「民主主義国家」としての日本が、危機に瀕している。
安倍晋三総理の「お友達」に便宜を図ったのではないかと疑われている森友学園問題、加計学園問題に加えて、安倍総理が自ら改憲の期日を提示するなど、国家の私物化が著しい。
安倍総理は、こうした国家の私物化が国会で追及されることを避けるため、野党が強く反対していた共謀罪法案を、委員会採決を省略する「中間報告」という異例の手段を用いて、6月15日に強行成立させ、国会の延長を避けた。
国会を強引に閉会させたものの、安倍総理に対する疑惑は深まるばかりで、国民の声に真摯に向き合おうとしない安倍総理の姿勢に対して、批判の声が高まり、支持率が急激に下がりはじめたのはご存知の通りである。
そうした中でおこなわれた東京都議選では、安倍総理は表立って応援に立つことすらできず、小学校の体育館で支持者を集めて開かれた小規模な集会で応援演説した他は、最終日に唯一、東京都千代田区秋葉原で街宣しただけだった。
安倍総理はその最終日の演説で、強権をふるい、強引な政権運営に抗議する市民を指さし、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言。国民を分断する発言だと物議をかもし、翌日の投開票の結果、自民党は過去最低の38議席を大きく下回る23議席という歴史的惨敗を喫した。
そして安倍総理の「自信の源」だった内閣支持率は急降下し、「危険水域」と言われる20%代に突入。「安倍一強」が大きく揺らいでいる。
安倍総理は、「戦後レジームからの脱却」を訴え、日本を「戦争する国」に変えるための制度改変を進めてきた。現行の日本国憲法をGHQに押し付けられた「みっともない憲法」だと主張し、改憲に執念を燃やしている。
それに対し、明治維新後の大日本帝国、そして岸信介や安倍総理につながる「長州レジーム」こそが、日本の伝統にそぐわない異質なものだと批判しているのが、『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』の著者、拓殖大学政経学部准教授の関良基氏(下写真)だ。
関氏は、幕末の兵学者・政治思想家である赤松小三郎を「発掘」し、現行の日本国憲法につながる、そして現行憲法でも実現されていない先進的な憲法構想を提示していたことを著書の中で明らかにした。
山口県に縁のある安倍総理が、長州藩士・吉田松陰を尊敬し、戦前の日本を取り戻そうとしていることは広く知られているが、日本の政治における長州の影響はそれだけではない。
歴代の総理大臣経験者を概観すると、長州の人脈が、明治維新以後の日本の政治史において脈々と受け継がれていることが、改めて浮き彫りになる。
安倍晋三総理のほか、戦後の総理大臣では、佐藤栄作、岸信介、さらに民主党政権で総理を務めた菅直人も山口県の出身だ。佐藤栄作と岸信介は兄弟で、岸信介の孫が安倍総理である。
戦前、大日本帝国が国際連盟から脱退した1933年に外相を務めていた松岡洋右も、佐藤栄作の義伯父で、山口県の出身だ。さらに歴史を遡れば、初代総理大臣の伊藤博文をはじめ、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一が長州出身だ。
長州出身者は、長期政権を築くことが多く、桂太郎の在職日数は歴代最長の2886日、佐藤栄作は2798日、伊藤博文は2720日、現職の安倍総理は2017年7月末時点で2045日となり、歴代5位となっている。
長州出身者が政権を担った期間の合計は、36年超におよび、明治維新以後、長州の政治家たちが一貫して日本の政治の中枢にあったといえる。
戦後の日本では、「司馬史観」で典型的に表れているように、明治維新が美化されている。さらに、来年2018年には明治150周年を迎えることから、政府主導の「明治礼賛」キャンペーンが計画されている。
明治維新は「文明開化」ともてはやされているが、その実態は「武力クーデター」であり、明治維新で実現した憲法・議会制度は、赤松の構想に比べて遥かに劣った、上から押しつけの欽定憲法であった。
赤松は幕末、徳川政権と薩長の内戦を回避し、平和的に開国し、議会制民主主義体制に移行するために奔走していたが、志半ばで薩長の手により暗殺されてしまった。そして、明治維新の「先進性」を際立たせるために、赤松は自身の憲法構想とともに、歴史の闇に葬り去られた。
今回のインタビューでは、通常の明治維新神話では語られることのない「維新の志士」たちのテロ行為の数々や、国内では権威主義的・専制的にふるまう一方で、対外的には覇権国に従属しているにすぎない「長州レジーム」の実態といった、明治維新の「闇」を見つめるとともに、赤松の思想と生涯を一つの手がかりとして、過去から現在、そして未来へ至る日本のあり方を考えていく。