「母が、弟が死んでも涙がでなかった」 長崎原爆で家族全員を失った被爆者の告白、自らも覚悟した被爆死(原佑介記者) 2014.8.9

記事公開日:2014.8.14取材地: テキスト動画独自
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(IWJ・原佑介)

 広島、長崎に人類史上初の原爆が投下されてから69年が経った。

 被爆者の今年の平均年齢は79歳を上回った。戦争体験や被爆体験を語り継ぐ世代が少なくなると同時に、戦争や原爆に対する国民の理解がいよいよ薄まってきている。そんな中、7月には集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がなされ、再び日本は戦争への道を歩もうとしている、と懸念する声も少なくない。

 IWJは広島、長崎の平和記念式典を取材するとともに、戦争、原爆体験者の生の声をすくい上げ、語り継ぐべく、8月9日、長崎原爆被災者協議会で事務局長を務める被爆者の山田拓民さんに話をうかがった。

■イントロ

原爆投下の瞬間

 山田さんは長崎市鳴滝にあった県立・長崎中学校で原爆投下の瞬間を迎えた。当時、山田さんは旧制中学の2年生、14歳だった。学校は爆心地から約3.3キロのところにあった。

 「原爆破裂時は、とにかくびっくりしました。大きい音と目が潰れるような光で、校舎も揺れて。教室の中の一人が咄嗟に『危ない!』と叫んで、みんな机の下に潜り込んだんです」

 原爆の音と、校舎の壊れる音が静まり、気味が悪くなった山田さんは机の下から出た。ケガはなかったが、教室の窓ガラスは全部壊れていて、ガラスの破片が机や壁に突き刺さっていたという。当然、生徒も教師も、自分の身に何が起きたのかはわからない。山田さんは、当時の複雑な心境をこう振り返る。

 「当時の空襲は爆弾や焼夷弾などを落としていって、一面が火災になる印象があった。ところがボロ校舎も壊れないし、近所の家を見ても、屋根瓦はぐちゃぐちゃだったけど壊れた家もなく、火の手が上がっている気配もない。何が起こったかわからないというのが正直なところでした」

原爆投下後、家族と合流

 教師に促され、その日、生徒らはすぐに下校した。山田さんの自宅は、爆心地からわずか800メートルのところにあった。家が近づくにつれ、被害の様相が変わってくる。「人間がこんなにめちゃめちゃになるのか、という光景にぶつかったんです」。それまで長崎は空襲も少なく、山田さんは怪我人や死者を見る機会は少なかったという。

 「めちゃくちゃになった人間を見るのは初めてだったから、びっくりして、自分の家のことが心配になったんです。原爆体験者は、よく『首をもたげた赤ん坊をおんぶする母親がいた』なんていう話をしますが、私はあたりを見回す余裕もなく、一所懸命に歩きました」

 山田さんは父(当時48)、母(36)、姉(16)、次男の弟(12)、そして三男の弟(9ヶ月)と、6人家族で暮らしていた。家に辿り着くと、家屋は潰れていたが、母と姉、二人の弟にはすぐに会うことができた。

 長崎商業学校で教師として働いていた父はその日、生徒たちの学徒動員先だった三菱兵器工場(現在の長崎大学。爆心地から1.3キロ)にいた。その日、父は帰ってこず、山田さんたちは自宅周辺の路上で夜を越した。しばらくの間、自宅周辺の地べたで横になって過ごす生活を続けた。その間も父は帰ってこなかった。

 原爆の爆発の影響で母は首に裂傷を負い、弟は両腕に無数のガラス傷を負ってはいたが、それぞれ命を失うほどの怪我ではなかったという。ところが、3日後の8月12日、事態は一変した。かすり傷ひとつなかった生後9ヶ月の弟が、突然、息をしなくなったのだ。

