7月23日、日本はいよいよTPP協定交渉に参加しました。現在「TPP参加交渉からの即時脱退を求める大学教員の会」に賛同されている大学教員の方々は、870名を超えます。しかし、「大学教員の会」の活動および賛同者の主張について、他のメディアではほとんど取り上げられていないのが現状です。IWJは、こうした知識人の方々の声を、少しでも多くの人に伝えたいと考え、寄稿をお寄せいただけるようお願いしております。
特集 TPP問題
7月23日、日本はいよいよTPP協定交渉に参加しました。現在「TPP参加交渉からの即時脱退を求める大学教員の会」に賛同されている大学教員の方々は、870名を超えます。しかし、「大学教員の会」の活動および賛同者の主張について、他のメディアではほとんど取り上げられていないのが現状です。IWJは、こうした知識人の方々の声を、少しでも多くの人に伝えたいと考え、寄稿をお寄せいただけるようお願いしております。
私の専門は環境経済学で、もう30年近く森林の持続可能性と貿易との関係について近代経済学的アプローチで研究してきました。また食料問題にもずっと興味があり、隣接分野の研究者として、理論枠組を共有できる部分も多いと感じてきました。その知見から、TPPで農産物貿易がこれ以上自由化されることに強い危惧を抱いています。その理由を2つの観点から述べたいと思います。
一つはエコロジカルな持続可能性の観点からで、農産物の自由貿易によって世界的な食料生産の持続可能性が掘り崩されていくと考えるからです。2011年度の日本の食料自給率はカロリーベースで39%、穀物自給率は28%で、他の先進国と比べてかなり低くなっています。そしてその穀物の最大の輸入元はアメリカです。なぜこうなるのかというと、当然これらの国の穀物のほうが国産より安いからです。しかしこの相対価格自身、持続可能性という観点からみると非常におかしな話なのです。
アメリカの穀倉地帯は中西部ですが、ここは乾燥した気候で、オガララ帯水層からの汲み上げた地下水による大規模な灌漑農業が盛んに行われています。1997年のデータではオガララ帯水層からの地下水による灌漑面積は全米の灌漑面積の27%にも上ったということです。
そしてこの貴重な枯渇性資源である地下水はタダです。さらに乾燥地帯で灌漑農業を行うと塩害が発生します。塩害が発生するとやがて作物が育たなくなって農地は放棄されていきます。ワールドウォッチ研究所がまとめたFAO統計で世界のデータをみておくと、2009年の可耕地面積は13億9千万ha、そのうち灌漑面積が約3億1千万a、一方灌漑による塩分集積被害を受けている耕地面積は2600万ha(ただしAquastatにはアメリカやオーストラリアのデータは公開されていないので、この合計には含まれていません)と、灌漑面積の1割弱にも上っています。言ってみれば農地は消耗品になってしまっています。
このように農地を使い捨て、貴重な枯渇性資源の水をタダで使えば、安い穀物が大量に輸出できるというわけです。しかしこれは非持続的な農業生産であり、将来の世界の食料生産を危機に陥れるものです。
他方で日本の農業では、水は基本的に空から降ってくる雨で十分足りており、持続的な農業が可能です。にもかかわらず、外国産の安い穀物との競争に敗れて農業が衰退する中、国内では2010年値で40万ha(日本の全耕作地の約1割)もが耕作放棄地になっています。このような国際競争は不合理なのではないでしょうか。
経済学的にいえば外部不経済効果が内部化されていないわけですから、貿易を自由化すれば、輸出国の外部不経済効果がさらに拡大することは言うまでもありませんし、これが完全に内部化されない限り、食料の自由貿易が社会的厚生を最大化できる、という論理は経済学的に決して立証できないでしょう。
もう一つの観点は、国際通貨制度からみた国際競争力についてです。日本の農産物や林産物が外国産に比べて値段が高いというのは経営が非効率だからであって、もっと効率化して値段を下げなければならない、ということを当たり前のようにいう人が多いです。農林関係の研究者でさえこんなことを得々と述べているのには目も当てられません。ホントにそうなのでしょうか。
