2013年1月24日(木)、東京都千代田区の参議院議員会館講堂で、院内集会「102年後に大逆事件を問う」が開かれた。「大逆罪(たいぎゃくざい)」とは、天皇ら皇族への危害を企てた者に、重罰や死刑を処するもので、適用例は過去4件あるが、一般的に、1911年に、社会主義者・幸徳秋水らが、明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件(幸徳事件ともいう)を指すことが多い。この集会は、大逆事件からちょうど100年後の2011年1月24日に、第一回が開かれ、今回は3回目となるもので、3人のスピーカーが登壇した。
- 「大逆事件の意味」 山泉進氏(「大逆事件の真実をあきらかにする会」事務局長、明治大学大学院教授)
- 「不逞の復権」 田原牧氏(東京新聞記者)
- 「自民党改憲案、国家安全保障基本法案の問題点を斬る」 伊藤真氏(伊藤塾塾長、弁護士)
まず、山泉氏が、1911年に起きた幸徳事件について説明した。幸徳事件とは、明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら24名に、1週間というスピードで死刑判決が下され(1911年1月18日)、1月24日に12名が処刑され、12名が無期懲役となった事件である。当時、社会主義運動はふたつに分裂していた。ひとつは、議会を通じて普通選挙を実現し、議会で多数を占めて、社会主義的な政策をやっていこうとする伝統的な運動のかたちをとろうとする片山潜などの一派。もうひとつは、議会を通じて社会主義を実現するのは無理だと考える幸徳らの一派。一方は保守化、一方は急進化というふたつに割れており、課題が解決できないままだった。
「ヨーロッパの社会主義政党をみると、議会内で保守化して、特権階層になっていく傾向があったため、一国の政権をとろうというのではなく、世界を目指さなければならない。そのためには、労働者を啓蒙化し、教育を行い、労働者が議会を変えて直接的に政権をとっていかなければいけない、と幸徳たちは考えたのだろう」と山泉氏は指摘した。しかし、そのふたつのグループ、片山潜、堺利彦、大杉栄らは、幸徳事件のあと、1911年2月11日、合同で追悼集会を開いた。当時は、刑死者を奉ってはいけないなどの法規があったため、「茶話会」と称して始めた。
山泉氏が事務局長をつとめる「大逆事件の真実をあきらかにする会」は、1960年、当時の社会党の議員、坂本昭氏を事務局長としてスタートした。大逆事件の被告で、死刑判決を受け、無期懲役に減刑された坂本清馬さんは、一貫して無実を主張しつづけたが、この坂本清馬さんの最新裁判を支援する会として発足したものだった。その翌年、再審請求をしたが、棄却され、1967年、最高裁でも棄却された。法律的には戦後も有罪となった。坂本昭さんは、その後、高知市長になり、長年務めた。83年、山泉氏が事務局長になり、30年続いている。
山泉氏は、この会が長く続いたことについて、「いったい大逆事件とはなんだったのか、と。この事件は、多くの人を惹きつけるものがある」と言い、「大逆事件は、ナショナリズム、天皇中心主義を、国民に煽るためのショーとして機能した」と考察した。
では、なぜこのような「ショー」が可能だったのか。山泉氏は「裁判のしくみが問題だ」と言う。