死んだ子の年を数えるようなものであっても、検証は必要。ここから汲み取った教訓は絶対に忘れてはならない。
- 野党一本化なら63選挙区で勝敗逆転 得票合算の試算(朝日新聞DIGITAL 2017年10月23日)
希望の党の正体は、立ち上げの時から僕は一度も見誤ったことはない。彼らはあわよくば野党第一党、しかも民進を丸呑みしつつ改憲・安保法制賛成へ一挙に「転向」できればと考えていた。こんな基本政策ロンダリングクーデターなど、もちろん有権者への背信であり、犯罪的行為であって、受け入れられるものではない。
立憲民主党は、民進党から教訓を得るべきだ。日本会議のような対米隷従のエセ極右組織に所属し、支援や影響を受ける議員は、思想的には自民党と変わらない。今、自民党と足並みそろえて改憲を支持する日本会議所属議員はきれいさっぱり希望へ移った。
▲立憲民主党・枝野幸男氏
これを曖昧にして、リベラル再結集という掛け声のもと、日本会議系右派議員までが、立憲民主党サイドに移ってくるのは避けてもらいたい。何度も言うが、今、我々の目の前にせまっているのは、米朝の間で開戦直前、といわれるほど緊張が高まっていることであり、この米国と北朝鮮という、核保有国同士の戦争に日本が巻き込まれる現実的な懸念である。
集団的自衛権にもとづく安保法制は、米軍の戦争に自動的に一体化して追随する仕組みである。法の制定に当たって反対運動が盛り上がり、紛糾したのは2年前だが、その当時と違って、第2次朝鮮戦争に日本が当事者として巻き込まれる具体的な恐れが出てきた。
第2次朝鮮戦争に際して、我々が取りうる態度は、戦争か、平和か。すなわち参戦か、局外中立か、いずれかひとつで、その中間の曖昧な「第3の道」はない。有権者が選択する政治勢力も、曖昧なごまかしで「中道」を口にする努力ではなく、米軍に追従するのか距離を置くのか、我々有権者が判断できるようにはっきり二分されなければならない。したがって会見・安保法制での賛否で考え方の違う議員が同居していた民進党が、右派→希望の党、左派→立憲民主党と別れたのは、有権者にとっては選択しやすく、わかりやすくなった。
▲インタビュー資料より
もっとも、希望の党へ移り、幹部前としてふるまっている細野氏や長島氏、いずれ合流するとみられる民進党代表の前原氏らは、「憲法・安全保障」における立ち位置がはっきりしているが、希望の党から出た民進前職の中には「騙し討ち」のようなやり方で「合流」せざるを得なかったものもいるはずで、考え方が前原氏と違うとして離脱し、立憲民主に映るものも現れるかもしれない。
米国は、自身の足元に火の粉が及ぶに至って北朝鮮を「壊滅」させるオプションを含めて「すべての選択肢がテーブルの上にある」と言い出すようになった
過去、北朝鮮が何度も美斎津実験や核実験を繰り返そうとも、1953年から続く第1次朝鮮戦争の休戦状態は敗れることなく続いてきた。今、もし仮に米国が北朝鮮に対して先制攻撃をかけるという脅しも含めてプレスを強めているのは、米本土に届くICBM(大陸間弾道弾)の完成段階に至っているからである。米本土に届くとなると、米国は血相を変える。しかし、日本列島全土を狙えるノドンのような中距離ミサイルはとっくの昔に開発され、実戦配備も終えている。この段階で大騒ぎをしたわけではない。米国は、米国自身の足元に火の粉が及ぶに至って、北朝鮮を「壊滅」させるオプションを含めて「すべての選択肢がテーブルの上にある」と言い出すようになったのである。
▲北朝鮮の弾道ミサイルの射程
戦争の行方は一国でコントロールできない。まして日本が開戦か否かを決める主導権を取る可能性はない。開戦したら、現状のままでは自衛隊は米軍の指揮下に入り、米軍の2軍として動くことになる。日本の国益は二の次である。
米朝間にあるのは戦争か平和かのみ。「第三の道」などない!