外国製品との相対価格は為替レートによって決まってきます。つまり国産品の国際競争力は為替レート次第ということになります。しかも現在は変動相場制で日々為替レートは変動します。ではどのような為替レートならば、適正な国際競争力の指標となるのでしょうか。
一般的な物価水準の相対水準を表すものとして購買力平価というものがあり、OECDではさまざまな財やサービスの価格を総支出額に占める割合で加重したものを算出しています。2013年6月現在で日米の購買力平価は1ドル84円です。この為替レートを基準に比較すれば適正なのではないか、だとするとやっぱり農業は外国に比べて非効率なのでは、と。そうでしょうか。購買力平価は日本と外国の農産物の相対的な物価を表しているわけではなく、総支出額に占める割合で加重したものなのです。つまり購買力平価は総支出額に占める割合が多い産品の相対価格に近い水準に決まる、ということを意味します。
ちなみに日米の国内総支出額のうち食品(加工品も含む)が占める割合は日本では約21%、米国では約14%に過ぎませんので、食品の相対的な物価をあまり反映していないと考えられます。
もう少し異なる購買力平価の捉え方として、国際金融論では長期的に為替レートは購買力平価に落ち着くと考えられています。日米のガムの貿易を例にこのことを説明しましょう。今日本では1個100円で製造できるガムと同じガムが、米国では1個1ドルで製造できるとしましょう。為替レートが1ドル100円の場合、このガムの貿易は起こりません。もう少し円安の1ドル110円の場合、日本のガムを1個米国で販売すると、
(100円)×(1ドル/110円)≒0.91ドル
と割安なので、このガムは日本から米国にどんどん輸出されます。
このような状態がずっと続けば日本は貿易黒字が、米国は貿易赤字が累積するわけですが、そうはなりません。日本のガムを買った米国の消費者は1個0.91ドルを日本の生産者に支払うわけですが、ドルのままだと日本で使えないので円に両替し100円を支払います。このとき外国為替市場ではドルが売られ、円が買われます。これが繰り返されるとドルは供給過多、円は需要過多になって、外国為替市場の円ドルの為替レートは円高方向に変更されることになります。
その結果円高が1ドル90円まで進んだらどうでしょうか。この場合、米国の1ドルのガムを日本で販売すると、
(1ドル)×(90円/1ドル)=90円
と割安なので、今度はこのガムは米国から日本に輸出されます。この状況が続くと、先ほどとは逆に為替レートは円安方向に変化することになります。
このように為替レートは一方的な輸出を減殺する方向、つまり現実の世界では経常収支が均衡する方向に自動的に調整されるのです。経常収支が均衡する時の円とドルの需給関係はというと、日本の輸出品に対して支払うためのドル需要と米国の輸出品に対して支払う円需要が均衡する水準、ということですから、これを言い換えれば貿易財のみの購買力平価ということになります。当然この購買力平価は貿易支払総額に占める割合が高い品目の日米相対価格に近い値になると考えられます。
では実際の日米の貿易構造を見てみましょう。日本については財務省の貿易統計によると、2011年の輸出額のほとんど全部が機械製品、化学製品、鉄鋼などで食料品は全体額の1%にも満たない程度です。輸入品も大半は機械などの工業製品と鉱物燃料で、輸入額を見ると食料品の輸入額は全体の8.5%にしか過ぎません。
他方米国はどうでしょうか。米国統計局の貿易統計によると、2011年の輸出額に占める工業原料と自動車の割合は26.4%、食料・飼料・飲料は6.1%です。このように日本のような農産物輸入国のみならず、世界最大の穀物輸出国の米国においても、農産物の単価が安いために、輸出額をみると全体の中でそんなに大きくはないのです。
ではそのことは両国の貿易にどのような効果を持つのでしょうか。具体的に日米二か国の数値例で考えてみましょう。日本は米国に対して工業製品が比較優位な産業で農林水産業は比較劣位な産業と考えて、そのような設定にしてみましょう。
