【IWJブログ】原発建設計画で真っ二つに引き裂かれた、上関町の今~「推進」と「反対」、32年目の逡巡(前編) 2014.3.31

記事公開日:2014.3.31取材地: テキスト
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(取材・文:原佑介)

★会員無料メルマガ「IWJウィークリー43号」より一部掲載。

 「原発がなかったら、わしは死んでる」――。

 “原子力発電所をもし誘致していなかったら生活はどうなっていたでしょうか?” と尋ねたとき、福井県・美浜町に住む漁師はこう答えた。

 原発を設置することによる保証金や国からの交付金、作業員が地元に対して落とすお金などがなかったら、とっくの昔に生活は成り立たなくなっていた、ということである。

 今回、私が取材で訪れた山口県・上関町は、「上関原発(中国電力)」の立地予定地だ。過疎化・高齢化が進み、10数年後にはなくなっていてもおかしくない限界集落も存在している。

 「ここはかつての美浜の姿なのかもしれない」。上関の姿を目の当たりにしたとき、そう感じざるをえなかった。

記事目次

震度5の地震が瀬戸内海を襲った日

 2014年3月14日、午前2時7分。震度5弱の地震が瀬戸内海西部を襲った。

 震源地は愛媛県・伊予灘で、震源の深さは78キロメートル、マグニチュードは6.2。愛媛県・西予市などでは最大で震度5強が観測され、また山口県や大分県の一部でも震度5弱が観測されるなど、地震による揺れは広範囲におよんだ。

 伊方原発のある愛媛県・伊方町では震度5弱を観測したが、幸いにして大きな事故や異常は発生しなかった。しかし、今回の地震が「南海トラフ地震」の前兆である可能性を示唆する専門家もいる。

 例えば、武蔵野大学特任教授の島村英紀氏は、「同じエリアでは、2001年に死者2人を出したマグニチュード6.7の芸予地震が起きている。1905年にもマグニチュード7.2の明治芸予地震で死者が11人出ており、規模の大きい地震が頻発するエリアで、今後も警戒が必要だ」と指摘。仮に今回の地震が「南海トラフ地震」の「前震」であれば、数年から10年以内に巨大な「本震」が起きる可能性があるという。

 南海トラフ地震が起きたとき、伊方原発はその衝撃に耐えうるのだろうか。島根原発は、玄海原発はどうか。福島第一原発事故を経験した今、このような不安が頭をよぎる。多くの日本人がそうだろう。

 さらに、伊方原発から瀬戸内海を挟んだ向かい側には「上関原発」の立地予定地である上関町がある。福島第一原発事故以降、上関原発の建設計画は進んでいないが、政府は、エネルギー基本計画案の中で、原発を「重要なベースロード電源」と位置づけ、新規制基準をクリアした原発の「再稼働を進める」と明記するなど、原発推進の姿勢を明らかにしている。上関原発の建設計画が再び動き出す可能性は、まだ十分に残っているのだ。

 そうしたなか、今回の地震を受けて、上関町や伊方町の住民はどのような思いを抱いているのか。確かめるために、私は、地震発生から3日後の3月17日、原発建設計画に揺れる山口県・上関町を訪れた。

限界集落「四代」~上関原発建設予定地の姿

 上関町は、室津半島の南端に位置する静かな港町である。原発の建設計画が浮上した1982年には6000人以上の町民がいたが、2014年現在では3258人とおよそ半数にまで減っている。山口県で最も過疎化が進む町のひとつだ。

 町の高齢化率(65歳以上の比率)は50%を上回っている。日本全体の高齢化率が24.1%(2013年内閣府発表)であることを考えると、事態の深刻さがわかる。

 最初に向かった先は、「四代(しだい)」という名の小さな集落。四代は、上関原発の建設予定地である「田ノ浦」を抱える、まぎれもない「原発建設予定地」である。山を挟んではいるが、集落から原発までの直線距離は約2キロで、目と鼻の先だ。四代は、上関町役場から車で30分ほど県道を南下した海岸に、ひっそりとただずんでいた。

