(前編の続き)
(テキストスタッフ:関根かんじ)
◆ヤバすぎる緊急事態条項特集はこちら!
※全編映像は会員登録すると御覧いただけます。 サポート会員の方は無期限で、一般会員の方は記事公開後の2ヶ月間、全編コンテンツが御覧いただけます。 一般会員の方は、22/1/27まで2ヶ月間以内に限り御覧いただけます。
→ ご登録はこちらから
※8月4日テキストを追加しました。
(前編の続き)
記事目次
■イントロ
石田「ヴァイマル共和国憲法には緊急事態条項があり、何度も発令されていました」
岩上「ヴァイマル憲法第48条の『ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またその恐れがあるときは、共和国大統領は公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には武装兵力を用いて介入することができる』。
この『公共の安全および秩序』は重要。自民党改憲草案の『公の秩序』と同じです。
続けて、『この目的のために、共和国大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる』。丁寧に書いてありますが、自民党改憲草案と、事実上は同じですね」
石田「『必要な措置』とあるが、どんな措置かの規定がない。何でもできる。なぜ、このようなことを書き込んだかというと、ヴァイマル共和国の前のドイツ帝国で皇帝に戒厳令をだす権限があったからです。
そのドイツ帝国が崩壊して新国家の憲法を作ることになるのですが、国が混乱して内乱や戦争になった時に誰がそれを治めるのか議論になり、昔の皇帝の役割を大統領に担わせることになります。皇帝は世襲ですが、大統領は直接選挙で選ばれるので民主的だというわけです。こうして大統領に緊急命令権(国家緊急権)が与えられたのです。もちろん大統領になるような人は立派な人物だという「性善説」が前提でしたが。
ヴァイマル共和国の初代大統領エーベルト(社会民主党)は、右翼・帝政派と左翼の攻撃から共和国を守るため、緊急令を何度もだし、共和国の危機を乗り切りました。しかし、帝政主義者のヒンデンブルクが第2大統領に当選(1925年)し、世界恐慌の煽りで国政が大きく混乱する1930年代になると、緊急令は国会で定めるべき法律の代わりとして乱発されるようになります。
(注6)
全権委任法と授権法は同じ。文中では、授権法で統一。
この48条の第5項には『詳細は、共和国の法律でこれを定める』とあるが、結局、定められませんでした。為政者にとってその方が、都合がよかったからだという説もあります。
また、『これらの措置は共和国議会の要求があれば失効するものとする』と歯止めはちゃんとありました。そのためには議会の過半数の賛成が必要です。しかしヒトラーが国家緊急権を行使した時、議会は法案を潰さなかった」
岩上「自民党の改憲草案には、こういった歯止めもありません」
石田「ナチ党は、正式名を国民社会主義ドイツ労働者党といいます。『国家社会主義』という表現は、現在は使いません。ナショナルという語の訳し方ですが、ナチ党の場合、国家主義ではなく、国民主義、民族主義が基軸にあるので、ナチズムは国民社会主義ないしは民族社会主義と訳すのが正しいです。『労働者党』を名乗っていますが、労働者の利益代表ではなく、共産主義やマルクス主義から労働者を守る、という意味です。
それまで泡沫政党だったナチ党は、世界恐慌が有利に働き、1930年9月の国会選挙で第2党(得票率18.3%)になります。1932年に第1党(得票率37.4%)になるが、ナチ党のピークはここまでなんです。
ナチ党は、選挙で第1党にのし上がったのは確かですが、1932年11月の国会選挙で得票率は33.1%に下落します。第1党を維持しましたが、200万票を失う。ざっくりいって有権者の4人に3人は、ナチ党には投票していませんでした」
