薬物事件があとを絶たない。
経済産業省の若手課長補佐が29日未明、覚醒剤およそ20グラムを国際郵便で密輸したとして逮捕された。逮捕されたのは、経済産業省のキャリア官僚で製造産業局自動車課の課長補佐、西田哲也容疑者、28歳だ。
警視庁は自分で使用するためだったとの見立てで、西田容疑者の自宅を捜索して携帯電話やパソコンなどを押収している。前途洋々たる若手エリート官僚はなぜ身の破滅に直結する危険な覚醒剤に手を出したのか。
IWJ事務所にて3月29日、『ヒトラーとドラッグ――第三帝国における薬物依存』(白水社、2018年)の著者で、来日中のドイツ人ジャーナリスト、ノーマン・オーラー氏に岩上安身がインタビューを行った。
この著書でオーラー氏は、ナチス・ドイツにおける軍事や生活の様々な場面で危険な薬物が広く用いられていたことを明らかにするとともに、総統のヒトラー自身が薬物依存に陥っていたことを克明に描いている。
ナチス・ドイツで普及していた薬物の一つに、メタンフェタミンがある。このメタンフェタミンこそ、現在、覚醒剤として禁止されている薬物で、戦前の日本の薬学者・長井長義が生み出したものである。このメタンフェタミンが戦時中に拡散したのは、ドイツだけではない。日本でも、「ヒロポン」という覚醒剤とは思えない商品名で、メタンフェタミンが広く売られ疲労回復薬として用いられていた。
本インタビューでは、ドイツだけでなく、日本における戦争と薬物の問題についても、オーラー氏に見解をうかがっている。このインタビューは、白水社のご厚意により、通訳者のご協力を得て実現した。この場で感謝申し上げる次第である。
本記事では、オーラー氏へのインタビュー視聴に際して、補助となり得る事項の説明を付す。
ナチス・ドイツ史最後の闇に光をあてたオーラー氏
オーラー氏の『ヒトラーとドラッグ』は、公文書館史料を駆使し、ヒトラーを筆頭にナチス幹部や軍部が覚醒剤まみれになっていた事実を明らかにしている。
▲ノーマン・オーラー氏(須藤正美氏提供)
オーラー氏は、1970年、ドイツのラインラント=プファルツ州ツヴァイブリュッケン生まれの作家・ジャーナリストである。『ディー・ツァイト』や『シュピーゲル』、『シュテルン』などに記事を発表してきた。またオーラー氏は、2006年秋以降、ドイツのゲーテ・インスティテュートの依頼で、パレスチナ自治区ラマラ―に住み、人びとの暮らしをリポートした経験を持つ。パレスチナ解放機構(PLO)の故アラファト議長に、最後にインタビューしたヨーロッパ人記者としても知られる。
そうした経歴を有するオーラー氏が、ナチス・ドイツ期(1933~1945年)を中心とする薬物問題を研究し始めたきっかけは、『ヴァイマール共和国史』などで知られる歴史学の泰斗、ハンス・モムゼン氏の「私たち歴史家はドラッグについて何も知らない」という一言だったという。
ナチス・ドイツ期の研究はすでに膨大な量があり、とりわけ独裁者ヒトラーのパーソナリティは微に入り細にわたり明らかにされており、もう新たな研究の余地はないように思われていた。しかし、同じく白水社から訳書が刊行された上下あわせて1474頁に達する、イアン・カーショー『ヒトラー(上:傲慢、下:天罰)』川喜田敦子、福永美和子訳、石田勇治監修(白水社、2016年)においてすら、薬物依存の問題に関しては、ヒトラーの主治医のテオ・モレルに関する記述の部分で若干ふれられる程度であった。ヒトラー自身と、ナチス・ドイツにおいて薬物がどのように用いられたか、まだ未解明な研究の余地が残されていたのである。
そのようなナチス・ドイツ史の空白に挑んだオーラー氏の研究は、非常に興味深いものとなっている。モムゼン氏は本書を評して、「最大の功績はヒトラーとその主治医モレルの間の共生関係を描写した部分である」と述べた。そしてモムゼン氏は、「ヒトラーが自身の作戦能力を徐々に失っていくプロセス」や「また首脳陣が軍事的・経済的な現実を知覚する能力を日増しに失っていく様子も適切に描かれている」と、ナチス・ドイツをめぐる様々なテーマにおいて、薬物依存の問題を無視できないことを、オーラー氏の著作『ヒトラーとドラッグ』の論評を通じて指摘している。
今回の岩上安身によるインタビューでは、オーラー氏に、ナチス時代、人びとの生活、軍事作戦、そして政策決定の過程に薬物依存が与えた影響について詳しくうかがっている。そうしたトピックに関してオーラー氏が明らかにした事実を、『ヒトラーとドラッグ』の一部を紹介しつつ列記し、あわせて日本における類似の問題、あるいは薬物をめぐる日独貿易に関する近年の研究を、以下、紹介する。