外傷もないのに迫りくる「なぞの死」

 「長崎では『ぐぜる』と言うんですけど、死んだ弟は、ぐずぐずと変な泣き方をしていたんです。母が必至にあやしていたが泣き止まず、力なく泣き続けていました。それがおさまったので、『泣き止んだか』と思ったら、『隆史ちゃんが息しなくなった』と母が言ったんです」

 手をあてても呼吸がない。そうこうしているうちに、心臓が止まった。身体には傷ひとつなかったのに、なぜ、突然、赤ちゃんが死んだのか、山田さんたちにはわからなかった。その夜は、母が死んだ赤ちゃんを抱いて寝た。翌朝、今度は姉が冷たくなっていた。

 山田さんは、「姉は打撲などをして痛かったのかもしれないが、苦しくて動けない。ということでもなさそうでした。よく、横になっていたのは知っていましたけど、姉がこの間、どうしていたかは見ていませんでした」と淡々と振り返った。

 原爆から3、4日が経ち、道端の死体が腐り始め、悪臭が立ち込めた。あちこちの畑で、生き残った人たちが、亡くなった身内の遺体を焼いていた。

 「姉や赤ん坊の死体も2、3日で腐ってしまう。『腐る前に焼くべきだ』と母に言いました。母はびっくりしていましたが、燃える材木を探し、畑に集めて、周りのやり方を真似しながらマッチで火を点けて、シャツだけ着せて、遺体を焼きました」

 山田さんは、「本当にむごい焼き方だった」とこぼす。生き残った山田さんたちは、父の実家で、山田さんの祖母が住んでいる諫早市に、すでに運行していた汽車で向かった。姉が死んだ翌日、14日のことだ。

 諫早は、長崎市から25キロほど離れたところにある。諫早では、消息不明だった父との再会が待っていた。

「これはもうだめだ」変わり果てた父の姿

 山田さんの父は、海軍病院に入院していた。ものすごい怪我だった、と山田さんは言う。

 「原爆が破裂したとき、父は窓側にいたようで、おでこから上は庇(ひさし)の影になっていたようで傷はなかったんですが、顔、胸、お腹、両腕はすごい火傷を負っていて、父は福耳だったんですが、耳たぶは溶けていた。背中は大きな切り傷があった。はじめ見たときは、『これはもうだめだ』と思った」

 父の入院する海軍病院に空きがあり、負傷していた母、弟も入院することになった。その頃、弟は血の混じった下痢をしていたが、当時、そうした症状の人は多かった。父母は6人部屋で同室だったが、弟は、医者から「赤痢」だと診断され、隔離病棟に入った。

家族全員が原爆で亡くなった

 母の身体にはその後、あちこちに赤い斑点があらわれ、身体が動かせなくなった。8月23日の午前中、容態が悪化した。

 「母の意識はなくなってきていましたが、医者は『そんなにすぐは死なないだろう』と言っていました」

 その日、山田さんが買い物に走ったり、別病棟にいる弟のお見舞いをしている間に、母は息を引き取った。原因は不明だ。

 さらに翌24日の朝、祖母の家にいた山田さんに再び訃報が届く。弟が亡くなったのだ。山田さんが最後に弟を見舞ったときには、だいぶ衰弱し、起きているのか寝ているのかわからない、うつろな状態だったという。山田さんが病院に駆けつけたときは、すでに弟の遺体は片付けられてしまっていた。

 「父は、『こんな病院にいたくない』と言いだしたわけ。母も弟も死んだ場所ですから、『こんなところにいたら殺されてしまう』という気になったんじゃないですかね。医者も、父の容態を諦めていたのか、おばあちゃんの家で養生することを認めてくれて、外科の先生に往診してもらえばいい、ということで退院することができました」

 もっとも外傷が酷く、手遅れに思われた父は徐々に回復し、翌1946年の夏から教師として少しずつ復職を始めた。その後、約16年間生き、1961年12月に肺癌で他界。64歳だった。

