「川は『人間の筏(いかだ)』だった」広島原爆体験者が伝える戦争の恐怖と反戦の意義 2014.8.6

記事公開日:2014.8.6取材地: テキスト動画
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(IWJ・薊一郎)

 広島に原爆が投下されて69年目を迎える8月6日、東京都江戸川区の密蔵院にて、「100年後の8月6日で伝える1時間、今から作る」と題されたイベントが「8.6 One Night 東京」の主催で開催された。

 密蔵院の本堂に、福岡県星野村の平和の塔から伝わる原爆の残り火を供え、当時17歳で広島原爆を体験した菊野孝人さんが自らの体験談を語った。

■ハイライト

「原爆の悲惨さは写真では伝わらない」

 原爆が投下された時、菊野さんはたまたま造船所の仕事を休んで自宅にいたため、火傷などの被害はなかったが、自宅の土壁は吹き飛んでしまったという。

 当時、姉と弟とともに3人で暮らしていて、両親は疎開していた。両親の元に行こうにも汽車はなく、姉が勤めていた陸軍病院に駆けつけても、柱だけが残っている状態で、安否は不明だった。菊野さん自身も、爆風で飛ばされ、骨盤を打撲してしまったという。

 被爆後の広島の惨状を目の当たりにした菊野さんは、当時の思いをこう振り返った。

 「写真ではなかなか伝わらない。水をくれという人があふれ、川は『人間の筏(いかだ)』状態だった。なぜアメリカはこんな酷いことをしたのだろう。8月6日が来る度に思い出して眠れなくなる。どちらが良い悪いは関係なしに、二度と戦争を起こしてはならない」

 戦後、菊野さんは全国の病院を車で回って、機械設置をする仕事を73歳まで続けたという。退職後は、一時体調を崩したものの、現在でも車の運転は得意で、千葉に所有する畑に行ったりしていると、現在の生活を語った。

「仏教的なアプローチで戦争を考える」

(…会員ページにつづく)

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