戦前・戦時のドイツ国民の生活に欠かせない薬物だったメタンフェタミン
チョコレート菓子風の「メタンフェタミン入りプラリネ」を手にした笑顔の女性の写真が、本書で紹介されている。これは上記商品の広告である。
▲メタンフェタミン入りプラリネ――毎日の家事がいっそう楽しくなります(『ヒトラーとドラッグ』55頁より)
この「メタンフェタミン入りプラリネ」には、一個につき14ミリグラムものメタンフェタミンが含まれていた。家事の能率が上がり、痩せる効果もあるとの売り込みがなされていた。この商品の基礎となった発明とは何か。
オーラー氏によれば、それは、テムラー社の化学主任のフリッツ・ハウシルト博士が1937年秋に、日本で生まれた覚醒剤メタンフェタミンの新たな合成法にたどり着いたことであるという。テムラー社がベルリン特許庁に申請して認められた商標は「ペルビチン」であった。
オーラー氏は薬物依存が関係する様々な要素に目配りしているが、薬物それ自体のディティールを綿密に書き込んでいる。本書のある段落を引用してみよう。
「この画期的な物質〔メタンフェタミン〕は分子構造の点ではアドレナリンに似ていて、分子配列もほぼ同一であるため、問題なく血液脳関門を突破する。ただしメタンフェタミンはアドレナリンとは異なり、急激な血圧上昇をもたらさず、その効果はより穏やかで長持ちする。作用機序はこの薬物が脳の神経細胞に働いて伝達物質ドーパミンとノルアドレナリンを出させ、シナプス間隙へと放出させるというものである。これにより脳細胞が互いに活発なコミュニケーションを行うようになり、脳内で一種の連鎖反応が起きる。ニューロンの花火が打ちあがり、生化学的なマシンガンが絶え間なく思考の弾丸を連射する。服用者は突然、頭が冴えわたり、活力がみなぎり、五感が極度に研ぎ澄まされたように感じる。生気に溢れ、髪の先から指先までエネルギーに充ちていると思いこむのだ。ますます自信を持ち、思考プロセスが迅速化し、多幸感に包まれ、自分が敏捷で溌溂とした人格になったと錯覚する。突然危険に晒されたときのように、生体がもてるすべての力を結集する。たとえ実際には危険などまったくないにもかかわらず。それは人工的な恍惚感である」(本書48-49頁)
ドイツ国防軍のある実験~疲れ知らずで命令に従順な兵士を生み出す方法
あらゆる技術は、それ自体に善悪があるわけではない。包丁のように、人びとの生活の役に立つ場合もあれば、殺人のために用いられることもある。ペルビチンにも、たまった家事を片付けるための景気づけどころではない用途がもちろんあった。
ナチス・ドイツの戦術として「電撃戦」が知られている。これは、戦車部隊で昼夜問わず敵陣深くまで突撃し、敵の交通・通信システムを混乱・麻痺させることを目的としている。そうした昼夜ぶっ通しの作戦を実現するために、国防軍内で、「疲労の克服」のための実験が繰り広げられた
▲ブラインドテストの様子。被験者はペルビチン、カフェイン、プラシーボ錠剤のいずれかを服用した(『ヒトラーとドラッグ』70頁より)。
ナチス・ドイツの国防生理学者オットー・F・ランケは、疲労の克服を最大の課題と宣言していた。ランケ博士は、被験者がペルビチン(メタンフェタミン=覚せい剤)、カフェイン、プラシーボ錠剤のいずれかを服用した形で数式を解かせるというブラインドテストを実施した。
その結果、ペルビチン錠を服用した兵士は、眠気を感じない一方で、頭が賢くなるわけではないことが判明した。そのような、判断能力を欠いて命令に従順であり、かつ疲れ知らずの兵士は「電撃戦」にうってつけだった。それゆえ、ランケ博士は、ペルビチンは兵士に用いるには都合の良い薬剤だと結論づけた。
また、ナチス・ドイツの絶対的な指導者であるヒトラーは、常に国民に畏怖されていなくてはならず、また他国の政治指導者を圧倒しなくてはならなかった。そのためにヒトラーが手を出した薬物は何であり、どのような状態にヒトラーが陥ったのか、オーラー氏は、ヒトラーの主治医・モレル医師の遺稿を詳しく分析して明らかにした。
ソ連との戦局が悪化した1943年、この年の「患者A」(アドルフ、ヒトラーを指す)のカルテにはアヘンからの抽出物、「オイコダール」が処方されたとある。この「オイコダール」を糸口に、オーラー氏はヒトラー最末期の実像を浮き彫りにする。
昭和の日本軍の戦争指導も薬物によって支えられていた!
