古川健治村長の任期満了に伴う青森県六ヶ所村の村長選挙が、2014年6月17日に告示された。6月に入っても出馬表明をしていたのは現村長の後継指名を受けた戸田衛・前副村長のみで、無投票当選の見通しが高まっていたが、先週に入って無所属の新人3名が名乗りを上げた。
六ヶ所村には日本原燃が所有する核燃料の再処理工場がある。1983年に事業指定申請書が提出され、1993年から工事がスタート。当初は2010年の本格稼動を予定していたが、相次ぐトラブルのため20回に渡って可動が延長され、現在のところ2014年10月に完成時期が設定されている。
また、度重なる可動延期に伴って7600億円と想定されていた建設費用は、2011年2月現在で2兆1930億円に増大。何の利益も生み出さないまま、費用ばかりが投じられているという状況にある。
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このような巨大施設を抱えているため、六ヶ所村の選挙では第一に再処理工場の在り方が争点となる。歴代の選挙を見ても、候補者はそれぞれ推進、反対の立場から選挙戦を戦ってきた。しかし、過去5回の村長選で、「反核燃サイクル」を訴えた候補者の得票は、投票率の6.5%にあたる372票が最高。核燃サイクル推進派が反対派に圧倒的な大差をつけて勝ってきた。しかし、今回は福島第一原発事故後、初となる村長選ということで、原子力災害に対する不安を口にする住民も多い。
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前副村長の戸田衛氏は、古川村長の路線を受け継ぎ、核燃サイクルの推進を表明している。一方で、花とハーブの里代表の菊川慶子氏、梅北陽子氏、関千尋氏の3候補はいずれも、核燃サイクルの反対立場を表明している。
告示日となった6月17日、戸田氏の出陣式には、村議18人全員が勢ぞろい。日本原燃の川井吉彦社長も姿を見せた。午後1時半からの第一声では、古川現村長もマイクを握り、「圧倒的大差で当選させよう」と応援。戸田氏は「古川村長の政策を継続する。経済的にも精神的にも満たされた生活の向上を目指す」と述べ、「原子燃料サイクル事業は村の発展の基盤。着実に共存共栄の道を歩んでいる」と改めて核燃サイクルを推進する考えを表明した。
一方、公約に「核燃に頼らない村」を掲げる菊川氏の街頭演説には、山本太郎参院議員が応援に駆けつけ「再処理を続けない候補を選んで。意思を示す最高の機会だ」と熱弁を振るった。菊川氏本人も「原子力関連の交付金や固定資産税がないとやっていけないと考える人が多いが、再処理工場の廃止には30年以上かかり、(その間)村の雇用は潤う」と訴え、「魅力ある仕事づくりで、若者が喜んで帰ってきたくなる村にしたい」と呼びかけた。
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他方、青森県は、原発再稼働の前提となる新規制基準適合性審査の申請が出された東通原発を抱えているほか、函館市が自治体では初めて、建設差し止めを求めて提訴した、全炉心でプルトニウムを含むMOX燃料を使用する大間原発の建設が危ぶまれている。
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さらに、青森で懸念されているのは原発リスクだけではない。2006年には航空自衛隊三沢基地の分屯基地である車力分屯基地に、米軍のXバンドレーダーが設置。今年の4月26日に同じく車力分屯基地にPAC3が配備され、5月24日には、三沢基地に米無人機「グローバルホーク」が飛来した。
もし、仮に戦争が起きた場合、レーダーが配備されている前線基地は真っ先に標的にされる可能性が高い。また、米無人機はこれまで、パキスタンなどを中心に300回以上の作戦を展開し、パキスタン一国のみで約2200人が死亡、そのうち少なくとも400人が民間人だったという。
