2013年1月7日(月)19時30分から、東京都豊島区のジュンク堂書店池袋本店で「安冨歩トークセッション-『論語』という革命思想-」が行われた。安冨氏が著書『超訳 論語』を書き上げるにあたり、読み直した『論語』の解釈について解説した。
(IWJテキストスタッフ・花山/澤邉)
2013年1月7日(月)19時30分から、東京都豊島区のジュンク堂書店池袋本店で「安冨歩トークセッション-『論語』という革命思想-」が行われた。安冨氏が著書『超訳 論語』を書き上げるにあたり、読み直した『論語』の解釈について解説した。
■ハイライト
安冨氏は『論語』との関わりについて、「中学生で漢文を習って『論語』に興味を持ち、その後、何年かに1回は挑戦したが、最後まで読み切れなかった。ところが、7、8年前ハラスメントという概念に到達して、その概念に基づいて読んでみると、すごく刺激的なことが書いてあると思い、初めて通読できた。しかし、その時は3分の1ぐらいしか理解できず、あとの3分の2は理解できなかった。それから何度も、読んで考え、読んで考えを繰り返して、徐々に掘り崩して、3年ぐらい前に、この本を書くために必要な冒頭の『学而第一』がふと腑に落ちた」と話した。
(…会員ページにつづく)
このトークショーで私が注目したのは本論でなく質疑での、安冨さんがゲバラは好きだが暴力革命はすべて失敗し、ガンジーのようなやり方しかないというところでした。これは私には安冨さんが親鸞の本を出していることを想起させ、自力に対する絶対他力を思わせるところですが、親鸞そのものはいわゆる悪人正機説のごとく暴力革命に結実してしまうような必然性を排除してないように思います。ただ近代批判というたぶん安冨先生の背景にあるモチーフや、同じく暗黙知論による「合理的な神秘主義」説を考え合わせると、近代の政治制度そのものが自力によるものではないかというニーチェ的な疑義が出てきます。たぶんここはポランニーの自由主義制度の擁護などで補強してかろうじて制度の存続そのものは保持する路線になるのではないかと思われますが、経済制度における生産様式論になるのではないかと稚拙な頭で考えます。