1923年9月1日に発生した関東大震災にともない、6000人以上の朝鮮人が軍隊や市民によって虐殺された。政府が虐殺を煽動した証拠があり、当時の帝国議会でも議員による責任追及がなされたが、山本権兵衛総理が「目下調査中」と答えたまま現在に至るまで、政府による謝罪や調査、原因究明は行われていない。
こうした状況を変えるために発足した「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」は日本政府に対し、「政府が関わった虐殺の真相を明らかにし、犠牲者の実態調査を行い、これらの関係資料を開示し、恒久的に保存すること」を求め、5000筆以上集めた請願署名を提出するとし、5月21日、参議院議員会館で集会を開いた。
- 講師 田中正敬氏(専修大学教授)
- 内容 請願に至る経緯/請願の内容と朝鮮人虐殺事件の概要/署名した方々の声・意見交換
- 日時 2014年5月21日(水)
- 場所 参議院議員会館(東京都千代田区)
- 主催 関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会
政府が流したデマ「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火」
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり 既に東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
これは、警察を所管していた当時の内務省が、震災発生の2日後の9月3日午前中に、全国の道府県宛に送信していた電報である。「関東大震災の朝鮮人虐殺と国家責任」というテーマでこの日講演した専修大学文学部教授・田中正敬氏はこうした資料を引用し、いまだに果たされていない政府の責任について言及した。
田中氏は、この電報が虐殺に繫がったと位置づけ、「そして大事なのは、朝鮮人への警戒や取り締まりを呼びかけた流言問題と、『戒厳令の施行』が結び付いているということ。戒厳令は、朝鮮人や社会主義者への治安出動として出されたと考えられる」と話を展開する。
証言「朝鮮人、シナ人を殺せば手柄になると思って」
9月2日に東京市、豊多摩郡、北豊島郡などの一部で公布された戒厳令は、翌3日には東京府、神奈川県、4日には埼玉県、千葉県に拡大された。そしてその中で軍は、実際に虐殺を起こしている。
田中氏は、韓国出身の歴史学者・姜徳相氏が、書籍『震災・戒厳令・虐殺(三一書房)』の中で、「(軍は)9月2日早朝、戒厳軍となり、岩波隊は朝鮮人200名を虐殺、松山隊は300名、岡野隊は170名を捕虜にするなどの『戦果』をあげた」と指摘していることに触れ、こうした軍関係者が、次のように証言していると紹介。
「3日の朝連隊に行くと、みな流言を本当だと思っていた。私が戻る前に、岩波少尉が部下20数名をつれて小松川に派遣され、すでにだいぶ殺していた。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って」
田中氏は、「こうした証言からも、軍は最初から殺すつもりだったことがわかる」と分析する。
当時の司法省の資料『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書』には、「東京 4日 夜 亀戸警察署構内 犠牲者・社会主義者9名 加害者・軍隊 手段・兵器」、「千葉 4日 午後5時30分頃 難行徳村下江戸川橋北詰 被害者・朝鮮人5名 加害者・騎兵第15連隊 手段・射殺」などと記述されており、軍隊による虐殺を認めている。
しかし、当然、これはすべての虐殺を網羅したものではなく、後になって、地域住民などの証言によって、その他の様々な虐殺の実態が浮かび上がってきているという。
「不逞鮮人の虚構」の穴埋め