、仕事は殆ど他の事務員に任せ、大検の学校やその後、大学夜間部に通っておりました。身内と言う事で、父も上司である私も黙認しておりました。その頃には、父親の躁うつ病が悪化し、殆ど父が仕事を出来なかった事もあり、私は禰宜から権宮司へと昇進し、実質上、神社の運営を任されていました。そんな中でも、殆ど勤務実態のない姉に肩書を付けてあげたり、給料を他の職員水準より高く出したりと、随分と面倒を見てやりました。【実際は姉の立場と、経理の立場上知り得た私の弱み(交際費)等を悪用し、大声で怒鳴る等の強要・脅迫・恐喝の数々でした。】
私が神職になりたての頃、父は神社界で非常に評判が悪く、大事なお祭りをさぼったり、1年に2~3日しか神社に出社しなかったり、神社界の活動にも殆ど顔を出すこともなく、██の代理で私が神社界の会合に出席した時や、事ある度に、他の神社の宮司から、父の嫌みや苦情を言われていました。私の祖父富岡盛彦は神社本庁の総長まで務めた人間でしたので、いつも祖父と父を比較され、「お前のオヤジは・・・。」と言われ、それは悔しい思いをさせられました。私は、いつか神社庁の庁長になって、富岡八幡宮と富岡家の栄光を取り戻そうと、死に物狂いでした。