 山田さんは、「家族全員が原爆の影響で亡くなった」と確信している。海軍病院で亡くなった母、次男の弟の死亡診断書には「原爆死」と書かれた。家の周辺で亡くなった姉、三男の赤ちゃんには死亡診断書もない。のちに、口頭で「現地で死んだ」と伝えたという。

家族が死んでも涙が出なかった理由

 山田さんは、原爆に対する驚きなどの感情を詳細に表現する反面、家族の死については、なぜか淡々と時系列順に事実を述べるにとどまっていた。

 山田さんは、「母が死んでも、小さな弟が死んでも、姉が死んでも、上の弟が死んでも、変な話だけど、泣かなかったのよ」と明かす。

 「涙が出なかったのよ。『ああ、死んだか』って。病室の中でもね、次々死んでいくわけ。だから、『ピカにあたった連中は死ぬ』という話が伝わっていたわけよ。長崎を出る前からそういう話は回っていたんです。外からみても怪我がない病人が次々死んでいく。そうするとね、『あのピカに当たった連中はみんな死ぬ』という話が、本当のことだと聞こえてくるわけね」

 山田さんは、「だから弟が死んだときも、『お兄ちゃんもすぐあとで逝くけんね』という気持ちで。『私も死ぬ』という気持ちはありました。別れて悲しい、というよりは、『すぐあとで行くよ』と。

 だからだろう、と思う。後から考えれば、母が死んだとき、子どもなら、遺体にすがって泣くのが当たり前なわけだから。『なんで俺は当たり前じゃないのか』って考えたこともあったしね。そんなことを考えると、今になって涙が出てくる」と語り、涙を拭いた。

そして被爆者は棄民となった

 被爆者は、路頭に迷った。国策によって棄民となった、ともいえる。

 1942年に制定された「戦時災害保護法」は、空襲死亡者の遺族や戦災障害者、住宅や家財が破壊された者などを保障し、また、負傷者救助のための施設や食品の供与、医療、助産の保障を定めている。

 しかし、戦時災害保護法そのものはGHQの命令で1946年9月に廃止されるのだが、1945年の10月5日には広島で、10月8日には長崎で、戦時災害保護法による行政からの救助は打ち切られ、すべての救護所が閉鎖した。

 マンハッタン計画の副責任者として広島、長崎の影響調査にあたったトーマス・ファーレルは、1945年9月6日、東京帝国ホテルで海外プレスに向け、「広島、長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、現在、原爆の放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」とする声明を発表した。占領軍は、報道関係者などの広島、長崎への立ち入りを禁じるなどの言論弾圧も行った。

 こうした背景を踏まえ、山田さんは、広島、長崎という被爆地で、戦時災害保護法の適用が打ち切られたのは、原爆被害の実態を公にしたくない米国に対し、日本政府が遠慮したからだ、とにらむ。

 「救護所がなくなると、怪我をした被爆者はどうしようもないですから。焼け跡に小さな小屋作って暮らしたり、親戚のところに転がり込んだりして、みんなから見えないところで暮らした。本当に放り出されたんです。

 被爆者は、社会から見えないところで暮らさざるを得なくなる。悪口を言う人も出てくる。住むところがなく、親戚を頼ると、『被爆者だから近くによるなよ、病気が移るぞ』と言われる。まともな暮らしができない状況に追い込まれたんです」

「被爆者、焼夷弾を受けた人、すべて国が保護の対象にすべき」

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“「母が、弟が死んでも涙がでなかった」 長崎原爆で家族全員を失った被爆者の告白、自らも覚悟した被爆死(原佑介記者)” への 1 件のフィードバック

  1. @55kurosukeさん(ツイッターのご意見) より:

    「母が、弟が死んでも涙がでなかった」 長崎原爆で家族全員を失った被爆者の告白、自らも覚悟した被爆死(原佑介記者) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/161708 … @iwakamiyasumi
    これが原爆の「リアル」。被爆者は原爆と日本政府による棄民政策の犠牲者となった。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/630124130336051205

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