具志堅用高の愛弟子が、師の果たせなかった悲願達成に挑む。
沖縄から四半世紀ぶりに誕生したボクシング世界チャンピオン・比嘉大吾(白井・具志堅スポーツジム、WBCフライ級)が2月4日、2度目の防衛戦に臨む。デビュー以降の14戦をすべてKO勝利で飾ってきた比嘉だが、今回もKOで防衛すれば、WBCスーパーライト級元王者の浜田剛史らの持つ15連続KOという日本記録に並ぶ。浜田剛は、具志堅用高、比嘉大吾と同じく、沖縄出身で現役時代は無類のハードパンチャーだった。
▲比嘉大吾の防衛戦を告知するフジテレビのツイッター
期待が高まる一戦だが、それ以上に重要な意味を持つのは、今回の防衛戦の開催地が沖縄であるという点だ。
沖縄の施政権が、米国から日本に返還されたのは1972年。その4年後の1976年、沖縄県出身ボクサーとして初めて具志堅用高氏が世界タイトルを奪取し、一躍、沖縄だけでなく、全国的なヒーローとなった。同一階級で世界王座を13連続防衛した記録は、37年経った今も破られていない。日本ボクシング史に残る金字塔である。
沖縄県は具志堅の登場以来、今日に至るまで比嘉を含めて9名もの世界王者を輩出している。比嘉にとって今回が初の凱旋試合となるが、実はこの沖縄で開催された過去3度の世界タイトルマッチで、日本勢が勝利を飾ったことは1度もない。
沖縄での世界戦勝利は、「100年に一人の天才」と呼ばれた具志堅でさえ成し得なかったのである。
戦後日本を熱狂させたボクシングの歴史!最盛期は視聴率96.1%を記録!
沖縄におけるボクシングは、本土とはまた違う意味を持つ。
今ではボクシングも数ある格闘技の一種目となったが、戦後の日本では国民的に愛された特別なスポーツだった。民間放送が最初におこなった生中継は1952年2月9日、白井義男が戦った日本バンタム級タイトルマッチのラジオ中継だったし、今では到底考えられないが、1955年の白井の世界挑戦のテレビ中継は視聴率96.1%を記録。この視聴率の記録は今も破られていない。今後も破られることはないだろう。戦後に誕生した、テレビという「マスメディアの王様」の発達とボクシングは重なりあう。
▲日本人初のボクシング世界王者・白井義男
1960年代前半には、かつてないボクシング・ブームが起こった。1964年には桜井孝雄が東京オリンピックのボクシングで日本初となる金メダルを獲得し、1965年にはファイティング原田が白井義男に次ぐ2人目の世界王者になり、2階級制覇を達成。その後、世界王者も続々誕生し、黄金時代を築いたが、名ボクサーの引退も重なり、1970年代には徐々に人気に陰りがみえはじめる。
日本人選手がベルトに手が届かず、テレビ視聴率も落ちた、そんな冬の時代に、本土復帰直後の沖縄から彗星のごとく現れたのが、稀代の名王者となる具志堅用高だった。
具志堅用高の先祖は国を追われた琉球士族だった〜「琉球処分」「沖縄戦」で切り捨てられた沖縄
▲13度連続防衛記録を持つ元ボクシング世界王者・具志堅用高
沖縄県の本土復帰から4年後の1976年、具志堅は沖縄初の世界王者に輝いた。日本中が勝利に沸く中、地元の沖縄、とりわけ具志堅の故郷・石垣島はかつてないほどの熱狂に包まれていた。
具志堅家は代々、琉球王国の役人を務めた由緒ある家系だった。しかし1879年(明治12年)の「琉球処分」(琉球王国を明治政府が武力によって併合し、沖縄県として日本領に組み入れた事件)で、7万人とも言われる琉球士族が職や土地を奪われてしまう。具志堅家も例外でなく、具志堅用高の曽祖父は沖縄北部で未開の地を開拓し、自給自足の生活を余儀なくされた。「琉球処分」の歴史は岩上安身が琉球新報・新垣毅編集委員に詳しくうかがっているので、ぜひご覧いただきたい。
半世紀かけて生活の土壌を築いた具志堅家だったが、生活が豊かになることはなかった。具志堅の父・用敬は1941年、貧しい家計を支えるため、15歳で本土に渡り、岐阜県の化学繊維の工場で働いた。化学繊維はその後の太平洋戦争で重宝され、用敬はますます身を粉にして働いたという。終戦間際、沖縄は県民の4人に1人が犠牲となる沖縄戦の惨禍に巻き込まれたが、岐阜にいた用敬が家族の安否を確認する術はなかった。
▲沖縄県民が収容された収容所
終戦から1年後、ようやく沖縄に戻ることが許された用敬が目にしたのは、GHQの支配下で変わり果てた沖縄の姿だった。土地は「銃剣とブルドーザー」で奪われ、潰され、住民は強制的に「収容所」に入れられていた。この経験が、どれほど沖縄の人々に深い傷を残したか。沖縄戦と占領下の沖縄でトラウマを負った患者らを数多く診察した精神科医・蟻塚亮二氏に、岩上安身はロングインタビューを行っている。この機会にご覧いただきたい。
高校で運命的なボクシングとの出会い!具志堅用高は貧乏でなければボクサーになっていなかった?
