IWJで中継やテキスト関係のお手伝いをしながら報道現場の勉強をしています青木浩文(1960年生まれ。岩上さんの一歳年下です)です。
2年前の今日(8月26日)、俳優の米倉斉加年(よねくらまさかね)さんが他界されました。米倉さんは1934年7月10日、福岡市生まれ、享年80歳。偶然ですが私と誕生日が同じです。
初めて米倉さんを意識したのは、私がまだ小学生だったころ。1970年に放映されたテレビドラマ『坊っちゃん』だったと思います。主役の坊っちゃんは竹脇無我さん。米倉さんは「赤シャツ」を演じていました。
数々の悪行がたたり、ものがたりの最後には坊っちゃんから天罰をくだされることになる「赤シャツ」ですが、上等な背広とともに赤いシャツをばっちりと着こなしている姿や、キザな立ち居振る舞いに米倉さんのちょっと鼻にかかった声が、子ども心にも強烈な印象として残りました。それ以降、私は米倉さんのファンとなり、テレビで見かける度に「赤シャツの人」と呼んでいたような気がします。
その後、朝の連続テレビ小説『水色の時』(1975年)や刑事ドラマ『太陽にほえろ!』、山崎豊子さんの小説がドラマ化された『白い巨塔』(1978~1979)等々、数多くのドラマで米倉さんの演技を目にしました。「名脇役」とも評された米倉さんですが、それぞれのドラマにおいて、重要な鍵を握るような役回り、「影の主役」を演じることが多かったのではないでしょうか。
絵師としての米倉斉加年さん、栄養失調で他界した弟を描いた絵本『おとなになれなかった弟たちに…』
そんな米倉さんが絵師であることを、私が知ったのは米倉さんの晩年、そして、実際にその絵本を手にしたのは、お亡くなりになった後のことでした。
絵本『おとなになれなかった弟たちに…』(1983)は、半月後に終戦を迎えようとしていた疎開先で亡くなった弟のことを描いています。死因は栄養失調でした。配給で弟のために配られたミルクを、甘いもの欲しさに米倉さんが盗み飲みしたことが原因だと自らを責め、また、反戦への強いメッセージが込められた作品です。1987年から中学校1年生の国語の教科書に採用されているそうです。
そのはっきりとした目鼻立ち、そして特徴的な顎の形から、知性的ではあるけれども、野性的なイメージがあった米倉さんですが、描かれる挿入絵は、とても緻密で繊細な印象を持ちました。
「いま私には たくさんの朝鮮人の友だちがいます」―そして、モランボンのテレビCM出演
日本人の父と朝鮮人の母とその息子、三者の悲劇を表現した『多毛留(たける)』(1976)のあとがきには、米倉さんの次のようなメッセージが記載されています。
(私は福岡の生まれです。玄界灘のむこうは朝鮮です。小さいといから朝鮮を知っています。いま私には たくさんの朝鮮人の友だちがいます)
1979年、米倉さんは「生き続けている朝鮮の味」をうたったモランボンのテレビCMに出演されます。焼き肉のタレ、白菜キムチ、辛子明太子など、今日の日本の食卓には、あたりまえのように並ぶ食材ですが、差別意識の蔓延していた当時の日本社会では、CMに登場後、役から下ろされたり、メディアへの出演を断れたり、米倉さんは様々な妨害にあったとの話も耳にします。
当時、米倉さんがどのような思いでこのCMの仕事をされていたのでしょう? 他界されて2年たった今、あらためて思いを馳せています。
「ただ焼肉のタレの宣伝ではない、社会意識への挑戦であり、文化を伝える作業だと」
理学博士でモランボン株式会社の研究所所長であった鄭大声(ちょんでそん)さんは、米倉さんがCMに出演するに至った経緯について、著書『焼肉・キムチと日本人』の中で少しですが触れています。
彼をTVコマーシャルに起用するために、いまは故人のモランボンの全鎮植社長が一晩かかって彼を説得した。米倉氏はなかなか「うん」と言わなかった。苦労の末ようやく米倉氏が出演を引き受けるに至った話をここでは十分に紹介しきれないが、とにかく全社長の熱意と誠意であることだけは、ここに記しておきたい。昭和53年のことである。
※『焼肉・キムチと日本人』(鄭大声著)より
また、のりこえねっと共同代表の辛淑玉(しんすご)さんは、「はらっぱ」2010年6月号に掲載された「サバイバル手帳:踏み絵としての朝鮮人」という寄稿文の中で、CM出演後に米倉さんが受けた仕打ちについて、本人との思い出話も含めて、次のように著しています。
