安倍政権が昨年12月に閣議決定した外交・防衛政策の基本理念である「積極的平和主義」について、埼玉大学名誉教授でNHK経営委員を務める長谷川三千子氏が、4月15日、日本外国特派員協会で会見を行い、英語による基調講演と質疑応答を行った。
長谷川名誉教授は、政治評論家として、「戦後世代にとっての大東亜戦争」(1983)など、日本の戦争観を問う数々の論文を発表し、保守派の論客の一人として知られている。また、政治思想的に安倍総理と近く、安倍内閣を支援し、助言する立場の人物としても知られる。
最近では、「女は家で育児が合理的」との発言や、1993年に拳銃自殺した右翼活動家を礼賛する追悼文を発表していたことなどが大きく問題視され、NHKの最高意思決定機関の委員としての資質を問う声も出ている。
- 朝日新聞 2014年1月28日「「女は家で育児が合理的」 NHK経営委員コラムに波紋」(当該ページ存在せず)
- 朝日新聞 2014年2月5日「長谷川三千子氏、政治団体代表の拳銃自殺を称賛」(当該ページ存在せず)
他方、氏の発言全体ではなく、ごく一部を切り取るかたちで、長谷川氏への批判を展開する論調も多く見られる。メディアの報道によって、必ずしも氏の発言の趣旨が明らかになっているとは限らない。
今回の会見で、長谷川氏は冒頭、「たくさんの方にお集まりいただいたのは、これまでの問題発言があるからでしょう」と述べ、自説に対するメディア批判の高まりを意識しながらの会見であることを示唆した。そのうえで、NHK経営委員や安倍総理の側近としてではなく、個人としての発言機会であることを強調した。
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(基調講演での長谷川氏発言内容)
みなさん、こんにちは。お呼びいただき光栄です。呼んでいただいたのは、おそらく、私が立派な人間だからではなく、ここ数ヶ月いろいろ問題発言をしているからでしょう。理由はともかく、今回お話をさせていただけることに感謝いたします。
今回は、NHK経営委員や安倍総理の友達としてではなく、私という自由な個人としてお話します。みなさんと一緒に考えたいと思います。共に考えるというのは、近年非常に稀になりました。自分の意見を表明することはあっても、他人の言うことを聞き、異なる意見持つ人が一緒に集まって考えるという機会はめったにありません。
今日のトピックは「平和主義」についてですが、世界平和というテーマから始めてみましょう。世界平和はとても重要です。誰もがそれを望んでいます。しかし、我々はそれがとても難しいことも知っています。常に紛争は起こっています。問題は、すべての人が世界平和を望んでいるにもかかわらず、その実現が難しいとき、「我々に何ができるのか」ということです。
平和主義というのは、英語圏では特に、必ずしも「良い言葉」として受け取られるわけではありません。2つのタイプの平和主義がありますが、特に「受身的」平和主義は人気がありません。
あなたがナイフを持った人に襲われ、助けを求めているとき、友人が立ち止まって「申し訳ないが、他人とけんかはしないことにしている」と言い、あなたが殺されてしまったと仮定しましょう。あなたは、そのような友人を欲しいと思いますか。受身的平和主義というのは、このようなものです。
受身的平和主義は、何もしないというわけではありません。過去を振り返っても、ジョーン・バエズの歌を歌ったり、髪に花を飾ったりする「フラワーチルドレン」という人たちがいました。彼らは、そうすることで世界平和に貢献していると信じていました。おそらく今の若者が見れば、愛らしいとは思うが、滑稽だと感じるでしょう。個人的には、50年前(の子供時代)ならともかく、今の(大人になった)オリバー・ストーン氏が花飾りをつけるのをあまり見たくはありません。
フラワーチルドレンやオリバー・ストーン氏を侮辱し、嘲笑したいわけではありません。そこには20%ほどの真実があることが言いたいのです。なぜなら、花飾りを付けながら、機関銃を撃つのは難しいし、(目眩しのために)葉っぱをつける狙撃手にもなれません。花飾りをすることは、「自分は戦場に加担しない」という意味を持つのです。
