千鳥ヶ淵戦没者墓苑献花者の様々な思い 「日本は不戦の国であるように」 2014.8.15

記事公開日:2014.8.16取材地: テキスト動画
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(IWJ 原佑介 芹沢あんず)

 敗戦から69年目を迎えた8月15日。太平洋戦争中、海外で死亡した日本人のうち、身元不詳で遺骨の引き取り手がない戦没者の霊を慰めるための千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、献花が行われた。

 安倍総理はこの日、午前中に千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花を行った。献花場所にいた報道陣の前に、複数の護衛の人間と姿を表した安倍総理は、係の者から花束を受け取り、献花。記者からの質問には答えず、無言のまま千鳥ヶ淵戦没者墓苑を去った。この間、わずか2分にも満たなかったという。

■ハイライト

  • 日時 8月15日(金)13:00〜
  • 場所 千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区三番町)

 IWJは千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた方々に対しインタビューを行い、献花をした際の胸の内を聞いた。

集団的自衛権、「行使しなくてはいけないのかな」

 埼玉県川口市から訪れた63歳の男性は、「先の戦敗があり、現在の我々があるという気持ちできました。戦争はやむをえず始まったと思うが、現代では、戦争はさせません」と語った。

 一方で、「集団的自衛権の行使容認の閣議決定は世の流れ。色々な賛否両論はありますが、行使しなくてはいけないのかな、と。行使容認は苦渋の決断かな、と思います」と述べ、「こちらから行く必要はないが、同盟国としてアメリカが守ってくれるのに、自分たちは守らないというのはおかしい」と話した。

50年間、毎年献花にきている夫婦「日本は不戦の国であるように」

 夫婦で訪れた81歳の男性は、「小学6年生の時に、福島県の二本松から4キロ離れた温泉町へ、集団疎開した。その後、自分の家族が半年後に郡山に来て合流し、そこで終戦を迎えた」と、69年前のこの日を振り返る。

 「私は集団疎開をギリギリまでしなかった。市ヶ谷の庭で焼夷弾がバラバラと落ちるのを、防空壕に入らずにみていました。空が真っ赤に染まっていました。すぐ手前の家まで焼け、ようやく集団疎開に行きました。戦争の惨めなところは、見たり、聞いたり、実体験しています」

 そう戦争体験を振り返り、「日本は不戦の国であるように」と祈るように語った。安倍政権が進めようとしている集団的自衛権の行使については、「安倍総理には、あまり憲法をいじってほしくないという気持ちです」と訴えた。

 幼少期に終戦を迎えた奥さんは、当時の様子を「私は、防空壕の中でぎゃあぎゃあ泣いていたみたい」と説明した。

 女性は、桜の木を見ると、戦死した兵隊の顔が重なる、という。

 「桜の木が兵隊さんの顔に見えて、胸がいっぱいになり、手を合わせているの」と述べ、「これからずっと平和で戦争のない世界に」と願いを込めた。

「悪い時代だった。『今日も学校に行けるのは、兵隊さんのお陰です』なんてさ」

 「敗戦から69年間、平和が続いている。いつまでも続けていきたい」――

 こう語った80歳の男性は、「我々の子どもの頃は悪い時代だった。『今日も学校に行けるのは、兵隊さんのお陰です』なんてさ。やっぱり悪い時代だったんだよ」と、戦中を振り返った。

 また、「外交は戦争ではない方法でできる。話し合いだと難しいというけど、それは知恵の使い方だよね」と語り、反戦争を訴えた。さらに男性は、自身の戦争体験を紹介した。

 「私は先祖代々東京で、田舎がないから、戦時中はずいぶん困った。結局、知り合いの兵隊さんの納屋へ疎開しました。天皇陛下の終戦を伝えるお言葉があり、親父はすぐに『戦争、終わった! 』と言い、東京へ帰りました。3月10日の大空襲では、私のいとこが亡くなりました」

 男性は、「ああいうことは、2度とあっちゃいけない」と力を込めて語り、「憲法は『看板』みたいなものだから、壊しちゃいけない。69年間、こうやって戦争をしないできたんだから。日本は平和でもって世界のお手本でなるようでなければいけないんです」と、護憲の大切さを訴えた。

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