3.11直後の被災地に生じた「情報伝達」がらみの問題を議論する場合、批判の矛先は国や東電など、情報提供者にのみ向けられてきた感がある。しかし実際は、風説の流布では、その情報の真偽が確認されないまま、インパクトのある言葉のみが広がっていくという、情報を受け取った側の問題に根差していたケースが多々あったのも事実──。
2014年3月29日、福島県須賀川市のレストラン、銀河のほとりで開かれた「311後の報道・情報~あの時人々はどう動いたか?Vol.2」は、こうした観点で継続的に実施されている、市民勉強会の第2回目。中心的人物の岩田渉氏(市民放射能測定所)は、「福島第一原発が、今なお不安定である現状に鑑みると、次に非常事態が起こった場合に備え、政府やメディアからの情報提供に頼り切らない体制づくりを、市民が自らの手で行うことが急務だ」と力説する。
勉強会の第2回目となるこの日は、インターネットで生中継されおり、特設サイト(311後の報道・情報~あの時人々はどう動いたか?)を通じて、視聴者から、3.11後に福島に起きた被曝関連のエピソードを集め、それぞれの事実確認を行う作業が中心となった。
記憶と記録、ネットを駆使して照合
たとえば、高校教師の男性が「地震発生直後に摺上川ダムの送水が停止され、福島市とその近辺で断水が起こった。その中で、かろうじて残っていたのが、飯舘村からの簡易水道だったが、あとになり、その水に放射能汚染が見つかって問題になった」と報告した。
これに対し、岩田氏から「汚染が見つかった時期はいつか」と質問がなされると、男性は「全国ニュースに流れたのを見てわかった、という状況だった」と回答。岩田氏は即座にネットで検索し、「福島県の原子力センター福島支所によって、川俣町を含む県内7ヵ所で測定された水道水中の放射性物質に関する情報を基に、厚労省が発表している」と割り出す、といった機動的な展開が何度も繰り広げられた。
「学校再開」がひとつの分岐点
また、ある女性は、低線量被曝を懸念する保護者が、子どもの登校や給食摂取を嫌うと、個別に校長から呼び出しがかかった事実を明かした。「その対応も、校長によってまちまちだった。『そんなことをする家庭は、あなたのところだけ』と言われるケースがあった」。
2011年4月、学校の「新学期開始」が、その後の被災住民の暮らしを方向づける大きな要因になった、との認識を示した岩田氏は、「3月の時点では『避難する』ということを前提に、必要情報を得ようとする動きが、被災地住民の間では主流だった。だが、4月に入り学校が始まると、『今いる場所で被曝リスクを極力軽減するには、どうすればいいいか』という方向に、情報取得のニーズがシフトした」と述べた。