この戦さでは、小規模で無難な小競り合いを少しして、あとは話しあいに持ち込む、という展開はありえない。国境線紛争などではないのだ。米国は北朝鮮というオッカの存在そのものを承認していない。焦点はたった一つ、北朝鮮が要求する、北への米国の敵視政策をやめ、核保有国のまま独立国家として承認し、平和条約を結ぶか。
それとも米国は、間近に迫った、米本土への核を搭載したICBMの完成を指をくわえて待っている前に、徹底的な武力行使で、反撃のいとまも与えずに北朝鮮を壊滅させてしまうか。極端に言えばこのどちらかである。要するに、「第三の道」はないのだ。
このことは、即、日本の政治勢力のスタンスに影響を与える。内政の諸課題では、「第三の道」的なオプションもありうるだろう。しかし、第2次朝鮮戦争に際しては、「第三の道」はありはしない。先に述べた通り、戦争か平和か、参戦か局外中立か、どちらかである。「第3の道」がありそうなことを言う政治家、政党、言論人はまやかしである。
「第一の道」は、対米隷従路線を深化させ、米軍と自衛隊の垂直統合をさらにはかり、改憲によって、違憲の安保法制を合憲にしてしまう。その上で第一次朝鮮戦争時代に交わされ、今も有効な指揮権密約にもとづいて、第2次朝鮮戦争に参戦する。北朝鮮からも、当然反撃を受けることになる。
▲インタビュー資料より
この「第一の道」は、まさに安倍政権が、この5年間に突き進んできた道だ。北朝鮮のミサイルは、たしかに日本列島全土を射程におさめてはいる(ロシアや中国は昔からなのだけれど)が、北朝鮮が目を向ける先は米国であり、米国に交渉を求めて挑発してはいるが、日本は眼中にない。
日本は相手にしない、といわんばかりの態度は、これは北朝鮮に限ったことではなくて、日本を取り囲む国々は、皆、同様である。昔、ソ連時代に、ソ連の政府高官や軍の将軍クラスに北方領土問題を半ば抗議の思いを込めて、半ばは取材で話す機会が何度かあったが、「日本は米国の属国。自分で何も決められない」と突き放された。私のような経験をしているジャーナリスト、あるいは外交官など、政府関係者はたくさんいるはずだが、誰もそうした経験を公に話さない。
外から見れば秘密でもなんでもないが、国内ではトップシークレットのように扱われていること、それは日本に主権がない、日本が軍事属国であるという事実である。
これまでのいきさつを振り返ろう。
第二次大戦での無条件降伏、そして直後に起きた朝鮮戦争の影響を受けて、前者により日本は軍備解体、民主化、平和主義の方向で歩く道筋が開かれた。しかし占領末期日本は起きた朝鮮戦争が大きくGHQ(連合国軍最高司令部総本部)の占領政策を変えた。
日本に軍事組織を作り、米軍の補完をさせることがこの時、米軍の主導で始まった。日本の逆コースは、米軍が主導したのであり、再軍備=自衛隊の発足も、自分たちが日本に与えた民主的憲法とその9条を邪魔に思い、9条の改定をそそのかしてきたのも米軍である。
戦後のGHQ内の主導権争いが、今につながる分断と矛盾を刻み込んだ
GHQ内で、日本の民主化を進めたホィットニー、ケーディスらが率いるGS(民政局)と、ウィロビー率いるG2(参謀本部第2部)との主導権争いが、そのまま日本国内に、今につながる分断と矛盾を刻み込んだのだ。
日本社会の様々な局面で(普通選挙、基本的人権、国民主権、男女平等、農地快方など)が民主化された一方で、反共・反動勢力が温存・再生された。どちらもGHQの仕業である。G2のウィロビーは、戦前の特高警察幹部を集め、公安警察を再編した。戦後日本の公安警察の生みの親は、GHQのウィロビーなのである。
ちなみにウィロビーは第一次大戦前のドイツ帝国に生まれ、のちアメリカに渡って帰化した人物であり、バリバリの反共主義者だった。対立した民政局のケーディスは、東欧ユダヤ(アシュケナージ)系移民の息子である。これも奇しき因縁である。
▲左・チャールズ・アンドリュー・ウィロビー少将、右・チャールズ・ルイス・ケーディス大佐
明治憲法はドイツのプロイセンの憲法をコピペしてしまって専制国家としてスタートを切ってしまい、昭和においては日本はナチス・ドイツと同盟を結んでしまって世界を敵に回してしまった。
さらに、戦後直後は、米軍人でありながらドイツ帝国主義の生き残りのようなゴリゴリの反共主義者であるウィロビーによって反動のレールが敷かれたのは、返す返すも残念なことだった。
それもしかし、第二次大戦直後(あるいはすでに末期から)から始まっていた、戦後世界における、米ソの主導権争いが急激に激化し始めたことと無縁ではない。戦後直後、世界は我々のあずかり知らぬところで核戦争の危機に直面していた。