▲四代の集落

▲四代の集落

 港に車を停め、すぐ目の前にいたおばあさんに話しかけた。カゴいっぱいの海藻を地面に並べて干している。取材目的を告げ、上関原発に対する考え方を聞くと、間髪入れずに答えが返ってきた。

 「賛成ですよ。ここのもんに、ほとんど反対はおらん」

 上関原発が建設されれば、この集落が原発からもっとも近い集落になるが、話を聞いたおばあさんは、福島第一原発事故を経た今も、原発に対して「怖い」という感情はないという。しかし、なぜ原発建設に賛成するのか。

 「年寄りが死ぬから、ここの人口は減っています。若い人はおらんけぇ。原発でもあれば仕事もあるんだろうけど、こんなところには会社もないですから」

 このまま人口が減り続ければ、近い将来、集落がなくなってしまう。そうなる前に原発を建設し、雇用を生むことで経済を活性化し、村を存続したい、という考えのようだ。聞けば、おばあさんの年齢は90歳。干しているのは上関町では有名な特産品の「ひじき」で、2月から5月までが収穫シーズンとのことだ。それ以外の季節は野菜などをつくって生活しているという。

――先日、3月14日に大きな地震がありましたが、驚きませんでしたか?

 「大したこともなかったですねぇ。よく揺れたけど。家のものはどうということもなかった。今回くらいの地震が(安芸)灘でもあった。10年前くらいかなぁ」

 「芸予地震」のことだろう。最大震度6弱のこの地震は、2001年3月24日に発生した。地震の震源は広島県上蒲刈島の南。マグニチュードは、6.7で、震源の深さは公式発表で51km。死者2名、負傷者288名。建物の全壊が70件、半壊774件、一部損壊が4万9千223件にも上った。被害総額は約193億円といわれている。

――そうした規模の地震が何度かきていますが、津波への恐怖はありませんか?

 「津波は恐ろしいねぇ。ここは海岸じゃけぇ、逃げるところがない。山の上の学校に逃げるまでに、津波がきてしまいますからねぇ。でも、ここ住んで60~80年も経つけど、津波はきたことないねぇ」

 おばあちゃんはそう話しながら笑顔をのぞかせた。津波自体に対する怖さはあっても、自分の村を襲うかもしれないという実感はまったくない様子だった。

 ひじきは丸一日かけて干し、その後は釜で炊き、さらにもう一度干して、より黒くなったものを出荷するのだという。道端に散らばっていたひじきを拾って食べてみた。磯の香りが口全体に広がった。しょっぱかったから、きっとまだ炊く前のひじきだったのだろう。

 おばあさんによれば、戦時中、米は国に徴集されたが、このあたりは魚が獲れたため、食べ物に困ることはなかったという。当時、食料不足で、都市部では飢えに苦しんだ人もいたことを考えると、この海沿いの集落の人々は、まさしく海に救われたのだといえるだろう。

▲インタビューに応えたおばあさん ひじきを干している

▲インタビューに応えたおばあさん ひじきを干している

「このまま村が潰れるか、少々危なくっても原発を選ぶか、どちらかを選ぶ」

(…会員ページにつづく)

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「【IWJブログ】原発建設計画で真っ二つに引き裂かれた、上関町の今~「推進」と「反対」、32年目の逡巡(前編)」への2件のフィードバック

  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見より) より:

    上関町で起きてることは、「かつての福島」なのだろう。原記者による現地報告、読み応えあり。

  2. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    【IWJブログ】原発建設計画で真っ二つに引き裂かれた、上関町の今~「推進」と「反対」、32年目の逡巡(前編) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/132397 … @iwakamiyasumi
    単純に原発反対といえない、あまりに残酷な限界集落の現実。人、町、海の繋がりが消えている。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/616358993833820160

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