「アイヌ差別は、北海道開拓移民の存在意義の裏返し」 〜岩上安身によるインタビュー 第326回 ゲスト 北海道アイヌ協会 竹内渉氏 2013.8.5

記事公開日:2013.8.5取材地: テキスト動画独自
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(IWJテキストスタッフ・阿部玲/奥松)

 「狩猟民族のアイヌに『農業をやれ』。歴史の中で抑圧されて、アイヌは刃向かう力を奪われた」──。

 2013年8月5日(月)、北海道札幌市内で、岩上安身による竹内渉氏インタビューが行われた。竹内氏は2009年に『北の風 南の風 部落、アイヌ、沖縄。そして反差別』(解放出版社)を出版、非アイヌでありながら北海道アイヌ協会の事務局長も務めている。今年7月の参議院選挙で、17万票を獲得した三宅洋平氏が用いて有名になったアイヌの言葉「チャランケ」の意味など、アイヌの文化、抱えている問題、そして将来について、掘り下げた内容が語られた。

■イントロ

「チャランケ」は紛争解決の知恵

 竹内氏は関東で生まれ育ち、大学に進学し、北海道に居住してから、アイヌ問題に関わるようになった。アイヌ差別、社会的差別への反対運動を30年以上も続けている。アイヌの人々との関わりの日々を描いた自伝的著作『北の風 南の風 部落、アイヌ、沖縄。そして反差別』は、当初、沖縄の雑誌に連載されていた。その経緯について、竹内氏は「沖縄大学の学長を務めた新崎盛暉(あらさきもりてる)名誉教授と懇意な人が札幌にいて、仲介してくれた。アイヌの、というより、もともとは各地の社会的差別に関する情報のひとつであった」と説明した。

 岩上の「三宅洋平氏が選挙活動で用いて注目された『チャランケ』という言葉は、アイヌの人々の間では、実際にどのような意味で使われているのか」という質問に、竹内氏は「集落同士で狩猟のトラブルがあった時などに用いられる紛争解決の手段で、裁判のような徹底討論。ただ、ひとつルールがあって、相手が話を始めた時、かぶせて腰を折ってはいけない。最後まで聞く。チャランケチャシコッといって、討論し過ぎて岩になってしまった、などという伝説もある」と答えた。

現在も続くアイヌへの差別

 竹内氏とアイヌ世界との接触が始まったきっかけは、大学4年の時に遡るという。「当時の大学教授が、学生たちに冗談で、『アイヌも、混血してわからなくなっている。きれいな女性だと近寄ったらアイヌかもしれないぞ』などと、差別的な発言をしていた」。

 岩上が「アイヌだったからといって、具体的にどのような問題があるのか」と問うと、「劣った民族、と言いたいのだろう。普段はそれほどでもないが、就職や結婚などの際、差別が顕著に現れてくる。たとえば、喫茶店で働こうとすると、雇用主が『私はいいけど、お客さんが嫌がるから』などと断る事例がある。学校内でのいじめもある」と実情を伝えた。

先住民族と開拓者

 「日本人の北海道への入植から、たかだか100年程度。歴史のあるものではない。いじめている側の心理や、その背景にあるものは何か」と、岩上が疑問を投げかけると、竹内氏は「日本人は、アイヌを最初から蔑んだ目で見ていた。劣っているから滅びていく、と言いたいのだろう」とし、「北海道開拓移民の、存在意義の裏返しもあるだろう。『開拓者がアイヌの土地を奪って侵略した』となると居心地が良くない。『空いてる土地に来て、祖先が苦労したから、今の豊かな農業生活がある』ということにしたい。そこに、アイヌがいた。開拓者たちは『アイヌは劣っているから現代に適応できず、貧しい。怠け者。働きもしない』などと、レッテルを貼ってきた」と、開拓者の心理に絡む複雑な背景を語った。

 「狩猟方法が禁止されるなど、結果として困窮したアイヌに対し、日本人は今度は『救おう』と言って、もともと狩猟をしていた民族に『農業をやれ』と命じた。諸々の手続きも日本語。このような歴史の中で、アイヌは抑圧され、刃向かう力を奪われた。開拓が始まった明治時代には、アイヌの人数の方が多かったが、現在は550万人の道民のうちアイヌはわずか2%、10万人程度しかいない」。

潜在化するアイデンティティ

 岩上の「アイヌは、どの時点で日本編入を受け入れたのか」との質問には、竹内氏は次のようなエピソードを紹介した。

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「「アイヌ差別は、北海道開拓移民の存在意義の裏返し」 〜岩上安身によるインタビュー 第326回 ゲスト 北海道アイヌ協会 竹内渉氏」への1件のフィードバック

  1. 魔女見習い より:

    竹内さんのおしゃべり、しゃべり方が、大江健三郎さんのしゃべり方に似ているので大江ファンのわたしは、なんかうれしくて、ニマニマしながらみてました。
    知里真志保、幸恵さんの話はやはりでてきますね。竹内さんのお話されていた「アイヌ神謡集」の序文として書かれている幸恵さんの文章についてのおはなしがあったので、私、もっているので見直してみました。美しいことばに置き換えながら、幸恵さんの美しい気持ちを表しています。余談ですが、幸恵さんの方は、幸恵さんの叔母さんの所へ養子にでています。その方がクリスチャンだったので幸恵さんもクリスチャンだったようです。東京の金田一京助のところで「アイヌ神謡集」を執筆中体調を崩して、(もともと病弱だった)北海道に帰る矢先に、亡くなり、その後しばらくは東京にお墓があったのですが、金田一京助が亡くなったあと幸恵さんの叔母さんが眠っている、お墓にうつされました。
    などと、思い起こしていると、また、白老の美しい湖に行きたくなりました。ではでは。

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