- 米軍の無人機攻撃は国際法違反なの?(2013年10月29日 THE PAGE)
その上、2001年9月から2013年末までに、米無人機は418件もの重大事故を起こしており、死者は出ていないものの、中には輸送機と空中衝突するという危険極まりない事故も発生していた。三沢基地を飛来した偵察機グローバルホークの墜落も5件報告されている。
- 無人機墜落418件=商業利用に懸念-米紙(2014年6月21日 時事通信) ※記事削除
こうした原発×戦争リスクも懸念されている中で、六ヶ所村長選挙は、今後の青森県、ひいては日本の原発政策にも大きな影響を与えることになる。
投開票は明日、6月22日。核燃サイクル反対派が3人も立候補する中、原発の在り方を争点にした東京都知事選のように票が割れるという可能性も十分に考えられるが、その点も含めて今後の選挙戦に注目したい。
今回は、金曜日に行われている定例の「原発なくそう!核燃いらない!あおもり金曜日行動」をはじめ、IWJの中継市民として、ここに紹介した青森での脱原発、脱核燃サイクルの市民運動を精力的に取材し続けている外川鉄治さんの寄稿を紹介する。
六ヶ所村が抱えている本当の問題とはなにか、その背景を歴史的経緯から振り返り、投開票を前に、改めて考える機会になれば幸いです。(IWJ編集部)
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――IWJとの出会い――
IWJ青森を配信している、しーずーこと外川です。IWJを知ったキッカケは、2011年3月11日、東日本大震災の直後のことでした。
激しい地震と猛烈な津波が襲った後、ほぼ東北全土が停電。自分を含む多くの人が情報難民となりました。いつもは、何気なくついているTVもラジオも聞けない状態で、ラジオを聴きたくて自動車のエンジンを始動すると、12Vを100Vに変換してくれる、ACコンバーターLEDが光った。これだと思い、部屋まで電源を引っ張り、TVのスイッチを入れようとしましたが、容量オーバーでTVはつかない…。
しかたなく、インターネットで情報を集めることにしました…
そこで目に飛び込んできたのが、IWJの東電記者会見の中継でした。いま、何が起こっているのか明確にわかる中継に、恐ろしささえ感じた瞬間だった。かろうじて、ワンセグでTVは見れていましたが、報道されているのは、悲惨な津波の被害でした。まさか…福島の原子力発電所が爆発寸前だとは思いもせず、ショックでした。
それ以来、停電の復旧が行われ、TVも見ることができましたが、東電会見に入り浸りになり、その時に使用していなかったツイッターも使用することになりました。そして、ツイッターやUSTREAMの情報が、当時の私の中の全てになってしまい、TVや新聞報道がすべてだという今までの固定観念が根底から崩れ、真実を知ることの大切さが今や日常となっています。
それまでは、TV報道に独り言のように愚痴をこぼしていましたが、共通の思いを持つ方々もいるのだと思い、カルチャーショックでした。
――配信することになったキッカケ――
震災後、2011年6月10日「6.11脱原発100万人アクション」が全国で展開され、IWJは中継市民を募集していました。私は、既存メディアが伝えない、真実を伝えるIWJに心から共感を持ち、中継市民に志願しました。
そして、大間原発とひとりで戦う「あさこはうす」「大マグロック」「3.11青森県民集会」「4.9反核燃の日集会・申し入れ」「秋の反核燃運動」また、各団体の主催する講演会や学習会などを配信しながら、勉強をしている最中です。
IWJの中継市民として、配信する前まではパソコンの画面を通じて見ていた世界も、実際に現地へ足を運び、その取材現場を目の当たりにすると、違うものが見えてきたりもする…私は、実際に自分の目や耳で見たり聞いたりすることも大切だと、常に思っています。
