「高名な教授(山下俊一氏)が話しているから、ラジオ福島を聞け、と友人に言われた。アナウンサーも山下教授を絶賛。一緒にいた母親たちは安心しきった」──。
2014年3月2日、福島県須賀川市の自然食レストラン「銀河のほとり」で、イベント「311後の報道・情報~あの時人々はどう動いたか?」が行われた。東日本大震災と原発事故の後、メディアや行政機関、学者らが、どのような情報を発信し、人々がどう行動したか。2011年3月の出来事を中心に、参加者たちがプライベートに得ていた情報を、当時の公開情報と比較し、時系列に検証していった。
「フランス政府が海外退去を公表していたにもかかわらず、『外国人が日本から逃げ出しているという、悪い噂がネットで出回っている』と報道されていた」「郡山のラジオ局は、山下教授の『笑っていれば大丈夫』という放送をせよと、福島県から強要された」など、当時の様子が次々に語られた。参加者の1人は「こうやって、当時のことをひとつずつ検証していくと、改めて恐ろしくなる」とつぶやいた。
報道のトリック「検出限界以下(ND)→ゼロ」
はじめに、市民放射能測定所CRMS理事の岩田渉氏が、「最近、日本医師会総合政策研究機構(日医総研)と日本学術会議のシンポジウムで、日医総研が福島県外の健康調査について言及したのだが、NHKの報道では、福島県内の健康被害の話にすり替わっていた。つまり、報道で、福島県外の健康被害を語ることは、タブーになっていることがわかる」と話した。
続いて、2011年4月末から、フランスのNGO CRIIRAD(クリラッド)との連携から学んだ情報の検証方法と、その重要性を説いた。そして、情報が変質していく実例を、地元紙の福島民友が2013年10月8日に出した「20ミリシーベルト以下・健康影響なし」という記事を用いて解説していった。
また、放射性物質の測定値を「検出限界以下(ND)→ゼロ」、犠牲者数を「○万人増加→0.000 x %増加」などと、別の言い方に置き換えて印象操作する例を示して、「報道する側は、あえて受け手側に誤解されることを見越して使う場合もある」とした。
その上で、「それが効果を発揮するのは、マスコミ報道を信じる人たちがいるからだが、なぜ、そういった報道が信じこまれてしまうのか、考えていかなければならない。そして、リスクコミュニケーションの嵐が吹き荒れる時に、揺らがず、自分が必要な情報にたどりつけるように、また、人に伝えられるようにしたい」と述べた。
「具体的な情報は発表するな」と郡山市長
休憩ののち、参加者たちが実際に見聞きした情報を出し合い、それらを公表されている情報とすりあわせ、検証するワークショップが始まった。
まず、須賀川市在住の参加者が「3月11日~15日。外出時はマスクをし雨具を装備するよう、放送する車の音声を確認した(発信元不明)」と発言した。郡山市でラジオ局に勤めていた人は、「3月11日の夜中、郡山市防災課から『開成山の対策本部に来てくれ』と電話があった。3月12日、対策本部会議で、自衛隊の線量計の数値を『これは安全な数値です』と発表した(数値はわからず)。同日、浜通りから避難した人々が(放射線量の)スクリーニング検査を受け、シャワーを浴びていたことについて、『具体的な情報は発表するな』と郡山市長の指示があった」と当時を振り返った。
「安全」を言うマスコミ報道とはまったく違う状況
埼玉在住の人は「テレビ朝日で原発の爆発の光景を放映していたが、NHKでは報じていなかった。それを見て、マスコミに疑問を持ちはじめた」。二本松在住だった人は「テレビ、ラジオは安全しか言わない。ハワイに住む娘から『危険だから逃げろ』と電話が入った。友人からの電話は『とにかく逃げろ』ばかりだった」と話した。
3月12日に、静岡県からいわき市に救援に入った人は、次のように語った。「浜岡原発の立地なので、われわれのグループにはヨウ素剤の備蓄があった。2000人分のヨウ素剤を、いわきの避難所に持っていったが、市職員から『ヨウ素剤を受け取れば、ここが放射能で汚染されていることになるから、持ち込むな』と断られた(しかし、いわき市は18日からヨウ素剤を配布)。自分たちは細野豪志議員の支持グループだったので、(放射能被害を)公表するように陳情したが、公表されなかった」。