岩上「これって、今の自公政権と同じだ! よく『民主主義の喝采の中からファシズムが生まれる』と言う人がいるが、そうではない」
石田「そうなんです。ヒトラーは民意で首相に選ばれていない。国民が愚かだったからと責任を押しつけるが、事実は違うんです。1932年末にはヒトラーのナチ党は選挙資金もなくなり、暗たんたる状態。第2の指導者、グレゴール・シュトラッサーが党を分裂させるかもしれないという噂も立ちました。
そういう状況の中で1933年1月30日、ヒトラーが首相になり、『国民総決起政府』を打ち上げたが、それもナチ党の単独政権ではなく、保守派のドイツ国家人民党との連立政権でした。ヒトラー政府は実は少数派政権で、ナチ党196議席、国家人民党は52議席の合計248議席。与党は全584議席の過半数に満たなかった。
ヒトラーが政権を獲得できた理由は、落ち目になったヒトラーとナチ党を利用しようとする、ヒンデンブルク大統領などの権力者がいたからです。ヴァイマル共和国末期の首相(ブリューニング、パーペン、シュライヒャー)は、どれも国会に基盤らしい基盤を持たず、大統領の大権に依存し、政権運営にあたっていました。こうした少数派政府は『大統領内閣』と呼ばれ、ヒトラー政権もそのひとつでした。
これを理解しないと、ヴァイマル共和国の末期のドイツ政治はわかりません。つまり、ヒンデンブルク大統領がキングメーカー。これは、議会が多数派を形成できなかったことから生じた内閣です。『大統領内閣』とは、ヴァイマル憲法に明文規定されたものではありません。憲法が定める大統領の三つの大権、①首相・閣僚任免権、②国会解散権、③国家緊急権(第48条:非常時の緊急命令権)を組み合わせることで可能になったものです。
大統領は非常時に緊急令を発令できる。それは法律と同等とみなされました。なので、大統領を動かしてこれを発令できれば、首相は国会から独立して国政にあたることができた。」
石田「1930年春、世界恐慌で失業者が溢れ、ヘルマン・ミュラー(社民党)大連合政権は失業掛け金を巡って与党内で分裂、自滅していった。政党間対立が激化し、国会に多数派が生まれず、首相も選べなくなった。ヒンデンブルク大統領はその状況を利用してブリューニング首相とともに大統領緊急令で統治を始めたのです。以後、議会政治の空洞化が進んでしまいます。
貴族出身で軍人のヒンデンブルクは、社会民主党のような労働者政党が中心を担うヴァイマル共和国を快く思っていませんでした。その憲法も好きではなかった。大統領就任時に憲法に忠誠を誓っていますが、本気でその規範を守る意志はなかった。
大統領内閣による統治は次のようにして始まりました。
1930年7月17日、増税とデフレを基調とする政府の財政再建法案が国会で否決されると、ブリューニング首相はその法案を、大統領緊急令として公布させます。野党は直ちに大統領緊急令廃止法案を国会に提出し、国会はこれを可決しました。
これに対抗して大統領は国会を解散し、いったん廃止された大統領緊急令(財政再建案)を再公布したのです。これが始まりです。この政治手法に世論は憤り、この選挙でナチ党が第2党、共産党が第3党に躍進したのです」
岩上「増税とデフレも、今の日本と同じだ」
石田「ブリューニング首相は古典的経済主義者で、7年前のハイパーインフレを再び起こしたくなかった。また、戦勝国に対する第一次大戦の賠償支払いも困難を極めており、国家の弱体化を対外的に見せつけて賠償支払交渉を有利にしようとしたという面もあった。
キングメーカーとなったヒンデンブルク(1847~1934)は、旧ドイツ帝国陸軍元帥、第一次大戦の国民的英雄で、プロイセン王国の伝統を尊ぶ帝政主義者。ヴァイマル共和国大統領に初当選(1925年)したものの、国会を衆愚政治の場と捉え、代議制民主主義に代わる権威主義統治の可能性を追求していました。
1930年9月~1932年、左右両翼反対派の増大で、政府が打ち出す政策はどれも暗礁に乗り上げ、首相はますます緊急令に依存するようになりました。結果的に、国会開期日数、法案成立件数は減少し、緊急令が急増。政策は大統領周辺の官僚・専門家が策定し、国会は形骸化。世論は国会に影響を行使できなくなりました」
