僕の父はフィリピンに出征した。飢えて、マラリアで死にかけて、廃兵として内地へ送り返され、代わりに赴いた部隊が玉砕したという。どんなデタラメな軍隊だったか。
歩哨として深夜に海岸に立つ。目の前を米軍の潜水艦が浮上して遊弋してゆくが何もできない。銃はあるが弾がない。弾なしで立たされていた。敵と果敢に戦う以前に、内務班教育と称して、毎日が軍隊内部でリンチ。飢えとリンチが日々の現実だった。
父は全く矛盾していた。大正生まれで、大正デモクラシーの残滓のような教養もかじっていた。本好きだった。「君たちはどう生きるか」も、漱石も手塚治虫も父が教えてくれた。他方で、軍艦や飛行機のプラモデルを作り、「丸」を定期購読し、軍歌を口ずさみ続けた。反軍的な人間では全くなかった。
父が軍歌を口ずさみ続けたおかげで、僕は今でも軍歌を何曲も歌える。川柳川柳のガーコンのように、戦争初期のメジャーコードの勇ましい軍歌から末期のマイナーコードの物哀しい軍歌まで。
街宣右翼が軍歌を大音量で流しながら通ると、舌打ちして「戦後の右翼なんて軍隊も戦争も知らないくせに」と眉をひそめていた父。その父が、口ずさむのは結局は軍歌で、僕も今も大音量で右翼の街宣車が通ると、うるせえなあとイラッとしつつ、軍歌を口ずさんでしまっていて、ハッとする。
父にあったのは反軍や反戦の思想などではなく、厭戦感情だったのだと思う。怯えや恐れでもあったと思う。間違いなくそれは軍隊での経験に基づいたもので、弾がないのに兵に小銃を持たせて歩哨に立たせる、この上なく愚劣な日本軍の、その馬鹿さ加減への嫌気や恐れだった。
その馬鹿さ加減が、まさか恥知らずにもまた蘇って頭上を覆うようになるとは、正直、思いもよらなかった。今の自民党を見よ。宇都宮徳馬や鯨岡兵輔はもとより、宮澤喜一も野中広務もいない。代わりに大きな顔をして踏ん反り返るのは安倍晋三であり麻生太郎である。どれほどの劣化か。
その劣化しきった自民党の脇で、ちょろちょろしながら野党面して与党を補完してきたのが、「ゆ党」の維新である。この唾棄すべき小狡さ。恥を知らない馬鹿さ加減と小狡さが手を組み、権力を握り続ければどうなるか。弾のない銃を持たされ、B29に向かって竹槍を突く悲喜劇がまた繰り返されるだろう。
ちなみに、戦時下、石川県金沢出身の母は看護師と教員免許を持って東京で働いていた。北里病院で看護師をしていた時に、空襲に遭い、寮が焼かれて九死に一生を得た。母は父とは違って馬鹿な軍部に怒っていた。何に一番怒っていたかといえば、B29に対して竹槍訓練を強制させられることだった。
「憲兵ににらまれたって、馬鹿らしくて竹槍訓練なんてやっていられるか」と、訓練をサボり続けたという。どうやってサボり続けたのかはよくわからない。父も母も、非国民でも、左翼でも、右翼でもなく、愚かな戦争に右往左往させられ、零細な庶民であり、何よりも汗を流して働く生活者だった。
死に損なった皇軍の元一兵卒の父と、銃後で竹槍訓練をサボった母も、もうこの世にいない。残された不肖の息子は、墓参りを怠っていることを気にしつつ、両親とその世代が強いられた苦労を、我々や我々の子供や孫たちに再び強いられてたまるかと、頭上を覆う馬鹿と卑劣の暗雲を睨めあげる。
生涯を通じて、表立って物言うことなく、穏やかに生きることだけを願っていた父に届いたのは召集令状、いわゆる「赤紙」だった。命を召上げる令状のコストは一銭五厘。物言う自由は切実に重要だと思ってきた息子に送りつけられたのは訴状。物言う自由にもちろんリツィートの自由は含まれる。
こうして呟いている間にも、僕の呟きをリツィートしてくれている人がいる。萎縮せず、リツィートされている方々の勇敢さに敬意と感謝を表したいと思う。ありがとうございます。
※2018年1月30日付けのツイートを並べて加筆し、掲載しています。
【岩上安身のツイ録】弾がないのに兵に小銃を持たせて歩哨に立たせる、この上なく愚劣な日本軍のその馬鹿さ加減が、恥知らずにも蘇り、今ふたたび、頭上を覆いはじめている https://iwj.co.jp/wj/open/archives/411056 … @iwakamiyasumi
戦中史を通して見えてくる現代の異常さ。過ちを繰り返さないためにも読んでほしい。
https://twitter.com/55kurosuke/status/958635176770203648