川俣町からの参加者は「12日夜中、ラジオで原発職員が撤退すると話していた。また、原発から、たくさんの車が逃げているのも目撃した」と語り、当時の情報の錯綜ぶりと、政府、自治体の隠蔽体質、重ねて知識不足が住民の混乱に拍車をかけていたことを示唆した。
ヨウ素剤配布の三春町に「回収せよ」
次に、当時の政府の対応を、時系列に紹介した。「3月11日、菅首相(当時)災害対策本部長、3キロ、10キロ、20キロ圏内に避難指示。13日、福島県が身体除染のレベルを10万cpmに引き上げる。14日、米空母ロナルド・レーガンで兵士が被曝。展開中だった米軍艦船、福島原発の風下から離脱」。
「14日、屋内退避指示。15日、作業員の実効線量の限度を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げる。独自判断で住民にヨウ素剤を配布していた三春町は、県からヨウ素剤の回収命令を受ける。19日、食材から基準値を超える放射性物質が検出との報道。20日、川俣町では、県の薬剤師会からヨウ素剤配布の指示が出る」。
新潟から参加した人は「3月11日22時、東電がメルトダウンした報告を官邸に提出していた。爆発後は、福島県医師会が、県内の医師に対して、放射能に関する治療と支援活動を禁じたと、関係者から伝え聞いた」と話した。
水素爆発と1時間10分の沈黙
そして、1号機の水素爆発については、ジャパンタイムズ記者が上杉隆氏(ジャーナリスト)と伊藤守氏(早稲田大学教授)にインタビューした記事で、検証していった。「水素爆発の映像を、主要テレビ局は爆発から1時間10分後に、ほぼ同時に報じた」とのくだりで、参加者からは「やはり、どこかが情報を止めていた」との声が上がった。
会津からの参加者は「3月12日か13日、ラジオ番組で新聞の科学記者が『仮にメルトダウンという最悪の事態になっても、健康被害はありえません』ときっぱりと語っていたので、安心してしまった」と回想した。
そのほか、「長距離トラックの運転手たちは情報が早かった。無線で連絡をとり合って、西へ逃げていた」「薬品会社の営業マンから、東京の病院内でも、レントゲンフィルムが(放射能で)感光していた話を聞いた」「三春町までヨウ素剤をもらいにいった」「(ヨウ素剤の代りに)イソジンを飲んでいる人もいた」「フェイスブックから得た海外情報だけが頼りだった」「逃げずに残っていた人たちは、テレビ、ラジオの放送を信じて行動していた」などの発言があった。
放射線量も測らず、学校再開に前のめり
教育現場を巡る情報に、話題は移った。ある保護者は「入学式を延期してほしかったが、だめだった。文科省は、福島県内の小学校の放射線量を、4月5日~7日に大急ぎで測ってまわったが、1校あたり敷地の1ヵ所しか測定していない。学校を再開し、子どもたちを戻すために、低い数値を選んで発表したり、ねつ造や改ざんの可能性もあったのでは」と疑問を口にした。
岩田氏が、当時の資料から、「福島県は3月の時点から、国に学校再開許可を要求。3月21日、日本気象学会が会員に向け、大気中に拡散する放射性物質の影響について、発表自粛を要請」と読み上げた。
東海、女川、浜岡。各原発のベントによる影響は?
また、ある参加者は「東海村の村上村長が講演で語っていたが、3.11で東海第二原発も津波を受け、原子炉内が高圧になって170回もベントしたという。東京の放射能汚染は、福島第一由来だけではなく、東海第二のベントも関係しているはずだ」と指摘した。
それを受けて、ほかの参加者が「女川原発も、浜岡原発も、同様にベントしたのではないか。静岡の茶葉の高い汚染は、浜岡の可能性もある。静岡では、3.11以前から茶葉の放射能測定をしているが、それは浜岡があるからだ。しかし、報道では、東電だけ、福島第一原発だけを問題にしている」と述べた。