幸い、用敬の家族はガマ(自然洞窟)に避難し、戦禍を切り抜けることができた。用敬は仕事と食糧を求め、カツオ漁が盛んだった石垣島に出稼ぎにゆく。そこで後の具志堅用高の母・ツネと出会い、石垣島で家庭を築いたのだった。
4兄弟のうち3番目だった具志堅用高は身長も低く、生まれたときも未熟児だったという。具志堅は産経新聞のインタビューで、「牛乳が飲める家にあこがれました。よく門の前で牛乳瓶を見かけました。そういう家は裕福でね。私も飲みたかったが、家が貧乏だから飲めません。もし牛乳を飲んでいたら背が伸びただろうね」と貧しかった少年時代を振り返っている。
具志堅は、試験用紙に名前を書き忘れるというまさかのミスで石垣島の高校進学に失敗し、那覇市にある興南高等学校に入学する。具志堅はボクシング部に入部したが、ボクシングを選んだのは身長が低すぎて野球部への入部が叶わなかったためだと言われている。もし牛乳が買えるほど裕福な家庭に生まれ、本人の希望通りに身長が伸びていれば、野球少年となり、リングに上がることはなかったかもしれない。
具志堅は高校時代に、ボクシングの指導者・金城眞吉と運命的な出会いを果たしている。金城は沖縄県内の高校でボクシングの指導にあたり、延べ40人もの全国王者を育て上げた伝説的指導者で、「ボクシング王国・沖縄」を築いた最大の功労者と言っても過言ではない。2011年からは東洋大学ボクシング部の監督を務め、金メダリストでWBAミドル級世界王者の村田諒太も指導した。
金城の指導のもと、具志堅はボクシングの才能を瞬く間に開花。高校3年の時にはインターハイで全国優勝も果たしている。
そんな金城は昨年11月16日、73歳で死去。告別式では具志堅が「いまだに監督のミットの音が聞こえる。世界チャンピオンになった時の監督の喜んだ顔が忘れられない」と弔辞を読み上げ、言葉を詰まらせながら「監督から教えられたことを守り、ボクシング界のために頑張っていきたい」と語った。
沖縄で初の世界チャンピオン誕生!しかし上京直後は「沖縄出身だとわかるとアパートも借してくれなかった」
具志堅は高校卒業後、拓殖大学への進学が決まっていたが、両親を楽にさせたいという思いも強く、名門・協栄ボクシングジムからプロデビューすることを決断。具志堅の才能に惚れ込んだ金平正紀会長が全力で口説き落としたとも言われている。「100年に一人の天才」という異名も金平会長が考えたものだ。
具志堅の上京は、沖縄本土復帰から2年後のことだった。
「東京出てきて、アパートを借りようと思っても沖縄出身だとわかると、貸してくれなかったですね」
差別と偏見に晒されながら、具志堅は経済発展の進まない沖縄を想い、貧しい石垣島の家族を想った。具志堅は自らが彼らの希望となれるよう一心不乱にボクシングに打ち込んだ。