『人間なき復興――原発避難と国民の「不理解」をめぐって』の著者の一人で、福島原発事故により富岡町から東京に避難した、市村高志さんをゲストに迎え、5月11日、「原発避難の3年間」と題した講演会が開かれた。
市村さんの自宅がある福島県富岡町は、福島第一原発から10キロ圏内。当時、震度6強の地震と、21メートルの津波が町を襲った。市村さんは、2011年3月11日に時を戻したように、当時を振り返った。
「いまだに、その日の帰り道が思い出せない」
市村さんの体験談は、立っていることも、座っていることもできなかったという大地震による混乱を、まざまざとよみがえらせるようだ。
- 市村高志氏(福島県富岡町からの避難者、とみおかこども未来ネットワーク理事長)
「福島第一原発が危ない」
12日の朝、富岡町の防災無線が鳴った。「全町民、避難してください」というアナウンスに、「津波は去ったのになぜ?」と市村さんたちは疑問に思ったという。しかし、「福島第一原発が危ない」という表現に「ハッと気づいてしまった」と市村さんは語る。避難先は、原発から20キロ~30キロ圏内の川内村だった。
「聞いた瞬間に皆、車を走らせていった」が、市村さんはガソリンがなく、すぐに避難することができなかった。避難できない人々は、自治体の施設に集合するようアナウンスがあり、そこでバスを待って、川内村へ向かうことになった。
「爆発したから逃げたんじゃないんです。爆発する可能性があると聞いたから逃げたんです」。当時は、まだ原発は大丈夫だろうということで、「1週間もすれば帰ってこれる」といった軽い認識だったと市村さんは振り返る。
通常、川内村までは30分ほどの道のりだが、この時は4時間かけてたどり着いたという。歩く人、自転車の人も見かけたと市村さんは現場の様子をありありと語った。移動に丸一日かかったが、支給された食料はおにぎり1つだった。
「避難所に着いて、落ち着いたところで見たのが爆発の映像だった」。この時、市村さんは、「もう帰れないかもしれない」と思ったという。ヨウ素剤が配られるも、それが何なのか、よく分からず、小さい子を抱えた母親が、乳飲み児に初めて口にさせたのがヨウ素剤だったというケースも目にし、いたたまれなかった思いを話した。
「避難所での情報伝達手段は、2本の衛星電話しかなかった」。携帯電話が通じず、ラジオも聞くことができない中で、市村さんたちは、テレビから流れる原発が爆発した様子をただただ見ているしかなかった。
「自衛隊もいない、警察もいない。いるのは地元の消防団しかなかった」。情報が得られない恐怖と、移動できない心細さがつきまとっていた。市村さんは淡々とした語り口で、当時の思いを語った。「見捨てられたんじゃないか、隔離されたんじゃないか」。
16日には、川内村にも全村避難指示が出た。市村さんが震災後、初めて身内と電話で会話できたのも16日。震災から6日後のことだった。市村さんの一家は、知人に助けられて北茨城市に一時避難した。
子どもたちが負った深い心の傷
「もう(富岡に)帰りたくない」。震災から3年が経過した今、市村さんの子どもたちは、こう話しており、その理由は、「もう被災者とは呼ばれたくない」からだという。子どもたちは、「福島から来た」と言うと、「放射能のところね」と何気なく返される言葉に、深く傷つけられてしまっている。
自分が生まれ育った場所に「帰りたくない」という子どもたちの心境は複雑で、市村さんの講演を聞いていた参加者が、「本当は帰りたいんでしょうね」と言うと、市村さんは「そうなんです」と大きくうなずいた。
福島には、そこで暮らす大勢の人々がいる。また、県内、県外を問わず、避難先で暮らす多くの福島の人々もいる。そうした環境の中で、市村さんが懸念しているのは「差別」の問題であるという。よく巷で耳にする「放射能に負けない体を」というような表現は「差別ではないか」と市村さんは指摘。自身は、「健康の問題は分からないことだから、言わないようにしています」と語った。
無視をされる住民票を持たない人々