今日は2月20日。1852年(嘉永5年)のこの日、法学者で明治の政治運動家である小野梓(おの あずさ)が生まれた。小野は親友だった大隈重信とともに東京専門学校(現在の早稲田大学)創設に携わり、「早稲田大学建学の母」と言われる人物である。
▲早稲田大学(東京都新宿区)
小野は1886年(明治19年)に肺結核を悪化させ、33歳の若さで亡くなっている。しかしその業績は、早稲田大学の建学以外にも、『国憲汎論』といった数多くの法律書を著し、その中で現在の日本国憲法にも通じるような「個人主義」「独立一個の個人」の尊重を提唱していたことなどがあげられる。
▲小野梓(出典・Wikipedia)
明治時代に「独立一個の個人」を構想——憲法学の「神様」樋口陽一・東大名誉教授が尊敬してやまない小野梓
憲法学の「神様」と言われる東京大学名誉教授・樋口陽一氏も、自著の中で小野の考えを繰り返し引用している一人だ。樋口氏は2016年2月17日に行われた岩上安身によるインタビューの中で、次のように語っている。
「小野梓は、法学者というよりは行政官僚、それも有能な行政官僚で、政府の方針が変わってくる中で官僚を辞め、在野の論客としておおいに活躍する人物です。若死にしてしまいますが、家単位でできた社会では良くないということを、すでに法律学の教科書の中でちゃんと書いているんです。
彼は『独立一個の個人』という言い方をしています。『独立一個の個人』をもって作られる社会でなくてはならないと。しかし、できあがった明治の法制度はそうではなかった」
▲東京大学名誉教授・樋口陽一氏
樋口氏が指摘するように、小野が死去する3年後の1889年に公布された大日本帝国憲法は、「独立一個の個人」を尊重するものではなく、「家父長制」にもとづいたものだった。小野の考え方は同時代に受け入れられることはなかったが、戦後、日本国憲法として結実することになる。
しかし現在、安倍政権のもとで、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」(第24条)という「家父長制」を想起させるような自民党改憲草案にもとづく改憲が目論まれている。歴史の針を巻き戻し、大日本帝国憲法を復活させようというのだ。
この自民党改憲草案がはらむ危険性については、岩上安身と澤藤統一郎弁護士、梓澤和幸弁護士の3人が12回にわたって鼎談を行い、『前夜~日本国憲法と自民党改憲案を読み解く』として書籍化している。この機会に、ぜひご一読いただきたい。
▲梓澤和幸・岩上安身・澤藤統一郎『前夜〜日本国憲法と自民党改憲案を読み解く』
※【増補改訂版・岩上安身サイン入り】『前夜 日本国憲法と自民党改憲案を読み解く』
「学問の独立」「精神の独立」そして「国家の独立」のため、「日本語による授業」を確立
なお、小野梓は明治の「お雇い外国人」全盛期に、多くの外国語の文献を日本語に翻訳し、日本人が日本語で学問をする土台を作った人物でもある。こうした小野の知られざる業績に関しては、岩上安身が『英語化は愚民化』著者の施光恒(せ てるひさ)氏に詳しく聞いている。
「早稲田大学の建学の理念の一つは、邦語、つまり日本語による授業の確立というものでした。国家の独立を成し遂げるためには、国民の精神の独立が必要です。国民の精神の独立を果たすためには、学問の独立が必要である。学問の独立を成し遂げるためには、やはり日本人なら日本語で考えなければいけない。
日本語で考えて、日本人の日常の感覚を学問にして、そして知的に磨いていかないと、本当に学問の独立、精神の独立、ひいては国家の独立はあり得ないと、大隈重信、小野梓、高田早苗という人たちが一生懸命議論して、考えていたのです」
▲九州大学准教授・施光恒氏
ちなみに、現在の安倍政権で防衛大臣を務め、政界きっての改憲論者として知られる稲田朋美氏は、早稲田大学法学部の出身である。早稲田大学のキャンパス内には、今も小野梓の名前を冠した「小野梓記念館(27号館)」という建物があるが、稲田氏は在学中、法学徒であったにも関わらず、「建学の母」の学説を学ばなかったのだろうか? もう一度、大学入試を受け直すところから始めることをオススメしたい。
▲早稲田大学キャンパス内にある「小野記念講堂」(早稲田大学HPより)