(略)米倉さんが受けた仕打ちは凄まじいものだった。まず、すべての役から下ろされ、メディアへの出演も断られた。仕事がまったくなくなったのだ。朝鮮人の味方をする者への兵糧攻めである。
もちろん米倉さんの子どもも無事ではいられなかった。学校で「チョーセンジン」といじめられて帰ってきて、「ねぇ、お父さん、私の家は朝鮮人なの?」と尋ねたそうだ。
その時、米倉さんは微動だにせず「そうだ、朝鮮人だ。朝鮮人で何が悪い?」という趣旨の言葉を子どもたちにかけた。
米倉さんは、1934年に福岡で生まれた日本人である。しかし彼は、自分は日本人だとは決して口にしなかった。それは、このコマーシャルを引き受けるときの彼の覚悟でもあったのだろう。
当時を振り返って、「あのとき、このコマーシャルはただ焼肉のタレの宣伝ではない、社会意識への挑戦であり、文化を伝える作業だと認識していたのは、全さんと私と、あなた(私のこと)だけだったかもしれませんね。わっはっは」と愉快そうに語ってくれた。
※「はらっぱ」2010年6月号「サバイバル手帳:踏み絵としての朝鮮人」(文辛淑玉)より
私の中の「米倉さん=赤シャツの人」というイメージが、すっかりと消えてゆきました。
先月狭心症の発作に見舞われた岩上さん――3時間のウォーキングの後、キックジムで汗を流すまでに体力が回復
勉強不足の私は、ある方が亡くなったというニュースで、その方の存在を初めて知ることが多々あります。死亡されたことによって、そのような方が生きていたことを知るという、はなはだ皮肉な体験です。「その人の魂が、死をもって、その人の生前のメッセージを私に知らしめてくれる」などと、耳触りのよい言い回しで自分自身を納得させていたりもしましたが、そんな言い訳に飽き飽きし始めている自分も感じています。
他方、時によっては4時間を超えることも珍しくない、岩上さんのインタビューは、今を生きる話し手のメッセージを、余すところなく掘り起こし、聞き手に伝えてゆきたいという強烈なエネルギーを感じます。
長時間、途切れることなく、次から次へとメッセージを引き出そうとする岩上さんのパワーも凄いですが、それに対してほとんど疲れを見せるどころか、楽しそうに受け答えされ続けてくださるゲストの方々に感服。そして、そのインタビューにじっと耳を傾けている聴衆の皆さんにも感動を覚えるのでした。
しかし、IWJの名物であり、柱といえる、そのロング・インタビューが、8月はほとんど配信できませんでした。
その前の7月、岩上さんが1年5カ月ぶりに狭心症の発作に見まわれたためです。
医師から働き過ぎを改め、静養につとめるように強く指示された岩上さんは、今月は決算期ということもあり、ジャーナリストとしての仕事は、少し控えて、組織のリーダーとしての仕事に社長業に専念しておりました。
インタビューを約1カ月近くお休みすると、会員の方からご心配の声とともに、早く復帰して新たな番組を配信してほしい、という声も届きます。会員の皆さんだけではなく、スタッフも気をもんでいますが、ようやく「復活」の兆しです。8月25日の午前中、唐突にインスタグラム(およびツィッター)への連続ポスト。3時間のウォーキングのあとキックジムで汗を流すまでに体力も回復してきたことをリアルタイムの実況で証言。スタッフも「いつまで歩き続けるんだろう!?」と驚きました。
毎日5時間歩くことを日課にしている「袴田事件」の袴田巌さん――「心ひそかに目標にしていた」
7月に狭心症の発作を起こして以降、ここまでに至るまでに、めまいを起こしたり、少しの散歩でもひどく息が上がったり、大変だったようです。
インタビューなど、表に出る仕事を控えても、すべての記事を読んでリライトするIWJのサイトの編集責任者としてのつとめと、前期の決算、そして今期に向けた新しい体制作りと予算組を行う組織のトップリーダーとしての仕事には休日もなく、顔色が悪かったり、慢性の睡眠不足に陥っていたり、スタッフの目にもこれまでの蓄積披露は相当なものだと思われました。
歩くなどの運動をしても、すぐにめまいやだるさを覚えて切り上げることもあったそうです。何度も壁に当たって何度もつまづきつつ、それでもめげずにまた運動する、という不屈のトライを1人ひそかに続けていたと聞きます。それが3時間ぶっ続けのウォーキングにまで結実したようです。あの日、急に長時間歩けるようになったわけではありません。
