有明。ゴールデンウィークも働きづめだったが、最終日、今日だけはスタッフにもお許しを得て、ボクシングフェスタ5.8へ。井上尚弥王者と八重樫東王者のダブルタイトルマッチ。先日、内山高志選手がまさかまさかの防衛失敗。井上に限っては、と思いつつ、何が起こるかわからないのがボクシング。
有明コロシアム会場の入り口。井上尚弥選手と弟の井上拓真選手のポスター? 兄貴と並んで弟の拓真選手への期待がよく表れている。これまで6戦6勝。
拍子抜けだったのは、期待された松本亮選手。イケメンで長身、モデルもしている、という人気ボクサー。17戦17勝15KO。いやが上にも期待は高まったが、自分よりだいぶ身長もリーチも劣るメキシカンに対し自分のガードの甘さゆえにもらわなくてもいいパンチをもらって、信じられないTKO負け。
八重樫選手、序盤から中盤まで、相手に支配される苦しい支配。ポイントは間違いなく前半、挑戦者がリード。世界ランク11位ながら、優れたボクシング。苦しみなら、終盤に接近戦での連打でポイントを稼ぎ、判定2ー1の僅差で初防衛。
しかし、試合後のインタビューは、謙虚そのもの。「この後にモンスターが出てきますので、ボクシングの醍醐味はそちらでお楽しみください」とのユーモアも。人柄は間違いなく世界のスーバーチャンピオン。なにはともあれ、勝ててよかった。
井上尚弥の試合、明らかに3ラウンドから様子がおかしくなった。中盤から左手一本の戦いになり、これは右拳をまた痛めたか!? と思ったが、試合後のリング上のインタビューでは、みっともない試合をしたと謝罪。右拳のことには触れず。しかしやはり。
- http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160508-00000025-tospoweb-spo
- 【ボクシングW世界戦】井上尚弥 判定VもKOできず「課題が見つかった」
事務所へ戻り、録画しておいた井上尚弥選手の試合をビデオで見直す。解説陣も井上が右を打たない不自然さ、中盤以降、左手一本で試合をしている異変に気づき、右拳の負傷可能性に言及していた。視聴者も、解説者に指摘されて異変に気付いたと思う。
が、ボディ、特にレバーへの左ボディを打たないでいたことは、解説者は誰も指摘せず。この点は疑問が残る。最終回、拳を痛めていても、最後のラウンドだからと、井上が両拳を使って勝負に出るが、その時の責め方はボディから。左右のボディを打ち、相手に効いて下がったところから顔面へ連打。
ボディを打たれることのダメージは左右でまったく違う。人間の内臓はシンメトリーではない。肝臓は右に偏って存在しており、左拳で相手の右の脇腹、あばらと腰骨の間、特に背面近くを打たれると、ずしーんと鈍く重い痛みが体の奥まで伝わって、気力だけでは耐えてこらえることはできない。
過去の井上尚弥選手の試合は、左右だけでなく、上下の打ち分けが絶妙だった。特にナルバエス戦では、ジャブから右でボディ正面にストレートを打ち、相手の両腕のブロックを中心に集めさせて、次の瞬間、左のレバーブローで相手の右脇腹をえぐるというコンビネーションがKOにつながった。
過去にも、何度もレバーブローでダウンを取ったり、相手の勢いを止め、右手のガードを下げさせてから、左のフックを顔面に決めたり。また、左でのレバーと合わせて、チョッピングライトとも呼ばれる右ストレート打ち下ろしの対角線のコンビネーションで相手を追い詰め、ダウンを奪ってきた。
なぜ、その最も効果的で、重要な武器である左レバーブローを、もっと早いラウンドで多用して、相手を弱らせ、下から上への攻撃の連続につなげられなかったのか、そこがちょっとよくわからない。考えられる理由としては、上で倒してやろうと力みすぎたのか。
あるいは、相手の右の背面近くまで深くレバーブローを打ち込むために、左方向へ体をやや倒して(左アウトサイドにスリッピング)ステップインする、そのタイミングがつかめなかったのか。なんにしても、出すのが遅すぎた感がある。
井上選手は強烈なレバーブローを単発でもコンビネーションでも打てるスキルがある。これまでの試合でも、有効に使い、ダウンにもKOにもつなげてきた。最終ラウンドを迎えるまで、「レバーを忘れたカナリア」だったのは実に惜しい。
右の拳の負傷はもはや嘆いても仕方ない。強打者の宿命、宿痾である。あとは、一試合で打てる右の上(顔面、頭部)への強打が限られているという、その前提で、どう試合全体を組み立てるか、である。試合の冒頭、奇襲攻撃の如く右の強打を頭に打つのは、この三試合でもう封印にしたほうがいい。限られた右を大事にすべきだ。
封印すべきことは、他にもある。井上本人ではなく、我々ファンの側の過剰な期待である。連続KOへの期待が、「井上ならばKOして当たり前」という思い込みに転化すると、今日のような展開になった時の落胆が大きい。