これからも現場の空気が届くような、配信を心がけていきたいと思っています。
青森県に育ち、東京で仕事を覚え、青森でその仕事をしていますが、どんな仕事でも、同じように気持ちがこもります。
そこで、今回は私の追っている六ケ所村問題について、記事を書いてみました。他方、下北半島や南部方面・津軽半島のエネルギー問題や、歴史的背景などの問題も追っているので、これから何度か掲載させていただければと思っています。この場を借りて、岩上さんをはじめ、IWJに感謝申し上げます。
――六ヶ所問題と下北半島の開発について――
六ケ所村・下北半島というと、思い浮かぶのは、貧困の村が原発や核燃施設のおかげで裕福になったと連想してしまう人が多いのではないでしょうか。確かに、核燃施設の恩恵で潤っている村だということは間違いないのですが、貧困だったということについては、青森県を含む、東北、あるいはその他の農村地域全てに共通することかもしれません。
東北北部の農閑期の冬は、雪や寒冷な土地柄のため、農作業を行うことは困難であり、出稼ぎ行くというのが一般的な青森県内の農家のスタイルでもありました。お金はなくとも、隣近所の「結の精神」のもとで生活が営まれていたのです。
六ケ所村と下北半島は、「ヤマセ」という冷たい東側の風によって農作物が育ちにくい土地であり、放牧が盛んに行われてきました。しかし、漁業は青森県内でも類を見ない漁獲量を誇り、漁業の村として栄えてきた村でもあります。
また、六ケ所村に限らず、「国策」という言葉に翻弄されてきた下北半島と南部方面。古くから、砂鉄を狙った海外の攻めに遭ってきた歴史は、むつ市の年表で知ることができます。
そこで、国策に翻弄された六ヶ所村・下北半島の歴史を振り返ってみました。
1.国策に翻弄される青森県下北半島・南部地域
――日本特殊鋼管大湊工場――
国策として挙げられたそのひとつが、『日本特殊鋼管大湊工場』である。(資料)
防衛省のガメラレーダーのある釜臥山に登れば、その跡地を展望台から望むことができる。創業者山崎岩男元青森県知事(自民党山崎力参議院予算委員長の祖父)の銅像もある。その展望台には、「原子力発電施設等周辺地域交付金施設」と書かれている。
現在その工場跡地は、三菱マテリアルの敷地になり、古い建物と煙突・工場跡が残り、空き地になっている。地元では、お化け屋敷と言われている。また、原子力船「むつ」の最初の母港として、名乗りを上げたこともあり、日本原子力研究開発機構むつ事務所大湊施設と、反対運動の拠点となった「大平岸壁」(むつ大湊港)が隣接している。
――フジ製糖青森工場――
六ケ所村から少し南に位置するおいらせ町では、1962年、国策としての『フジ製糖青森工場』が建設され、わずか4年半で頓挫し、社員と農民は切り捨てられた。原因は、砂糖の輸入自由化(貿易自由化)によるものだという。当時の砂糖の日本全体の需要は年間120万トン。そのうち、100万トンを輸入に頼っていたという。昭和28年に政府が、てんさい糖の生産振興臨時措置法を制定したことに対する砂糖の希少価値に付随した国策だった。砂糖の原料は、てんさいという砂糖大根で、北海道の栽培実績を踏まえ、冷たい「ヤマセ」という東側の風でも栽培できる農作物として、六ケ所村や東北町、南部方面(三本木原台地など)を中心とし、青森県内に幅広く期待を抱かせた事業だった。
――国家石油備蓄基地――
フジ製糖工場閉鎖と時を同じくして、当時の通産省が下北半島全土に工業開発の思案を発表し、1971年「むつ小川原開発株式会社」が設立され、用地買収のための公社が設立された、目的は、国家石油備蓄基地の計画が持ち上がったためであり、ここからが、核燃サイクル施設に至るまでの分岐点となるのだった。
当時の、寺下力三郎六ケ所村村長は、むつ小川原開発に反対を表明しており、推進側との対立で、村を二分させることになった。寺下力三郎元村長は、28歳の時、北関東全域にまたがる渡良瀬川流域で仕事をして、上流の足尾銅山から鉱毒が流れ込み、農作物に大きな被害が出ても、農民には何も保証がないことをよく知っていた。
