2013年6月29日(土)14時より、東京都千代田区の在日本韓国YMCAアジア青少年センターで「トーク&パレード 〈新規建設おことわり—上関から原発のない未来へ—〉」が行われた。上関原発への反対運動を続けている清水敏保氏は、31年におよぶ原発建設との戦いで一番つらいのは、「島の人間が対立し、分断されていること」と述べた。
(IWJテキストスタッフ・花山/奥松)
2013年6月29日(土)14時より、東京都千代田区の在日本韓国YMCAアジア青少年センターで「トーク&パレード 〈新規建設おことわり—上関から原発のない未来へ—〉」が行われた。上関原発への反対運動を続けている清水敏保氏は、31年におよぶ原発建設との戦いで一番つらいのは、「島の人間が対立し、分断されていること」と述べた。
■ハイライト
清水敏保氏は、上関原発建設計画の経過と、これからの問題を語った。「1982年6月の上関町議会で、企業誘致の一環として、町民の合意があれば原発建設を進めてはどうか、と急に話が出た。その議会で町長が提案した時は、議員定数18人のうち賛成が17人で反対はひとり。そこから、町全体で推進の流れになった」と、当時を振り返った。
祝島の住民が原発建設に反対した理由について、清水氏は「島から4キロの建設予定地周辺は、良い漁場であること。当時、原発の下請け労働で働いた人が20名ほどいて、『原発は10分も働くと線量計が鳴り、仕事ができなくなるので危ない、恐ろしい』と訴えたこと。そして、祝島では、万が一原発に事故があると、逃げる術がない」と述べた。
祝島は反対したものの、上関町全体では多数決で負けてしまうため、原発の建設計画は進められていったという。清水氏は「2008年、計画に大きな動きがあった。公有水面の埋め立てを、山口県知事が認めた。中国電力は、2009年9月から埋め立ての準備工事を始めた。埋め立ての条件は、1年以内に着工、3年間で埋め立て工事を完了することであった。われわれは、とにかく埋め立て工事を着工させてはならないと、24時間体制で毎日阻止行動をやってきた。その時、岡田和樹氏らがこのことを知って、全国から青年たちが参加してくれた。そのおかげで、24時間体制で行動を続けられた」と説明した。
現在の状況について、清水氏は「福島第一原発事故によって、これまで強行に進められてきた埋め立て準備工事もさすがに中断となった。海には、砂利をダンプ10台分落とされたが、綺麗なままで残っている。しかし、埋め立ての延長許可を出さないとの公約で当選した新知事が、結局、埋め立て免許の判断を1年先送りしている。また、去年の衆議院選挙で自民党が政権を取った。そして、中国電力は、先日の株主総会で『上関原発を諦めていない』とはっきり言った」と警戒を表明した。
清水氏は「反対運動を続けて来た31年間で、一番つらいことは、島の人間関係が壊れたことだ。31年前までは、和気あいあいと何でも助け合って生きてきた。それが、現在でも対立して分断されている。これが一番つらい」と語った。
その上で、「しかし、500人足らずの小さな島が保証金も貰わず、国策に反対し、中国電力という大企業と戦って、現在も原発建設を阻止している。私たちも自信を持っている。全国の人たち、そして2009年から参加してくれた若い人たちのおかげである。これからも命がけで頑張っていく。ぜひ、協力をお願いしたい」と呼びかけた。
岡田和樹氏は、上関の様子や、中国電力が強行に作業を進めた時のことを、映像を交えながら、次のように説明した。
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