石田「1932年7月、パーペン政権下の国会選挙でナチ党が第1党になりますが、ナチ党と共産党を合わせると国会過半数を占めてしまいます。この時、共産党は『まもなく資本主義は寿命が尽きる。ヒトラーを首相にしておけばすぐにポシャるから、その後に自分たちの出番が来る』と考えていました。
8月、ヒトラーはヒンデンブルクから副首相を打診されるが、拒否。9月、国会が招集されると、直後に解散。また選挙です。パーペン首相は解散後最長90日間、国会が招集されないことを利用して、その間に大統領緊急令を使って「新国家」(制限選挙の導入、政党禁止、身分制国家)を作ろうとしました。パーペンには国民的な人気はありませんが、プレ・ヒトラーの真似をしたようなものです。
国民からは国会不要論が噴出。11月の国会選挙で、パーペン首相を支える唯一の与党、国民人民党は微増。かたや、ナチ党は議席を減らします。理由は、ヒトラーがいつまでもの首相の権力を握れないと思われたこと。景気はやや回復。ベルリンではナチ党と共産党が手を結び、支持者の反感を買ったからと言われています。
パーペンは国会再解散を求めるが、ヒンデンブルクは応じませんでした。そして軍人のシュライヒャーを首相に任命します。シュライヒャーは、「対角線構想」という軍部独裁を模索。ナチ党を分断させ、ナチ党左派を労組と共に政権基盤にしようとしたのです。
それを知ったヒトラーは激怒し、首相に接近したナチ党左派のインテリ幹部、シュトラッサーを追放しました。他方、財界は共産党の進出に危機感を抱き、最後の選択肢としてヒンデンブルク大統領にヒトラーの首相任命を要請します。
パーペン前首相も『自分が副首相になるから』と、ヒトラーの首相任命をヒンデンブルクに進言した。パーペンは『ヒトラーを(政権に)雇い入れる』『飼いならす』『用が済めば放り出す』 と、ヒトラーを軽く見ていました。
ヒンデンブルクはナチ党が1932年に第一党になっても、ヒトラーを『ボヘミアの一兵卒』と見下し、首相の座を与えることを躊躇していたが、ナチ党の退潮が始まり、共産党の伸張が保守派や財界の不安を助長する中、取り巻きの進言でヒトラーを首相に任命したのです。
ヒトラーを首相に任命した背景には、保守派とヒトラーの共通の目標がありました。議会制民主主義を終わらせ、伸びる共産党を抑え、ヴェルサイユ条約で制限されていた再軍備を実行する。強いドイツの出現です。
岩上「安倍イズムと重なります。議会制民主主義を終わらせる緊急事態条項も備え、日本共産党を批判し軍備強化を進める」
石田「1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されると、飼いならされるどころか一気呵成に攻勢に出た。連立与党の国家人民党の反対を押し切り、ヒンデンブルクに頼んで国会を解散、国会選挙(3月5日実施)に打って出ます。なぜなら、ヒトラーには勝算があった。大統領緊急令以外に、ナチ党には突撃隊、親衛隊、大衆宣伝組織があったからです。
ヒトラーが政権に就くと、共産党がゼネストを呼びかけた。すると、ヒトラーは直ちにヒンデンブルクを動かして、集会と言論の自由に制限を加える大統領緊急令を発令させ(2月4日)、自由な選挙を封じ込めました。突撃隊と親衛隊を『補助警察』にして、反対派の拘束に乗り出します。
そして、国会議事堂炎上事件(2月27日)が起こった。オランダ人無政府主義者による単独犯行説が通説になっていますが、いまだに論争は続いていて、現在の歴史学界は、ヒトラーの自作自演説に傾いています。
ヒトラー政府は、国会議事堂の放火を共産党による国家転覆の陰謀と断定。民族と国家を防衛するための大統領緊急令(国会議事堂炎上令)を公布。共産党国会議員、左翼指導者を一網打尽にし、合わせて憲法の定める基本的人権を停止しました」