寺下氏は地元六ヶ所に帰り、役場に入って戦後開拓に尽力した。
六ケ所村は、昭和20年代に満洲や樺太から大勢の方々が入植し、寺下氏は入植者の受け入れを担当。開拓者の厳しい生活を目の当たりにしてきた。昭和40年代、国や県は公害問題が全国で起こる中、説明会で住民の説得に努めたが、寺下氏は将来の公害問題の観点から、むつ小川原開発への反対をしてきたのであった。
当時の青森県竹内俊吉知事は、住民説明会を開いたが、村民による激しい抗議行動が起きた。しかし、1973年の六ケ所村長選で、79票という僅差で寺下氏を破り、開発推進派の古川伊勢松氏が当選したのをきっかけに、(今回任期満了で引退を決意した古川健治村長の実兄)六ヶ所村はむつ小川原開発推進の流れに大きく変わっていった。
六ケ所村の石油コンビナート計画は、日本の石油精製能力の半分、一日に200万バーレルの世界最大規模の生成能力のあるコンビナート工場を造る計画だった。
――核燃サイクル施設――
今では、核燃サイクル施設というのが一般的だが、1980年代は、核燃サイクル基地という言い方が一般的だったという。古くから反対運動に関わってきた人々は、「米軍や自衛隊など、有刺鉄線による侵入規制を行っている場所と同じだから」基地と呼んでいる。
70年代の2度のオイルショックで、国家石油備蓄基地建設における石油精製工場は建設されなかった。ところが、1984年、この土地の所有者「むつ小川原開発株式会社」(稲山嘉寛経団連会長)は建設を発表した。7月に小林庄一郎電気事業連合会会長が社長会で、原子力燃料サイクル3施設立地を決定し、むつ小川原港を訪れたのだ。石油コンビナート開発が頓挫したのにも関わらず、むつ小川原港は国の重要港湾として、建設が進められていった。
当時、むつ小川原港を視察した、小林庄一郎電気事業連合会会長の発言は、むつ小川原開発に核燃サイクル施設を計画・立地・建設をする、決定的な言葉になった。
「これは広いところですなぁ、私は関西ですから、非常にゴチャゴチャした海岸線…人家が急密なところばっかりありますんで、こういう土地があるというのは初めてみました。びっくりしました。良いところがありましたなぁ」
1985年4月9日、受け入れを決める青森県議会全員協議会が開かれた。
立地受け入れは、県民投票で行うべきとした9万人以上もの署名を無視して、猛烈な抗議行動の中、当時の北村正哉元青森県知事は、青森県庁はじまって以来という、機動隊を動員しての受け入れ強行を図った。発表から受け入れまで、わずか7ヶ月という、常識では考えられない速さで、計画は決定された。
用意周到な計画立案がなされたことを、思わずにはいられない。
この核燃サイクル基地計画は、原子力船「むつ」の最終的な母港として、解体されたむつ市関根浜港の周辺に、当初は計画されていたようだ。しかし、土地の広さで六ヶ所村に決定されたとの経緯があることを、6月14日に行われたシンポジウムで、東北大学の長谷川公一教授が指摘していた。
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2.六ケ所村泊漁港 海域調査反対運動
1985年に日本原燃六ヶ所原子力リサイクル施設建設による海域調査の受け入れで、大きな反対運動が起きた。その舞台となった漁港に、魚種が豊富で漁港としては現在も漁獲量の多い、泊漁港がある。
泊漁港は、六ケ所村最北部にある1000戸ほどの漁港であり、年間水揚げは10億円を超え、六ケ所村の中核的存在の漁港であり、人口も4300人ほどで、魚種も豊富な港だけに、核燃受け入れに反対する勢力も強い地域だった。
六ケ所村核燃施設反対運動を取材して、まだ間もない頃、古くから反対運動に携わってきた方々から、一冊の本と六ケ所村反対運動を記録した映像を数枚DVDでいただいた。その映像の中には、記録映画や、NHKスペシャルなどでよく見る映像が数多く収録されていて、当時の記録映像としては価値の高い素材がつまっている。
