「ほとんどの人は避難して、残ったのは病人や障害者、高齢者など。あんたたちが残ってるから役場も避難できない、と言われても、遠方へ移るのは困難だった」──。
2014年3月8日、札幌市中央区の共済ホールで「泊原発の廃炉をめざす会」主催の講演会「3.11福島原発メルトダウンその時ー現場と官邸からの真実」が行われた。福島県南相馬市在住の看護師、大和田みゆき氏と、元内閣総理大臣の菅直人氏が、それぞれから見た福島第一原発事故について語った。また、菅氏と市川守弘弁護士との対談のあと、泊原発廃炉訴訟原告で高校生の戸苅春香氏が、大人に向けてのメッセージを読み上げた。
- 主催あいさつ 斉藤武一氏(泊原発の廃炉をめざす会原告団長)/小野有五氏(泊原発の廃炉をめざす会共同代表、北海道大学名誉教授)
- 講演 大和田みゆき氏(南相馬市在住、看護師)「現場の真実」
- 講演 菅直人氏(元内閣総理大臣)「官邸の真実」
- 対談 菅直人氏×市川守弘氏(泊原発の廃炉をめざす会弁護団長、弁護士)
- 高校生からのメッセージ 戸苅春香氏(泊原発の廃炉をめざす会原告)
- 閉会あいさつ 常田益代氏(泊原発の廃炉をめざす会共同代表、北海道大学名誉教授)
奥尻地震で「泊原発事故」が起きていた可能性も
主催者あいさつに立った斉藤武一氏は、「地元は、50年も泊原発に振り回されている。私も『原発に反対すると不幸になる』と言われたが、原発があること自体が、不幸なことだ」と述べた。
小野有五氏は、泊原発で事故が起きた場合のシミュレーションを示して、「北海道上空の風は常に西風。札幌は泊から60キロ風下になり、事故の際には1時間あたり10マイクロシーベルトが予想される」と語り、「避難計画では、泊原発周辺住民は札幌に避難することになっている。だが、札幌市民だって逃げなくてはいけない」と警鐘を鳴らした。
さらに、日本海側の海底の地形と活断層について説明し、奥尻島に大きな被害を与えた北海道南西沖地震(1993年)に言及。「あの時、奥尻海嶺の東側の活断層が動いていたら、泊原発を津波が襲って大事故になり、札幌市民は生きていないかもしれない。『生き残った』私たちは、未来の北海道のために原発を止めなくてはいけない。それが、3.11を知ったわれわれの役目だ」と訴えた。
避難できないのは要介護者、障害者、高齢者などの社会的弱者
自身も身体障害を抱えながら、南相馬市の産科クリニックで看護師として働くシングルマザーの大和田みゆき氏は、原発からの避難について、「福島第一原発から24キロ地点に3人の子どもと住んでいたが、障害がある私にとって遠くへ避難することはとても難しく、私が選択したのは自宅にとどまることだった。しかし、その後の生活は追い込まれた。食べるものがまったくなくなった。コンビニエンスストア、スーパー、どこにも何もない。家族4人、このまま餓死するのではないか、という危機感に襲われた」と当時を振り返った。
大和田氏は「当時、ほとんどの人は避難してしまったので、医療現場はものすごく混乱した。残った住民は、重度の介護の必要な人、障害者、高齢者で、受けたい医療が受けられない状況に陥った」と、社会的弱者ほど過酷な状況に置かれた事実を語った。さらに、「原発から30キロ圏内の南相馬市は、本当は役場も移したかったと思う。ところが、私たちのような家族が残っていたために、市職員も避難できなかったし、役場機能も移転できなかった。『あんたたちが残ってるから、避難できない』と言われたこともあるが、頭を下げるしかなかった」と続けた。そして、北海道の聴衆に向けて、「泊原発のことが心配だ。福島で起きた原発事故が、二度と他の地域で起こらないでほしい」と語りかけた。
福島第一原発のメルトダウン開始は地震発生の4時間後
菅直人氏は、3.11当時について、「まず、入ってきたのは震度やマグニチュードの情報。そして、原発について最初に入ってきた情報は、『福島原発を含めて、被災地の原子力発電所は無事に停止した』ということだった。しかし、それから50分ほど経った時点で、『福島第一原発がすべての電源を喪失した』との情報が入り、さらに、それを追いかけるように、『すべての冷却機能が停止した』という知らせが入った。そして、いつメルトダウンしたのか、改めて調べてみると、地震が起きて、わずか4時間後の3月11日18時50分の時点で、水が蒸発して燃料棒が頭を出し、メルトダウンが始まったというのが、今の検証結果である」と述べた。
原発の爆発に関して、「12日の朝、私が福島原発に入ったことについて、いろいろ議論があるが、そのヘリコプターの中で、私は原子力安全委員長の班目春樹氏と一緒だった。メルトダウンすると水素が発生しやすいので、専門家である班目氏に『水素爆発は大丈夫か』と聞いたら、『それは大丈夫です。水素が出ても、格納容器の中には窒素が充填されていて、酸素がないので大丈夫』ということだった。専門家が言うから大丈夫、と思っていたら、12日の午後3時前後に爆発した。結局、水素が発生して、圧力容器、さらに格納容器から建屋にまで漏れて、何らかの形で火がついて、あの建屋が爆発した」と振り返った。
法律上、「原発事故と地震は別々に起きる」ことになっていた!
対談で、市川守弘氏から、原発事故発生時に、トップであった菅氏が動かなければならなかった理由について問われると、菅氏は「原子力災害対策本部ができた時に呼んだ、原子力安全・保安院のトップの話がよくわからないので、『あなたは原子力の専門家ですか』と聞いたら、『私は東大の経済学部出身です』と返ってきた。原子力安全・保安院は経産省の機関なので、経済の専門家がいてもいいが、事故の時に中心になるべき人が原子力の専門家でなかった」と答え、次のように続けた。
「もうひとつ、厳しい事故が起きた時の避難を誰が判断するのか、法律で決まっていた。しかし、現地対策本部長が、現地に着くと停電しており、集まるべき人も集まっていない。だから、現地からの情報や避難案が上がってこない。現地対策本部が、事実上機能できなかった。なぜなら、法律上は、地震と原発の事故は、別々に起こることになっていたからである。だから、私がドタバタやったと言われたが、あの時、じっと官邸にいても何も情報が来ない状況だったのだ」。
これに対して、市川氏は「国民的には、すごく恐ろしい話である。情報が適切に上がり、それを処理、判断して、総理に具申、あるいは承認をもらう手続きが本来はあるのだろうが、その時は情報も来ないし、情報を適切に処理して方針を立てる実務レベルの人たちも、機能しなかったということか」と確認した。
菅氏は「他の部門で、こういうことはない。日本の官僚組織は、いろいろあるにしても、それなりの力を持っている。したがって、何かあると大臣よりも詳しい官僚の専門家が出てくる。それが本来の姿。ただ、原子力事故に関しては、事故が起きないことになっている。だから、法律やコストの話をする専門家はいるが、事故が起きた時にどう対応するかの専門家がいなかった。広い意味では、時の総理である私の責任であるが、大きな事故が起きた際に対応できる人事体制ができていなかった」と回答した。