岩上「これこそ自民党改憲草案にある、緊急事態条項ですね。
1933年2月28日に出た「民族と国家を防衛するための大統領緊急令(国会議事堂炎上令)」とは、『共和国憲法第48条第2項に基づき、共産主義者による国家の安全を危険にさらす暴力行為を未然に防ぐため、次のことを命令する。(1)共和国憲法第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)は、当分の間、効力を停止する。人身の自由・言論の自由(出版の自由を含む)・結社および集会の権利の制限、信書・郵便・電信・電話の秘密に対する干渉、家宅捜査・押収の命令及び所有権の制限等は、これに関する一定の法律上の限界を超えるときにおいても、認められる』というもの」
石田「大統領緊急令が発令された1933年から1945年の敗戦まで、ドイツには基本的人権はありませんでした。事件の直後、たった一日で予防拘禁として5000人の共産主義者などを令状なしで逮捕した。彼らを収監する刑務所が足らず、仮設の収容所をどんどん建設しました。
また、ドイツは長い連邦制の伝統があり、バイエルン州のように州自治の独立意識が強かった。ヒトラーは、『州において公共の安全及び秩序の回復に必要な措置がとられないときには、共和国政府は、その限りにおいて州最高官庁の権限を一時的に用いることができる』として、州政府にも介入しました。
ドミノ倒しのように、共和国全土が一気にナチ化したのです。ヒトラーは、この大統領緊急令によって政治的反対派の動きを封じ込め、地方政治を粉砕しました。そして次の狙いが授権法でした」
岩上「まさに、自民党改憲草案にも『公の秩序のため』という文言が散りばめられています。緊急事態条項は地方自治も麻痺させ、まったく同じだ。ヒトラーは授権法をいつ用意していたんですか?」
石田「実は、授権法はヒトラーが初めて使ったのではないのです。1923年、ドイツでは天文学的インフレが起きました。その時、国内を安定させるために授権法を成立させていたんです。しかし、分野を限り、時間も限定されていた。ナチ党は、ヴァイマル共和国時代、大統領のだす緊急令で何度も痛い目にあってきた。だから、ヒトラーは、今度はそれを逆手にとって大攻勢をかけたんです。
ヒンデンブルクも授権法を支持していました。それは、大統領の責任逃れのためです。また、保守派の政治家も賛同していた。しかし授権法を成立させるのは大変で、国会議員総数の3分の2以上が出席し、さらに出席した議員の3の2以上の賛成投票が必要だった。
1933年3月5日の国会選挙では、ナチ党は43.9%しかとれなかった。連立与党の国家人民党8.0%の票を得て、ヒトラー政府は過半数の議席を得ましたが、3分の2には届きません。それでヒトラーは姑息な手法を使った。
国会議事堂炎上事件の容疑者として共産党の国会議員を全員拘束していたが、それには議決にあたり、母数を減らす狙いがあった。そして社会民主党など反対派の『欠席戦術』を未然に防ぐために、『議長の認めない事由で欠席する者は登院を認めず、その欠席は出席とみなす』という議院運営規則改正案を直前に国会に提出し、賛成多数で通過させたのです。
このようにして、1933年3月23日、補助警察となった多数の突撃隊員が議場で議員を威圧する中、採決が行われました。結局、反対票を投じたのは社会民主党の議員だけでした。
授権法とは、『第1条:国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。第2条:政府が制定した国の法律は、憲法と背反しうる』というもの。つまり、ヴァイマル共和国憲法の無意味化、形骸化です。これは、国会議事堂炎上令とともに、ヒトラー独裁の法的根拠になりました。だから、ホロコーストも可能になったのです」
岩上「……麻生さんは、これをしたかったんだ!」
岩上「ドイツ国民がヒトラーに惹きつけられて、空気が変わったと言われています。今の日本も国民が萎縮した状態で、政治的関心も衰えて重要なことが決められていく。当時のドイツでは、国民にヒトラーへの反発はなかったのですか。また『3月降参者』とは、どういう意味でしょう?」