日本産のコメの価格が150円、米国産のコメの価格が1ドルだったとすると、国際的なコメの相対価格は1ドル150円です。他方で日本産の機械が100円、米国産の機械が1ドルだったとすると、国際的な機械の相対価格は1ドル100円になります。この場合現在の日本の貿易構造からすると、購買力平価は1ドル100円に近くなるはずです。
今わかりやすいように購買力平価を1ドル100円として、この為替レートが実現していたとしましょう。ところで国際的な相対価格というのは、普通両国におけるそれぞれの製品の生産コストを反映します。ということは現在1ドル100円だったとすると、工業製品はほぼ両国が互角の国際競争条件におかれるのに対し、コメの国際競争力は1ドル150円相当なのですから、日本産のコメ150円に対して、米国産の同じコメは円に換算して100円で日本に輸入されることになります。
つまり1ドル100円で計算したコメの生産費は日本が米国の1.5倍ということになり、とても互角の国際競争条件とは言えません。なぜコメがこのような不利な条件で戦わなければならないのかと言えば、それは機械を輸出しているからに他ならないわけです。このように為替レートで決まる国際競争力は相対的にメジャーな産業が互角に戦えるような水準に引っ張られているということです。
さらに近年為替レートの決定式としてポートフォリオ・バランス・アプローチが広く知られていますが、今資本移動がないと仮定して資本移動に関係する金利差の部分を除いて考えれば、このモデルでは長期的に購買力平価の方向に調整される、ということとともに、経常収支の黒字が累積するほど自国通貨高になるとしています。
日本の状況を振り返ってみると、近年の累積経常収支黒字額自身が自国通貨高の要因というわけです。日本は長年経常黒字額を累積させてきたのは日本の輸出産業が輸出で潤った結果であり、これが円高傾向をもたらし、今や工業製品さえも国際競争力の低下に悩まされるくらいなのです。
思えば1973年のニクソンショックまでは1ドル360円だったのです。今は1ドル100円~80円程度、つまり円が4倍円高になったということです。ということは1970年代初めに比べて4分の1の生産費で生産ができない限り、その当時の国際競争力と同等ではないわけです。
輸出で潤いその利益をもとに技術革新や高付加価値化を進めた工業製品でもこれはきついというのに、農産物や林産物もそういう基準で測られて、非効率扱いされているということについて、農林産業の現場を多少知っている私は、このような不利な競争条件の下で一生懸命日本の食や山を守っている人々が不憫に思えてならないのです。
もし二重為替相場制が許されるならば、農産物と工業製品はそれぞれの国際競争力に見合った為替レートで取引すればよいわけですが、現在の制度ではすべて同じ為替レートで取引せざるをえません。だとすれば、国のメジャーな産業の国際競争力に為替レートを引っ張られてしまう産業については、政府としてきちんと再分配を行うべきだと思います。補助金や税制上の優遇措置がそういった産業間の調整のために使われることは正当な行為のはずです。
そして関税は政府の出費なく産業間調整ができる政策手段で、WTO上も譲許税率までは認めているのです。(関税をゼロにして国内の補助金制度を限りなく充実させればいいのではないか、と意見が出るかもしれませんが、それは財政負担にもなるし、第一その方向では補助対象の産業の国際競争力を下支えすることはできません。WTOには補助金及び相殺措置に関する協定というのがあって、生産費の5%を超える補助金については相殺対象になります。)
そういう意味ですべての物品について関税を等しくゼロにするという考え方は貿易と分配という面からみて経済合理的でもないし、ましてや日本の政府や輸出産業は日本の農林業が非効率だと声高に批判できる立場にない、ということがご理解いただけるのではないかと思います。
というわけで、私は例外なき関税ゼロ化には反対です。TPPについてはもちろん他にも重要な論点はたくさんありますが、以上の2つの論点からだけでも十分にTPPは受け入れがたいと考えるのです。
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