ソ連最初の核実験は49年8月29日。米軍による日本への核攻撃、続く日本のポツダム宣言受諾で第二次世界大戦が終わってから4年後のこと。同じ49年の10月1日、蒋介石の国民党を台湾へ追いやり、中国共産党を率いる毛沢東が建国を宣言した。
人類はこの段階で、早くも核戦争の危機に立つ。米政府内の反対意見を押し切って日本への原爆投下を決めたトルーマンは、1950年、ソ連に対する予防攻撃を検討していた。終結したばかりの第二次世界対戦と同規模の世界大戦が引き起こされる可能性があったのだ。そしてそのかわりに、というわけではないだろうが、同じ50年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。
朝鮮戦争においても核兵器が使われる可能性があった。指揮をとったマッカーサーは、膠着する戦線で優位に立つべく、核爆撃の申し出をしたが、トルーマンに受け入れられなかった。ここでも、核攻撃の危機があり、すんでのところで核の使用が見送られた。
米国は、この朝鮮戦争の勃発によって、占領下にあった日本を急いで独立させることにした。いくつもの歴史の偶然が重なり合って早められた独立だった。
▲インタビュー資料より
もし、米ソ冷戦が始まらなかったら。
ソ連の核実験の成功がもう少し遅れたなら。
あるいは、スターリンが極東で野心をむき出しにしなかったら。
日本の独立はもう少し遅れ、その姿も違ったものになっていたかもしれない。逆コースによって、GHQが日本を「反共の砦」とするような政策がとられなかった可能性もある。
また、国民党を率いる蒋介石が、「国共合作」のままに、共産党をも抱え込む形で民主主義国家の建設に成功していたら、アジアにおける米国のパートナーは間違いなく蒋介石の国民党が統治する中華民国になっていたはずで、日本は見向きもされず、日本を「豊かにする」政策も取られなかったはずである。近年の米中接近で、日本がパスされていると感じることがしばしばだが、長いスパンで考えた時には、日米が密着し米中の間に距離があった時期の方がむしろ一時的で特異な時代だったかもしれない。
そしてスターリンと毛沢東の唆しと同意がなければ、金日成が南を武力で併合しようなどという冒険に出ることもなかったかもしれない。朝鮮戦争が起こらなければ、南北分断の悲劇は戦争にまでは至らず、並存が続き、時が来たならば、東西ドイツのように平和的に統合に至ったかもしれない。
▲1989年、ブランデンブルク門前の壁
歴史は幾つもの分岐点を経て織りなされてゆく。「もし、あの時こうなっていれば」という仮定はいくつも思いつくが、過去における無数の選択の積み重ねの末に「現在」がある。
1950年、朝鮮戦争が日本の戦後の国のかたちを決める上で決定的な影響を与えた
米国は、日本の「独立」を急いだ。ただ朝鮮戦争のただ中の1951年9月8日サンフランシスコ講和条約を結び、連合国との「戦争状態」を終結された。ソ連が参加しない「部分講和条約」だった。
1950年から1953年まで続き、決着をみず、休戦状態で今に至る朝鮮戦争は、日本の戦後の国のかたちを決める上で決定的な影響を与えた。米軍は第二次大戦後の一時的な占領が終わり、日本が独立して主権を回復すれば、米軍は撤退したはずだった。
米軍が撤収していれば、沖縄は今のような駐留米軍による主権侵害、人権侵害に苦しめられずにすんだはずだし、自衛隊を巡って非現実的な議論が空回りすることもなかったはずである。左派の、自衛隊は違憲的存在という理屈も硬直したものではあるが、右派の、自衛隊は日本という国家主権のもとにある、という思い込みは幻想もはなはだしい。これは右派だけでなく、ほとんどすべての国民が、そう思い込んでいる、と言わなくてはならない。
実際には、自衛隊はGHQのもとで、朝鮮戦争をきっかけとして生み出されたのであり、最初から米軍の補完部隊としての役割を持ち、有事の際には、米軍が指揮権を握るとの密約が厳然と存在するのである。米軍ありきの自衛隊であって、自衛隊は米軍から独立していないのである。
自衛隊は憲法の上に築かれたのではなく、日米安保の上に米軍の国防のために「補完戦力」として築かれた組織である
岩上さんの、心からの忠告、ありがとうございます。
自分もできる限りの身近な方に、緊急事態条項の危険性や戦争の危機を訴えているのですが、ほとんどの方がスルーしていまして、喫緊の問題として受け取られてないようです。
どうしたら、共通の危機感をもってもらえるのかが分からず、孤独感さえ感じています。
それでも、戦争に引きずり込まれないように、何とかしないといけないと言う思いでいます。
早すぎる事はないと思いますので、生き延びていく為の、方策も考えていきたいと思っています。