しかし、より重要なのは、花飾りをすることは、「他人を殺したくない」という意思表示であるということです。花飾りを付けながら、人を殺すよう自分自身に命じることは難しいでしょう。それが人間の精神であり、人の心です。このような「心の状態」というものが、世界平和を語る際には、より重要なのです。
受身的平和主義は、実際は(受身という)名前の通りではなく、フラワー平和主義と言いますか、おそらく「精神的平和主義」と呼ぶ方がふさわしいでしょう。「20%の真実」と申し上げましたが、100%ではないわけです。精神的平和主義の問題は、ひとたび紛争が起これば、それは役に立たないということです。
完全武装をしたPKO部隊が花飾りをしていたら、それは悪い冗談であり、悪夢のようなものでしょう。そのような場所では、精神的平和主義は無力です。戦場に必要なのは、銃弾や爆弾であり、そこで「積極的平和主義」、外務省の言葉を借りれば「平和への積極的な貢献」が必要になるわけです。この厳しい世界という現実においては、平和維持のために物理的な軍隊が必要であることを、認めなければなりません。
しかし、この積極的平和主義にも問題があります。本当にPKO活動を行いたいと思うなら、まさにそれは戦争そのものと言えます。おそらく鉄砲を撃ったり、爆弾を落としたり、世界平和を阻む人々の施設を破壊しなければならないでしょう。PKOそのものが、時に戦争になることがあるわけです。
ここにパラドックスが存在します。すべての人が世界平和を望んでいるが、それを実現させるためには物理的な軍隊、積極的平和主義を必要とする。しかし、積極的平和主義は、時に戦争そのものに近づく。どうしたら良いのか。これが、我々が直面する問題です。
本日のトピックは、安倍総理の積極的平和主義についてですが、積極的平和主義に対して懸念を示している国があります。私は、それは自然な懸念だと思います。積極的平和主義は、戦争に近づくという危険が常に伴うからです。
現実として、安倍総理の積極的平和主義とは何なのか。第一の懸念は、安倍総理が積極的平和主義を唱えるとき、日本国憲法を破棄し、新しい軍国主義を作るのではないか、という懸念です。このような懸念は、自然なことです。なぜなら、我々日本人は、憲法は受身的平和主義、精神的平和主義のみを定めたもので、積極的平和主義は含まないと信じてきたからです。
子供の頃、日本国憲法の三大原則を教えられます。「国民主権」「人権の尊重」、そして「平和主義」です。我々日本人にとって、平和主義は「良くない言葉」ではなかった。平和主義とは、「我々は戦争をしない」「我々は戦争を起こさない」ことだと学んできたわけです。
憲法を見ますと、それは一部として真実ではあります。しかし同時に、憲法は(後述するように)積極的平和主義も要求しています。積極的平和主義は必要だが、常に危険を伴うという、「平和主義のパラドックス」をどうすれば良いのでしょうか。
私見としての答えを提案するならば、この2つをミックスすることです。現実的に、積極的平和主義は当然必要だとしても、精神的平和主義も忘れるべきではない。もし、積極的平和主義を精神的平和主義によってコントロールできるならば、おそらく平和主義の「ベストミックス」を見いだすことができる。日本国憲法が、そのようなベストミックスとなるよう、見守っていきましょう。
日本国憲法について、通常日本国憲法の平和主義というと、憲法9条だと思われています。9条だけが有名になっていますが、実は憲法前文も同様にきわめて重要です。前文を少し読んでみましょう。
“日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…”
明確というわけではありませんが、ここに精神的平和主義が見いだせます。日本人が真に世界平和を望んでいるということです。「戦争の惨禍が起こることのないように」というのは、「津波や地震の惨禍が起こることのないように」といった、若干希望的観測のようにも聞こえますが、ともかく日本は精神的平和主義を表明しています。
次のパラグラフは、より明確な精神的平和主義の表明だと言われています。
“日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した”
