「3年経っても雨どいの下は、毎時60マイクロシーベルト」 〜福島フィールドワーク報告会 2014.4.26

記事公開日:2014.4.26取材地: テキスト動画
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(IWJテキストスタッフ・関根/奥松)

 「3年経った浪江町で見たものは、請戸小学校の惨状、校庭に積み上げられたがれきと除染廃棄物、流された車、浪江駅前の新聞販売店に残った2011年3月12日付の福島日報の束、倒壊した住宅、いたるところにある進入禁止のバリケード。そして、避難指示解除区域と居住制限区域を分けている、廃線になった常磐線だった」──。

 2014年4月26日、新潟市江南区文化会館で、「福島FW(フィールドワーク)ツアー報告会 ふくしまで見て聴いて考えたこと」が行われた。福島からの避難者の話を聞くとともに、民主青年同盟新潟県委員会が3月下旬に行った、福島県浪江町の視察の模様が報告された。

■全編動画

  • 新潟へ避難されている方のお話/浪江町への視察報告
  • グループディスカッション(録画には含まれません)
  • 日時 2014年4月26日(土)13:30~16:00
  • 場所 江南区文化会館(新潟県新潟市)
  • 主催 かえるネット新潟(日本共産党新潟県青年後援会)/日本民主青年同盟〔民青〕新潟県委員会

帰還してしまう仲間たち、離婚してしまう家族たち

 郡山市から新潟市に避難している磯貝氏が、「震災当時、娘2人は小学校4年生と5年生。3月14日は、娘たちがマスクなしで外で遊んだ最後の日だった。放射能への不安はあったが、津波の被害のない郡山に、浜通りの人たちが逃げてきている中で、自分が避難したいとは言えなかった。その後、学校の除染がPTA主導で始まった。娘たちは、鼻血や湿疹、頭痛、発熱が続いたが、医者には『放射能のせいではない』と言われた」と体験を話し始めた。

 「2012年になると、学校の方針は元に戻ってしまった。給食の食材は関東産で、子どもたちには弁当と水を持たせた。周囲の友人たちは『政府が大丈夫だと言うのに』と、私の対応を過剰だと非難する。とうとう、がまんできず、母子避難を決めた」。

 「郡山に主人を残し、まったく縁のない新潟で生活を始めた。マスクをせず外に出られる。洗濯物を外に干せる。そんな普通のことが、涙が出るほどうれしかった。得たものも失ったものも、それぞれ大きい。東電は2011年に、大人8万円、子ども60万円の賠償金を払った。自主避難者には、2011年に大人8万円、翌年8月まで4万円を払って終わり。住んでいた家をレベル7の原発事故で汚染され、家族や仲間から引き離され、子どもが体調不良を訴える状況で、この賠償額だ」。

 このように語った磯貝氏は、「福島に帰還してしまう避難仲間がいる。戻れずに、離婚してしまう人もいる。まだ、新潟には5000人の避難者がいる。来年3月、今のアパートを取り上げられたら、どうしたらいいのか」と将来への不安を涙声で訴え、「どうか、今後の原発再稼働の教訓にしてほしい」と締めくくった。

ありのままの現実を見るツアー

 民主青年同盟の五十嵐氏が「福島フィールドワークツアー」の報告をした。「2014年3月21日から22日、新潟から20名で福島市を訪問し、仮設住宅で浪江町の被災者と懇談した。また、現地の青年らと交流会などを行なった。2日目は、浪江町を視察した。このツアーの目的は、現地を見て、改めて福島の原発事故とは何だったのかを考えることにある。参加者には、原発に賛成か反対かにはこだわらず、ありのままの現実に触れて判断してほしかった」。

 続いて、浪江町について説明し、海岸の請戸地区(避難指示解除準備区域)、駅周辺部(居住制限区域)、帰宅困難区域の津島地区の様子を、スライドとともに紹介していった。

 「帰還困難区域の津島地区では、バスの中ですでに毎時5マイクロシーベルト。外に出ると毎時13.44マイクロシーベルト。雨どい下では毎時60マイクロシーベルトを計測した。町から出る時、東電からスクリーニングを受け、町境の検問でチェックされた」と語った。

いまだに答えが見出せない

 次に、浪江町からの避難者との懇談会の様子を報告した。「2011年3月12日、住民は爆発音で原発事故を知り、避難する国道114号線は渋滞で、さながら映画のようだったという。情報が来るのが、浪江町は他の自治体に比べて遅かった。私たちが懇談したほとんどの人は、避難してから5〜6ヵ所も移り住んでいた。家庭崩壊した人たちもいる」。

 「彼らは、この3年間に数回しか浪江の家に戻っていない。家は野獣(ネズミ、イノブタ、ハクビシン)の棲家と化し、線量計もピーピー鳴るという。仮設住宅は老人ばかりになり、復興住宅は入札不調で建設が始まらない。いまだに答えを見出せないのが、今の福島、被災地の実態だ」。

賠償金額の違いで、住民の分断が生まれる

 被災者の悩みについて、「仮設住宅の湿気対策が一番大変だと聞く。町は『国が、国が』と言うばかり。除染は進んでいないし、生業もない」と代弁した五十嵐氏は、「中間貯蔵施設に関しても、国がしっかり方針を立てるべきだ」と主張した。

 また、被害賠償の問題にも言及し、「被災地の線引き具合で金額が違うので、住民同士の分断が発生する。帰宅困難区域は6年間まるまる賠償されるが、他の被災地は1年ごとで金額も少ない。『もう帰らない』と言う若い人がほとんどだ」と述べた。

 最後に、福島の青年との交流の様子を紹介し、フィールドワークツアーの参加者が感想を述べた。ある参加者は「福島の現状を見て、柏崎刈羽原発の再稼働は、絶対に許してはならないと思った」と語った。

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「「3年経っても雨どいの下は、毎時60マイクロシーベルト」 〜福島フィールドワーク報告会」への1件のフィードバック

  1. @tnomnomさん(ツイッターのご意見より) より:

    「娘たちは、鼻血や湿疹、頭痛、発熱が続いたが、医者には『放射能のせいではない』と言われた」と体験を話し始めた。」

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