私は岩上さんの一歳年下ですが、正直あんなに歩き続けることはできないと思いました。その日、事務所で岩上さんと顔を合わせた時、なぜそこまで頑張れるのか、という話をうかがう機会がありました。
「歩くことは、生きること。歩けなくなったら、終わり。自分を諦めることになる」と岩上さんは話し、世紀の大冤罪事件といわれる「袴田事件」の袴田巌さんが、毎日5時間歩くことを日課にしていると聞いて、胸を打たれ「心ひそかに目標にしていた」と語りました。
48年の拘禁によって失われた体力、生命力、自由を、歩き続けることで取り返そうとしているのか
岩上さんから歩き続ける袴田さんのお話を聞き、私はいくつかのドキュメンタリー動画をあらためて見返してみました。
2014年に静岡地裁で再審開始と死刑・拘置の執行停止決定を受けて釈放された袴田巌さんですが、釈放後は浜松市でともに暮らす姉の秀子さんの自宅の中を、歩きまわるという日々が続いたそうです。袴田さんは、玄関から居間を通って和室へ。畳の部屋を一回りすると、また玄関口に向かって歩く。そんな動作を続けていました。
やがて、外出することに慣れた袴田さんは、現在では浜松の町をひとりで歩いているそうです。釈放直後は足元もおぼつかない様子でしたが、今ではその足取りは見違えるように力強くなりました。散歩というよりは、どこかの目的地に向かって先を急いでいるようにも見えます。
毎日、欠かさず5時間も歩くというのはたいへんなことです。48年の拘禁によって失われた体力、生命力、そして何よりかけがえのない移動する自由を、歩き続けることによって、取り返そうとされているのではないでしょうか。
▲金聖雄監督によるドキュメンタリー映画「袴田巌 夢の間の世の中」予告編。映画は2016年2月より日本全国で自主上映会が行なわれています。
歩き続ける姿は、リングの上で対戦相手に向かってひたすら突き進むボクサーの姿
袴田さんは27歳までプロのボクサーでした。少し猫背で、短い歩幅で足早に歩く姿は、散歩をしているというよりは、ファイチングポーズさえ取れば、そのままリングの上で対戦相手に向かってひたすら突き進むボクサーの姿に、私の目には映ります。
袴田さんにとっては、歩くことは生きることであり、生きるというのは、自由であり続けるために闘うことでもあるのでしょう。
袴田さんは、御年80歳になるそうです。奇しくも前出の米倉斉加年さんの享年と同じ年です。本当に頭が下がります。「袴田さんの歩き続ける姿に感動した」という岩上さんは57歳ですが、袴田さんの姿に励まされながら、自由であり続ける闘いのために、汗をかきながら歩き続けるのだろうと思います。
日本の中央値年齢は44.9歳――アンチエイジンは多くの人のテーマ
ちなみに、日本の中央値年齢(Median Age)とは、2010年の国連のデータでは44.9歳だそうです。中央値年齢とは、そこを中間として上の世代と下の世代の人口が同じになる地点です。平均年齢とは異なります。
そして、ちょうど45歳くらいから、アンチエイジンの必要性を強く感じ始める方が多いのではないでしょうか。
岩上さんが語った、「歩くことは、生きること。歩けなくなったら、終わり。自分を諦めることになる」という言葉、元気で自由で健やかで意味のある人生を送るというテーマは、多くの方に共通する関心のあるテーマに違いありません。
岩上さん率いるIWJに「ファイトマネー」?のお願い
身体のキレもよみがえり、長時間のインタビューの連続にも、きっと耐えうるタフネスを回復して、組織のリーダーとしてのマネジメントに徹していた最後衛のポジションから、最前線まで、岩上さんはポジションを上げてくることでしょう。暑い夏が終わり秋を迎えると共に、ジャーナリストとしての仕事に大きくギアチェンジしてくると思われます。
読書の秋、芸術の秋、食欲の秋、そしてIWJの秋です。どうぞご期待ください。
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そして、今日も一日IWJをよろしくお願いいたします。
▲「緑のオアシス。自撮り。蝉しぐれがここはまだまだ凄い。溢れる生命力、浴びて、歩く力、働く力、生きる力、戦う力をもらう」(岩上さんインスタグラムより引用)
(了)