記録映画には、六ケ所村の反対運動を知るのにかかせない貴重な映像が残され、ショッキングな映像も収録されている。
しかし、いくつか真実が隠されていることに気がついたのである。
それが、記録映画「六ケ所村、泊は負けてねエ!」の中に記録されていた、海域調査受け入れの六ケ所村、泊漁港の映像だった。
現在、青森県魚連会長を務めている赤石憲二会長が、慎重派として六ケ所村泊漁協理事を務めていた頃に抗議をしているシーンや、泊漁協総会の中で、漁協組合員に賄賂として1万円が飛び交っていた事実、推進派の書面決議は偽造であることが見破られたこと、リコール総会となった経緯など、たくさんの重要な事実が克明に記録されている。
――【泊漁協海域調査受け入れ不当な決議の経緯】――
特に私の心に焼き付いているのは、日本原燃サービスによる、海域調査の受け入れをめぐっての、泊漁協組合総会のシーンだ。
1985年当時の泊漁協組合長は、滝口作兵ェ会長だった。推進派が賄賂を使って買収工作を行っていたために、7月の泊漁協組合総会で暴力行為が行われ、9月に逮捕者が出たことを理由に、推進派は滝口会長を一方的に解任。理事として推進派だった板垣孝正氏を新組合長に仕立て上げていた。
1986年1月10日の臨時総会では、推進派が1985年12月26日に勝手に提出した「受け入れを決議」書面議決書は、買収と偽造によるものだったことが暴露され、板垣組合長(理事)は一方的に流会宣言を出し、会場から消えた。
その後、定数を確認し、総会は再開され、受け入れの白紙撤回を決議した。
3月3日、板垣理事の組合長解任請求が出された。泊漁協の定款では、正組合員の5分の1を超える請求があれば成立するが、708名の内、384名の署名が出された。そして、3月19日「リコール総会」が開かれることになったが、推進派は総会を成立させないために、3月23日に「やりなおし総会」を行うと通告してきた。
3月17日、異例な形で行われたテレビ会見で、北村正哉青森県知事はこう述べた。
「3月23日開催予定の板垣組合長招集による臨時総会3月14日の理事会において、明確にその開催が決定され、招集通知が行われているわけですから、この一連の手続きは、適正なものであると考えられます」
反対派は、選任された組合長と知事の介入は、漁協の定款を無視した不当な行為だと抗議し、泊集落・漁港を街宣するほどの騒ぎになった。
――[反対派による「リコール総会」]――
3月19日、リコール総会がはじまった。高梨酉蔵泊漁協幹事により招集手続きが正式なものであることが読み上げられた。高梨幹事は、板垣理事に暴行を加えられ、全治9週間で入院中だったが、幹事としての業務を行うために出席していた。組合員によって、推進派の違法かつ不正な行為が次々に暴露されていった。書面議決書の賄賂で使用された証拠の一万円が提出され、お金をもらった組合員が、恐ろしくなって漁協に返還したものだという。
漁協職員による議案説明がなされ、定款37条の理事としての忠実義務に著しく違反するもので、理事として不適任である者だということが言い渡された。また、不正不当の事実が読み上げられた。
会場は満場一致で、板垣理事の解任を可決した。
――[推進派による「やりなおし総会」]――
3月23日、北村青森県知事が「やりなおし総会」と言った開催日、静かな泊漁港は機動隊の装甲車が会場の泊漁民センターを取り囲む物々しい状態になった。漁民に偽装した青森県警の刑事が大量に動員されていた。100名近い刑事が漁民センターの1階2階とも占拠し、泊の漁民を締め出した。
会場に漁民がなだれ込んだ時には、板垣理事はあらかじめ用意したメモを読んで、すでに会場に姿はなかった。
総会成立→議長選出→議案可決→閉会宣言の一人芝居を演じていたのだ。この間、たった1分32秒だった。
板垣理事は、警官に守られて会場を去っていった。
