繰り返される暴力に耐え、児童養護施設に救われたボクシング元東洋太平洋ライト級王者の坂本博之氏が自身の半生と虐待の現状を説く 2014.11.7

記事公開日:2014.11.14取材地: テキスト動画
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(IWJ・松井信篤)

 児童養護施設と虐待の現状について、ボクシング元東洋太平洋ライト級王者の坂本博之氏が11月7日(金)、日本政策学校の講師として招かれ、公開講座を行なった。坂本氏は、壮絶な少年時代や、児童養護施設での経験、ボクシングとの出会いなど、自身の半生を振り返り、そこから得た人生の教訓を熱く語った。

■ハイライト

  • 講演 坂本博之氏(ボクシング元東洋太平洋ライト級王者)
  • 場所 TKP市ヶ谷カンファレンスセンター(東京都新宿区)
  • 主催 日本政策学校詳細

壮絶な少年時代・ボクシングとの出会い

 坂本氏は福岡県田川郡川崎町で生を受け、物心がつく前に両親は離婚し、母方に引き取られた。そして、5歳になるまで乳児院、児童養護施設で過ごしている。その後、母親の仕事が安定してきた頃、母、弟とともに博多へ引っ越した。

 しかし、学校などの養育費で家計が厳しくなり、母の知人宅へ預けられたという。そこで食べ盛りの坂本兄弟に与えられた食事は、給食1食のみだった。食事を要求すると暴力を振るわれる日常、弟は空腹から倒れ、坂本氏自身は拒食症になってしまった。

 学校側は異変に気づき、児童相談所から福岡県東区にある児童養護施設・和白青松園を紹介された。ここで坂本氏は施設にあるTVからボクシングに出会う。花道にガウンを着て、きらびやかなチャンピオンベルトを締めて入場するボクサーの姿に魅了された坂本氏は、プロボクサーになるためのロードワークや練習を始めた。

 その後、母親が坂本兄弟を引き取って3人での生活を取り戻していった。時を経て、坂本氏は1991年に念願のプロボクサーとなる。全日本新人王決定戦MVP、日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋ライト級チャンピオンと、世界への階段を上がっていった。

児童養護施設にいる子どもたちとの交流

 新人王を獲った際、命をつなぎとめてくれた和白青松園を訪れた坂本氏は、子どもたちと挨拶程度の会話をして、10ヵ月後に日本チャンピオンになった。その後、再び和白青松園を訪れた坂本氏は、世界チャンピオンになる約束を子どもたちと交わしたという。

 この時を境に、坂本氏は子どもたちとの文通を始めている。子どもたちの手紙には、坂本氏への応援メッセージや、周りには言えない彼らの心の叫びが書かれており、つながりは深いものへとなっていった。

 坂本氏は、世界タイトルマッチに4度挑戦している。惜しくも世界チャンピオンになる夢は叶わなかったが、その間にマスコミの報道などを通じて、全国の児童養護施設から応援の寄せ書きが届くようになった。

 プロボクサー人生の終盤には、腰椎椎間板ヘルニアを患ってしまう。10年以上も激闘を繰り広げてきた坂本氏は、その頃から、打たれても前に出るという自身のファイトスタイルができなくなり、2007年に引退した。

少子化時代に増加している児童養護施設

 16年間のボクシング人生で学んだことは、愛であると、まっすぐに語る坂本氏。「ひとりでは生きていけない。いろんな人たちの関わりがあるんだ。手と手を結び合って生きていくんだ」

 ボクシングを通じて、また自身の経験を通して学んだことを、全国の児童養護施設で伝えている坂本氏は、現在、スカイハイ・リングス(以下、SRS)という活動をしている。これは、子どもたちとボクシングセッションをして、和を尊ぶ気持ちを育成していくものだ。

 「傷つけたのは大人かも知れない」という坂本氏だが、同時に「お前たち(子ども)を受け止めてあげるのも大人なんだ」と語る。現在、約4万人の子どもたちが児童養護施設にいると坂本氏は報告。少子化と言われる中で、児童養護施設の数は増えているのが現状だ。入所する理由の約6割強が、虐待、ネグレスト(育児放棄)となっている。

 ボクシングセッションでは、技術的なボクシング指導ではなく、1番嬉しかったことや1番悲しかったことなど、その気持ちをパンチングミットへぶつけて、坂本氏がその気持ちを受け止める。深く傷つき、固く心を閉ざしてしまった子どもが、このセッションによって少しずつ心を解放していく、その術を身につけていけるよう、坂本氏はサポートしている。

負の連鎖を生まないために

 子どもは、こうすればいいという方法論はない、と坂本氏は考えている。

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