非人間的な作戦がまかり通っていた点では、昭和の日本軍もナチス・ドイツ軍といい勝負である。日本においても無謀な戦争指導を成り立たせていたのは、兵卒のメタンフェタミン依存であった。日本では、1941年に大日本製薬が発売した「ヒロポン」が、広く売られ、用いられていた。メタンフェタミンにあたる。疲労倦怠感や眠気を取り除くという目的で、軍でも民間でも覚醒剤が使われていたのである。長距離飛行を行う航空兵などに支給され、「本土決戦兵器」の一つとして量産された。
▲ヒロポン(Wikipediaより)
もっとも、日本の場合は兵士や戦争指導者の薬物依存という、薬物使用者としての問題にとどまらない。日本軍のみならず、外務省は民間の財閥企業をけしかけつつ、侵略したアジア各地でアヘン密売を通じた利益をむさぼることに血道を上げていた。ひいては、そのような形で得られた利益で、日本軍は占領地の軍政を成り立たせていた疑いが高い。つまり、薬物依存患者の増加どころか、国策としてアヘン密売を推進するという、国家財政における薬物依存とも言うべき深刻な事態が生じていた疑いが、濃厚なのである。
そうした事実を解明する史料は限られているが、上記に例示したアヘン取引をめぐる外務省と財閥との結託については、岡田芳政、多田井喜生、高橋正衛編『続・現代史資料12 阿片問題』(みすず書房、1986年)第三部に、その一端を見ることができる。
さらに、近年の研究で解明されつつあることは、日独間の薬物貿易である。九州大学の熊野直樹教授によれば、1941年5月、満州国とドイツの間で貿易協定が締結され、同年10月に満州国からドイツへ7トンのアヘンが引き渡された。そしてドイツに渡ったアヘンは、モルヒネとして利用されたが、モルヒネは障害者の安楽死やホロコーストなど、大量殺人にも使われたという。
- 熊野直樹「第二次世界大戦期の「満」独通商関係――満洲大豆から阿片へ」田嶋信雄、工藤章編『ドイツと東アジア 1890-1945』(東京大学出版会、2017年)第11章
本書は新自由主義社会の解毒剤となるか?
オーラー氏は「ナチスがドイツを破壊したのです。ドラッグではありません」と、本インタビュー中に述べている。重要な指摘である。薬物の蔓延や、それを前提とした非人間的な戦争指導を許してしまう社会がどのようなものであったか。現在私たちが生きる社会が、そのような暴走状態に陥る可能性がないといえるのか。
▲本インタビューより(2019年3月29日 IWJ撮影)
オーラー氏は、新自由主義に対して、はっきりと名指しで警戒を呼びかける。
新自由主義下での激しい競争社会において有能だと評価される人物が、しばしば刺激物の摂取によって、その超人的な働き方を支えている点をオーラー氏は問題にしている。岩上安身によるインタビューでもオーラー氏は「実績重視社会は刺激物を切望しています」と述べている。
たしかに、メタンフェタミン依存は有害であり、そしてヒトラーや旧日本軍の戦争指導は常軌を逸していた。それらは批判されるべきであることは言うまでもない。しかし、なぜそのような悲惨な事態に陥ったのかよくよく考えてみる必要がある。激しい競争を強いる高ストレス社会は、薬物に手を出す誘惑を助長していないだろうか。私たちが生きている社会がどのようなものか問い直す糸口を、オーラー氏の著作および本インタビューから汲み取っていただければ幸いである。