即座に、出席漁協組合員の出席者数の確認が行われ、漁協組合の業務部長により出席者数が発表されたが、その数342名、総会成立の350名に至っていなかった。さらに、書面議決書は、402名とされており、泊漁協の正組合員数の708名を超えてしまう人数であることから、それが虚偽であることは、明らかだった。
書面議決→402名
+
当日出席組合員数→342名
=744名
泊漁協正組合員数→708名
漁民の抗議に当時の山内善朗青森県副知事は、書面議決書の存在を追求し、公開を約束した。しかし、28年が経過し今も、それは実現していない。
この事実は、記録映画の中で静かに眠り、核燃サイクル事業の海域調査は行われ、核燃サイクルは、この事実をいまだに隠しながら遂行されている。
3.六ケ所村長選挙
先述した通り、1973年の六ケ所村長選挙では、現職だった寺下力三郎村長が、むつ小川原開発に対して絶対反対を訴えていた。これに対し、村議会議長の古川伊勢松候補が開発推進で青森県と自民党の推薦を受け、豊富な資金力で寺下力三郎村長の反対派を圧倒していた。
開票の結果、わずか79票差で、開発推進の古川伊勢松候補が当選した。
ここから、むつ小川原開発推進が本腰ではじまることになった。
しかし、オイルショックによる、むつ小川原開発の頓挫により、核燃サイクル施設の立地が争点になる。
1985年の核燃立地を争点に行われた六ヶ所村長選において、当時現職だった古川伊勢松候補と滝口作兵ェ候補の選挙戦では、推進側の古川候補者陣営に、当時の北村正哉青森県知事と、5人の自民党国会議員が応援に駆けつけた。その国会議員の一人が、青森県北村元知事の前任者で、石油コンビナート建設のために六ケ所村土地買収に走った竹内俊吉知事の息子、竹内黎一科学技術庁長官(当時)だった。核燃サイクル基地建設の背景には、石油コンビナート基地建設時から、用意周到に行われていたのではないかという疑問が残る。
その後、1989年の六ケ所村長選挙は、古川伊勢松村長の右腕とされる土田浩候補が、反対派の主張していた「核燃サイクル工事凍結」という公約を掲げ、「村民との話し合いをする」と、反対派との協定も交わし、票を伸ばして当選した。しかし、公約が守られることはなく、話し合いももたずに推進に転じた。土田元村長は、満州開拓から戦後に六ケ所村へ来た入植者だった。
また、この選挙戦では、高梨酉蔵候補が「核燃サイクル施設白紙撤回」を求めて戦ったが、反対派を2分させる結果となってしまった。当時の選挙戦は、反対派を2分させただけではなく、村全体にあった「結の精神」を完全に破壊する結果になったのだという。ここからは、推進派村長の独断村政が遂行されていくことになった。
1993年の六ケ所村長選挙は、高田與三郎候補が寺下力三郎元村長と手を組み、「核燃サイクル工事凍結」の公約を裏切った土田浩村長に挑戦を挑んだが、力がおよばなかった。
その後、橋本寿村長(2002年在任中に自殺)、古川健治村長と推進派の村長が続き、その間、反対派は世代交代をうまくつなげず、今回、当時の高田與三郎候補から梅北陽子候補へとバトンが渡された形となった。
しかし、今回の選挙戦では、梅北陽子候補と同じように、核燃サイクルを古くから反対してきた「花とハーブの里」菊川慶子候補も立候補。また、反対派で「名もなき詩人」の関千尋候補も立候補し、核燃サイクル推進陣営は、元六ケ所村副村長の戸田衛候補ひとりのみとなり、核燃サイクル反対候補3人と、推進候補1人という、これまでにない展開となった。
――菊川慶子陣営――
核燃に頼らない村、若者が帰りたくなる村、豊かな自然を活かす村を公約に掲げて立候補した菊川慶子候補の街宣活動は、街頭演説だけではなく、音楽を取り入れたり、手作りのサウンドカーで今までにない形の街宣活動が行われている。告示日の6月17日には、山本太郎参議院議員も応援に駆けつけた。
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――戸田衛候補陣営――