テレビでは会場の空気が全然伝わらないが、試合が終わって帰路につく時の会場にいたファンの重い空気といったら。まるでお通夜のようだった。井上ならば、世界戦での連続KO記録を4から5へと延ばし、具志堅用高氏の持つ世界戦6連続KOという日本記録を更新するだろうと夢見ていたのだ。
伝説的な名王者・ナルバエスから王座を奪取した時の、2RKOという圧倒的勝利を、これからもずっと連続してファンに見せてくれるものと期待もしていた。異次元の、ニックネーム通りの「怪物」として、我々の前に存在し続けてくれる、そう期待していたはずだ。その夢が、途切れた。
連続KO記録が止まった、ただ、それだけのことなのだが、井上尚弥という若者に見果てぬ夢を仮託した重度のボクシングファンの病は重く(僕も重症患者の1人である)、相手が12R持ちこたえた、ということだけで、大層がっかりしたのである。
だが、考えてみればこれはおかしな話だ。
井上尚弥選手は、敗れたわけでも王座から転落したわけでもない。王座を見事に防衛し、文句のつけようのない勝利をおさめている。それも僅差の判定勝利ではない。最終回、ラッシュでダウンを奪っているし、その後もラッシュを続けた。レフェリーストップとなってもおかしくない場面で、試合終了のゴングを迎えたが、あと数十秒あればKOできていたであろう。
要するに圧勝だったのだ。誰一人、この試合の勝敗結果に文句をつけるものはいない。なのに、である。当の井上尚弥選手自身が、試合終了とともにうなだれるように落胆の表情を見せ、試合後のリング上のインタビューでは、「みっともない試合をしてしまいました」とファンに謝罪までした。
逆に、挑戦者カルモナはまるで勝者のごとく、からくもKOを免れた試合終了の直後に、やった!と言わんばかりにガッツポーズをして気色を満面に表した。それはもう、本当に達成感があった時の、弾けるような喜びようだった。ダウンを喫しているのに。判定では大差がついているのは確実なのに。
挑戦者が、ボコボコにされつつも、KOされなかったことを、こんなに素直に喜んでいるなんて、見たことも聞いたこともない。まったくもって、カルモナは勝者のごとくで、井上尚弥は惨敗した敗者の如くで、我々重症のファンは、お通夜の如しだったのだ。
井上選手は、焼肉が好物で、試合前の減量に入るときに食べ納めのタン祭り(好物のタンばかり食べる)をするという。そして、試合後には減量からの解放を祝ってカルビ祭り(カルビばかり食べる)をするのだという。その逸話を思い出し、試合観戦後、お通夜の後のお清めの如く、焼肉屋へ連れとともに向かった。
そこで、なぜ、こんな試合展開になったのかと、ああでもないこうでもないと、IWJキックボクシング部の部員たち(原君とサルサ岩淵君)と、大反省会を開きつつ、タンやカルビやホルモンをいただいたのである。
腹が膨れてくると、人は大概正気を取り戻す。
負けたカルモナが勝者のようにガッツポーズをしていたのは、ちょっとおかしいんじゃないかと気づき始める。カルモナは、自分も対戦経験のあるナルバエスとパレナスが井上選手に粉々に粉砕された様子を見て、恐怖感に襲われていたに違いない。
その自らの恐怖心と戦い抜いたことへの凱歌のようなものじゃなかっただろうか、あのガッツポーズは、などと見当がつく。そして、とにもかくにもKOされないで12ラウンドを戦い抜いた自分を挑戦者自身が誇りに思うほど、王者は強かったのだ、ということにも思いが至る。
試合終了後、井上選手の右頬には、小さな、小さな傷ができていた。いつもは、傷ひとつない顔で試合の終わりを迎えていた井上選手としてみれば(本人というより、周囲の関係者やファンとしてみれば)、一大事だ。
試合後のフジテレビの番組で、いつも通り顔をパンパンに腫らした八重樫選手の隣に座った井上選手の、その頬の小さな傷が話題になった。その時の井上選手の言葉。「これでやっとプロボクサーになったような気がします(笑)」。
もう、井上尚弥選手を、「怪物」と「本気」で呼ぶのはやめたほうがいい。言葉は人を束縛する。記録への過度な拘泥もそうだ。頬の小さな傷が話題になるのだから、「王子様」の方がよほどふさわしい。「プリンス」は、ナジーム・ハメドが元祖だから、「怪物王子」にしたら、どうか。
その方が、本人と家族を含めたその周囲の人たちのほのぼのとした雰囲気が伝わる気がする。だいたい軽量級史上最強の、本当に本物のモンスターであるローマン・ゴンザレスのニックネームが、「チョコラティート(チョコレート)」である。なんて可愛らしい愛称だろうか。
ロマゴンと戦うためには、井上尚弥選手には、よけいなプレッシャーを背負わないほうがいい。同時に我々ファンも身軽になった方がいい。海外進出するにも、ヒールのイメージのある「モンスター」ではなく、「プリンス・オブ・モンスター」のほうがずっとおちゃめでチャーミングだ。