このフレーズは、問題が多く、楽観的過ぎで、甘過ぎると言われますが、精神的平和主義という観点からすれば、真実だと言えます。他国の国民に対して憎しみや怒り、報復心を持っていれば、戦争は容易に起こり得ます。これは非常に重要な、精神的平和主義の原則を表していると言えます。
しかし、積極的平和主義についても述べています。この部分です。
“われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ”
これは、積極的平和主義の表明です。なぜなら、「必要な時には武力を使う」と決めていなければ、国際社会で名誉ある地位を占めることはできないからです。もしPKO活動の際中に、「ごめんなさい、他国は攻撃しないことにしているんです」と言ったら、名誉は得られません。この一文は明らかに、我々は平和維持のために行動を起こすと宣言しています。それが、積極的平和主義です。
さらに、第3のパラグラフの冒頭には、こう書かれています。
“われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって…”
ここでは、受身的平和主義は良くないと、はっきり述べています。受身的平和主義は、「我々は戦争しない」「我々は潔白だ」というように、自国のことしか考えない。そのような平和主義は、他国のことや、世界の現状を考えないものです。憲法は、それは良くないと言っているのです。そのような平和主義に満足してはならないのです。
さらにこう続きます。
第一次大戦中にイギリスで平和主義を貫いたボンソンビーの著書『戦時の嘘』に基づき、その当時、人々を戦争に駆り立てたプロパガンダの法則が、現在もやはり、同じように人々を欺くために使用されているということを、さまざまな実例を挙げながら、展開した『戦争プロパガンダ10の法則』(アンヌ・モレリ/草思社)という本がありますが、
この会見での発言も幾つも該当してるようですね。
『戦争プロパガンダ10の法則』
(1) 我々は戦争をしたくない。
(2) しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ。
(3) 敵の指導者は悪魔のような人間だ。
(4) 我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。
(5) 我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
(6) 敵は卑劣な戦略や兵器を用いている。
(7) 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
(8) 芸術家や知識人もこの戦いを支持している。
(9) 我々の大義は神聖なものである。
(10) この戦いに疑問を投げかける者は裏切り者である。
(1)、(4)、(9)などがピッタリで、しかも(8)を実践してるのがこの会見なのですね。
(厳密には“戦いを支持してる”の前段階で “戦いに参加出来るようにすることを支持してる”ということなのでしょうが)
NHK経営委員、長谷川三千子さんの記事を読みました。
1960年代の「フラワーチルドレン」と長谷川さんのいう「受身的平和主義」を強引に対応させたいご主張です。そのアメリカはベトナム戦争をゆっくり追想する間もなく、中東において「終わりのみえない」戦争状態にあります。一方、安倍政権は中国、韓国よりもアジア隣国ではベトナム共産党率いるベトナム社会主義共和国と親密な外交関係にあります。
さて、二つに一つの選択から長谷川さんの扇情的なご主張にふくまれる攻撃性を指摘したいと思います。
1.世界は軍縮と軍拡どちらに向かうべきでしょうか。
「必要最小限の」という形容は二の次にして、です。
2.日本は、専守防衛に徹するべきでしょうか、それとも他国に再び侵略するのでしょうか、アジアで侵略戦争をして首都陥落に至らしめた近代国家は日本以外にありません。その反省にたって戦争をしない努力をすべきではないでしょうか。
3.日本の外交は、今後も「平和外交」でしょうか、「砲艦外交」に変わるのでしょうか。
戦争は憎悪をもたらしますが、その逆はありません。相手国への憎悪や敵愾心が戦争を起こすのではなく、たとえそれが「一発の銃声」にみえたとしても、国家が戦争することとは周到に用意訓練された戦争計画による軍事行動であると考えます。