石田「3月の選挙の前後に、何十万人もの人々がナチ党に入党したことを指します。最初の大量入党者は公務員や学校の教員でした。官僚は機を見るに敏で、それで行政が一気に変わった。授権法成立の2日前、記念式典『ポツダムの日』を開催し、ヒンデンブルクがヒトラーにプロイセン帝国の後継者としての歴史的正当性を認めたことも影響しました」
岩上「ヒトラーは、独裁者で攻撃的なイメージが強い。しかし、平和主義者を偽装することもあったのですね」
石田「4月、ヒトラーはベルリンで、自分は平和愛好者だと演説をしました。他方で、裏では再軍備や徴兵制の約束をして国防軍を惹きつけていた。人心掌握術に非常に長けていたんです。各界の有力者、聖職者までヒトラーを支持し、こぞってナチ党に入党し、学生に大きな影響を与えました。
当時の国民も『多少の不自由は仕方ない。表立って異論を唱えなければ生きていけるし、ナチ党員になれば生きるのが楽になる』と考えるようになった。
ゲッベルスの指揮する国民啓蒙宣伝省が、大いに活躍しました。ナチ党には実績がなく、ヒトラーの演説と(集会運営などで)政党として培った宣伝ノウハウで力をつけてきた。それまでは、選挙にラジオは使われなかったが、ゲッベルスが初めてラジオ放送を利用しました。
『民衆宰相ヒトラー、平和愛好家ヒトラー』という親しみやすい人物像を作り上げ、失業問題の解消、国民統合の進展、強いドイツの出現など、言葉巧みに演出しました」
岩上「まさに、アベノミクスと同じです。安倍総理は『失業者は減った』と言うが、働く人の数を非正規雇用者に置き換えているだけです」
石田「ナチ党は、失業者の解消のために青天井の公共投資をしました。かつ、勤労動員をかけ、共働きを禁止し、女性勤労者を家庭に帰した。これは民族共同体の思想につながります」
岩上「女性が働くためには、子どもを預けられる環境がなければならない。安倍政権は『一億総活躍』と言い、世界中に何兆円もバラまきながら、保育所等の整備に必要な3000億円は出さない。日本会議などは家族主義を謳い、男女の役割も昔と同じようにしたいという。まったく、昔のドイツと同じ構図ですね」
石田「子どもを増やすために、ナチ党は子ども手当を整備します。一方で徴兵制も決めた。アウトバーンも、ヒトラーのアイデアではない。全部、ゲッペルスがヒトラーの手柄のように演出するんです。国民はそれを信じた。企業減税、住宅補助も、すでにクルト・フォン・シュライヒャー首相が実行していたことです。
授権法の恐ろしいところは、政府が続々と新法(ナチ法)を制定したことです。これは『決められる政治』の実現ですが、国会は開店休業状態で、政府の意のままです。ナチ法には、自然保護法や遺体の火葬の法律など、良い点、新しい点も多々ありました。ですから、国民は世の中がダイナミックになったと感じたことでしょう」
石田「ヒンデンブルク大統領が亡くなった直後、ヒトラーが大統領と首相も兼ねた総統になり、新しい秩序を回復したとして、1934年9月、ニュールンベルグでナチ党大会を開催。レニ・リーフェンシュタール(映画監督、写真家。1902年~2003年)が『意志の勝利』という映画にしました」
岩上「レニ・リーフェンシュタールには、私はドイツで取材したことがあります。彼女は『ヒトラーもいいことをした』と言いました」
石田「それ自体すでにプロパガンダに染まっていて、そう信じたいんです。彼女は共犯者です。
ヒトラーはヒンデンブルクの死去の1ヶ月前、SA(突撃隊)のトップで、かつてナチ党ナンバー2ともいわれたレームを粛正しました。過去に汚れ役を担っていたSAの指導者レームでしたが、ヒトラーが政権に就くと、「第二革命」の実現を求め、国民軍を創設して国防軍にとって代わると言い出し、物議を醸していたのです。いまや厄介者となったレームらをヒトラーは切ったわけです。