4人の立候補の中で唯一、核燃サイクル推進派である元六ケ所村副村長の戸田衛候補は、今期勇退する古川村長の政策を継続。「経済的にも精神的にも満たされた生活の向上を目指す」とした。核燃サイクルは村の基盤、原子燃料サイクルの共存共栄の道を歩んでいるとし、日本原燃再処理工場の「10月完成を」と力を込めた。
古川村長も応援演説に立ち、「大差で当選させよう」と言い放った。出陣式には村議会議員18人全員が参加し、日本原燃の川井吉彦社長も姿を見せたという。
――関千尋陣営――
異色肌の「名もなき詩人」関千尋候補も同じように、核燃反対を訴え、街宣では音楽を取り入れた、演説ではない形の選挙活動を行っている。
――梅北陽子候補陣営――
核燃反対の立場で過去の選挙を戦った高田與三郎候補からバトンを受けた梅北陽子候補は、「ブレることのない核燃サイクル施設反対」という第一声を上げた。「さよなら再処理工場」がキャッチフレーズで、「原子力いらないと訴え続けた先輩を引き継ぎたい」と主張。街宣では、応援演説ならぬ、応援SONGで、「千の風」「アメージンググレース」「ふるさと」などがオペラ調で披露された。反対派勢力は、音楽を武器に戦う場面が多く見られた。
※以上届出順
国策に翻弄されてきた、六ヶ所はじめ南部方面や下北半島は、国策という名のもとに、戦前・戦後の全てを国に捧げてきたといってもいい。いま、六ケ所村では、古川健治村長の任期満了に伴う新人4名による村長選挙が行われる。推進派としては、村会議員などの立候補の声は上がったが、最終的に古川健治村長の後継者として、戸田衛候補に一本化された。
反対派としては、初の立候補になる「花とハーブの里」の菊川慶子候補、前回の村長選にも出馬した梅北陽子候補、「名もなき詩人」関千尋候補の3名が出馬。推進派の恩恵が90%あると言われる六ケ所村において、反対派の候補3人が、どこまで票を伸ばせるのかが焦点である。
4.六ケ所核燃サイクル基地の問題点
依然として問題を多く抱えている六ヶ所核燃サイクル基地――。
- 大陸棚外縁断層から分かれた断層が、六ヶ所核燃基地に入り込んでいるとの、東洋大学渡辺満久教授の指摘。
- 三沢米軍基地が隣接していることによる、航空機事故・誤爆の危険性。
- 国家石油備蓄基地が隣接していることに対しての火災時の危険性。
- 数多い配管の耐震性の問題と、施設内に閉じ込める技術の不透明性。
- 本格稼動時の各核種の放出する放射性物質の問題。
こうした問題点が充分に議論されていないまま、本格稼働に向けて、日本原燃は規制委員会に審査の申請を出していることに、大きな矛盾を感じる。
次回は、この六ヶ所核燃サイクルの問題点と、三沢基地問題を追っていきたいと思います。
IWJのご健闘に敬意を表します。
六ヶ所村の経緯を上手く纏めていただき、大変参考になりました。
それにしても、今回の候補者の方々、反原発勢力が分散しては変革は空しいでしょうね。
統一候補に向けた動きは無かったものか?。
関、梅北の御両人は、地元の関川氏との交流は無かったのでしょうかね?。
何か割り切れない思いです。
この記事とは直接関係はありませんが、先週のMXテレビ「バラいろダンディ」木曜日で、苫米地氏が扱っていた北海道札幌市で2012年12月衆議院総選挙直前に臨時職員として郵便局に雇われた男が、郵便物の一部を配達せず密かに焼却処分している所を見つかり逮捕されたというニュースの、マスコミでの不可解な扱われ方や疑惑に関して、岩上さんはご存知なんだろうか。(15分37秒〜)
http://dai.ly/x1zh9xv
大変な作業、ご苦労様です。
六カ所の歴史の中で、1991年の「六カ所夏祭り」の影響があるんじゃないかと感じてます。
国策に翻弄されてきた六ヶ所村が抱える問題を、歴史的経緯から振り返る。
核燃料サイクルに翻弄されてる六ヶ所村の歴史が分り易い。
ー六ケ所村は日本全体の問題ですよねー