「川内村の人たちは自然の恵みの中で暮らしていた。原発事故によって一番大切なものが失われてしまった」──。
2013年11月3日、兵庫県明石市で「たこ焼きキャンプ講演会『私の出会った原発災害~今、福島の子どもたちは~』」が行われた。岡山出身の大塚愛氏は、14年前から福島県川内村で農業と大工をしながら、自然と共に自給自足の生活を営んできた。原発事故により岡山に戻り、被災者支援団体「子ども未来・愛ネットワーク」を立ち上げて活動している。講演では、原発事故当時の避難の様子や現在の福島の状況、被災者支援の活動などを紹介した。なお、大塚氏は、2012年刊行の岩上安身によるインタビュー集『百人百話 第1集』(三一書房)にも登場している。
- 講演者 大塚愛氏(子ども未来・愛ネットワーク代表)
川内村での暮らしと原発事故
大塚氏は、「川内村は福島第一原発から23キロの距離にあり、周りには原発施設関連の仕事をする人も多い。私は以前、チェルノブイリの原発事故を描いた本『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた』を読んだことがあり、自然と共に暮らしながらも、原発がひとたび事故を起こせば大変なことになる、と考えていた。国や東京電力の原発広報パンフレットには、きれいなことしか書いていなかったが、東京で使う電気を福島や新潟などで作るのは、原発が安全ではないことを意味し、それが地方に押しつけられていることを感じていた」と話した。
3月12日、福島第一原発2号機の水素爆発を機に、家族と車で岡山まで避難したという大塚氏。「起きてはいけないことが『ついに起こってしまった』という思いと、『まさか』という思い。もし、放射能に赤い色がついていたら、もっと多くの人が逃げたと思う。どれだけの量の放射性物質が降ったのかなど、わからないことが多く、インターネットで調べた人が情報を伝えていく、という状態だった」。
夏休みでも日焼けしていない福島の子どもたち
大塚氏は「岡山では、2011年5~6月時点で、県に登録した避難者は約400人。それから2年以上経過した今も、1000人を越える人が東日本から避難して暮らしている」と説明。「私は、岡山で自主避難してくる人のサポートを始めた。空き家の募集や食料の提供、自主避難者たちの交流会を行ってきた。なかなか避難できない人のためには、保養の受け入れも始めた。こういうプログラムをきっかけに、被災者には移住を前向きに考えてほしい」と話した。
「福島から保養に来た子どもたちは、夏休みでも肌が真っ白。日焼けしていない。海へ行っても、まず『ここの砂は触っていいの?』と母親に聞く。福島では、触ってはいけないものがたくさんあるからだ。いつもは『ダメ』と言わざるを得ない母親たちが、『ここではいいよ』と言うと、子どもたちは解放されて楽しそうに過ごしている。母親たちも、来た時はこわばった表情だが、くつろいだりできるようになる」。
さらに、「チェルノブイリ原発事故から27年が過ぎたベラルーシでは、今も保養が続けられている」と述べた大塚氏は、「保養は、放射線量の低い安全な土地で、のびのび過ごすという精神的な利点もあるが、身体的にも、日々の生活の中で微量に入ってきてしまう放射性物質を、排出するのに役立つことが実証されている。できるだけ長く続けていきたい」と語った。
福島の景色は変わっていないが、暮らしは大きく変わった
川内村に帰村した人たちの様子について、大塚氏は「知人が送ってくれた『たらの芽』を放射能測定器で計ったところ200ベクレルあり、迷いながらも知人に報告した。知人は山が大好きで、山歩きは生き甲斐でもあったが、今年の春は山菜を取るために山に入ることを止めてしまった」と話した。そして、「福島の景色は変わっていないが、暮らしは大きく変わってしまった。秋になっても柿は食べられないし、栗も拾えない。川内村の人たちは自然の恵みに近いところで暮らしていた。『命』にとって一番大切なものが、原発事故によって失われてしまったことが残念でならない」と語り、「もう二度と、こんなことが起こらないように、私たちが変わっていくことが必要だ。原発再稼働はありえない」と結んだ。【IWJテキストスタッフ・荒瀬/奥松】