絶対の指導者を意味する「総統ヒトラー」の誕生を国際社会はヴェルサイユ条約の負い目と共産主義への反発もあって、容認しました」
岩上「伝統のイメージを、国内だけではなく国外にもアピールしたのですね。安倍総理は今年6月のサミットで各国首脳を伊勢神宮に連れて行き、神道では参拝したことになる御垣内(みかきうち)に招き入れました。あとで宣伝にも使えて、参議院選挙へのプロパガンダにもなりました」
石田「ヒトラー支配下のドイツでは、最初は共産主義者・左翼運動家ばかりが拘束された。ユダヤ人は当時、ドイツ国内に50万人程度の少数派です。迫害といってもほとんどの国民には無関係でした。だが次第に迫害から利益をえる国民が増えてゆきます。
ホロコーストは、当初のユダヤ人追放政策が、第二次世界大戦下で絶滅政策に転じたことで生じました。その犠牲者の大多数は第二次世界大戦でドイツが勢力下においたヨーロッパ全域のユダヤ人です。その数は約600万人にもなりました。
最初は小さく、少しづつ姿を現す。
今のフランスの戒厳令も同じで、気がつけば大きくなっているんです。しかし、その時はもう遅い。早い段階で気づくべきです」
石田「ドイツの社会は、ビスマルク帝政時代からいくつかに分断されていました。宗教ではカソリックとプロテスタント、階級では労働者層と市民層という具合に、です。ヒトラーは『ドイツよ、ひとつになれ。ひとつになれば強くなる』と、演説で何回も言っています。
自由主義も共産主義も社会主義も、国民を分断するための思想だと訴え、『ドイツをひとつにするのが自分たちだ』と。平等主義と実力主義、全体への献身と自己犠牲を説きました。強くなれ、という趣旨は、戦争のためです。しかし、それは最後まで明かさない」
岩上「自民党もプロパガンダがうまい。マスメディアも懐柔されてしまった。今はまだ、週刊誌やネットメディアがラディカルな姿勢を保っているが、緊急事態条項が決まればもう書けないですね」
石田「危険ですね。自由な報道はもう望めない。
よくヒトラーの「偉業」といわれる失業の解消も、根拠となる信頼できるデータはありません。国家予算も公表しなくなった。ヒトラーにとって国家は道具なんです。12年間のナチ時代に、既成の国家組織はヒトラーの権力に浸蝕・解体され、結局再構築はできなかった。
ヒトラーは大勢のサブリーダーを従え、彼らの競合で恒常的カオス状態を引き起こしていました。ヒトラーへの忠誠心で『総統の意志』を斟酌(しんしゃく)し、『総統のために働く』という風潮になりました。一般国民には目くらましが多く用意されました。少数派の弾圧から生じた国民的な『受益の構造』ができていき、ナチ党との共犯関係、合意独裁へと進みます。
裕福なユダヤ人に放棄させた財産を競売にかけ、市民はそれを安く手に入れて(受益)共犯関係ができていたんです。現在ドイツでは、それらを明らかにして、過去の反省を促す歴史展示もたくさん開催されています。
ナチ党も、最初はユダヤ人を殺すまでには至っていませんでした。『ユダヤ人はドイツにいると迫害されるから出国せよ』と言っていた。
ナチ党とシオニスト(注7)はつながっていて、ハンナ・アーレント(ユダヤ人の政治哲学者、思想家1906年~1975年)は、それを批判しています。
ナチ時代のドイツは、様々な少数派の犠牲の上に多数派の利益を追求しようとしました。だから多数派の間で合意を作ることは難しいことではなかった。多数派にとって、ナチ時代は案外、都合がよかったんです。恐ろしいですね」
(注7)パレスチナに故郷を再建しようとする運動、あるいはユダヤ教、ユダヤ文化の復興運動をシオニズムといい、それに共鳴し、積極的に参加するユダヤ人のことをシオニストと呼ぶ
(…サポート会員ページにつづく)
アーカイブの全編は、下記会員ページまたは単品購入より御覧になれます。
サポート会員 新規会員登録単品購入 550円 (会員以外)単品購入 55円 (一般会員) (一般会員の方は、ページ内「単品購入 55円」をもう一度クリック)>