約15ヶ月の活動期間を終え、自由と民主主義のための学生緊急行動「SEALDs」が解散した。
SEALDsが発足したのは、2015年5月3日の憲法記念日。デモでは「憲法まもれ」、「解釈改憲絶対反対」、「憲法知らない総理はいらない」といったシュプレヒコールをあげ続け、立憲主義を「古色蒼然とした考え方」と蔑む安倍総理にNOを突きつけてきた。
「私たちは、敗戦とともに生まれた平和憲法のもとで生まれ育ちました。現憲法を土台とした社会が戦後71年も続き、何より、その理念が活動の背中を押してくれました。
終わりの日は始まりの日とも言えます。SEALDsの起こした行動が次に続けばいいという思いも重ねて、8月15日を解散日としました」
SEALDsのメンバーは総勢、何人いるのだろうか。はっきりとは分からないが、解散翌日の8月16日、メンバー27人が衆議院議員会館に集まり、解散記者会見を開いた。冒頭、8月15日を解散日に選んだ理由が説明された。
その後、27人による短いスピーチが続いた。SEALDsのラストメッセージは、最後まで一貫していた。それは「自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分で行動する」ということ。彼らが常に繰り返し言い続けてきたことだ。
- 日時 2016年8月16日(火) 10:00~
- 場所 衆議院第二議員会館(東京都千代田区)
寺田ともかさん「SEALDsの解散は目的化しないためにも必要だった」
「解散は、SEALDsという一つの手段が目的化しないためにも必要なことだと思っています」
同じ日に解散を迎えた「SEALDs KANSAI」の立ち上げメンバーでもある寺田ともかさんは、解散は「必要だった」と話す。
昨年6月5日、初めて国会前に立ち安保法制反対を訴えた若者たちのグループは、以来、常に「評価」の的になってきた。「あなたはSEALDsを支持するかしないか?」という問いで、個々の政治的スタンスが図られるという奇妙な現象も生じた。寺田さんはそうした議論は「本質からずれている」と指摘した。
「活動を続ける中で、SEALDsの是非やSEALDsを支持するかどうかといった、本質からそれた議論が広がっていきましたが、私たちが伝えたかったことは、誰かに期待することではなく、個人が自分の責任において行動することの必要性でした。
見てもわかるように、私たちは普通の未熟な大学生です。ヒーローみたいに社会を変えたかったわけでも、完璧な運動体を作りたかったわけでもありません。自分たちの無力さを受け入れたうえで、未熟ながらも主権者としてやれることは全部やろうという思いでやってきました。
この未熟さや普通さが、次、誰かが行動する勇気につながっていけば嬉しいです。とても長い闘いになると思いますが、個人としてできることを続けていきます」
▲寺田ともかさん(写真=2015年8月30日、国会前)
奥田愛基さん「みんなで担えばそうでもないことが、特定の人たちにだけ担わせると、荷の重みは非常に重く感じる」
「日常を肯定すること。自分自身の『生』を肯定すること。別に、安倍政権に反対だからというだけで、やってきたわけじゃない」
発足以来、常にリーダー的存在として注目を浴びてきた奥田さんにとって、「自分自身がどう生きていきたいか」が活動の原点だった。解散を迎えた奥田さんは、SEALDsメンバーとしての最後のメッセージを送った。
「自分自身がどう生きていきたいかを考えたり、思い悩んだり、そっちの方が大事で、そこから出てきた結論として、今、政治に対して何か言わなければいけないなら言おう、ということ。
日常を犠牲にして、生活がまわらなくなってまでやる必要はないと僕は思う。何よりも、あなたが生きていることの方が大事だということを、今日の解散にあたっても、思っています。
一年半、政治的な活動をしてきて思ったことは、この社会で、責任を担おうとする人はやっぱりまだ少ない。行動する人への比重が重いと感じました。若者が政治的に『YES』、『NO』を言うことが、こんなにも辛いというか、大変なことなのかと。
みんなで担えばそうでもないことが、特定の人たちにだけ担わせると、荷の重みは非常に重く感じると思います」
▲奥田愛基さん(写真=2015年8月30日、国会前 右:音楽家・坂本龍一氏)
デモや街宣を、デザイン性の高いスタイルで打ち出したSEALDsは、若者の政治参加の裾野を広げた。彼らの活動に呼応したのは若い世代だけに限らず、多くの大人も賛同した。SEALDsが呼びかけた国会前行動などでは、スピードの早いシュプレヒコールに追いつこうと、奮闘していた年配の参加者の姿も多く見られた。さらには、政治家までをも動かす世論を喚起し、政党の垣根を超えた野党共闘の実現にも一役買った。結果、夏の参院選で、32の一人区全てで野党統一候補の擁立にいたった。
こうした新しい政治の風景を作り出したのは、間違いなくSEALDsのアクションによるものだ。彼らが成し遂げてきたことが大きかった分、いつしか社会は彼らに過大な注目を集め、期待を寄せるようになった。「解散」という形をとることで、SEALDsを話題にすることに忙しい社会へ、若者たちはクエスチョンを投げかけた。
「解散したら、今後はどうするのか」——
解散してもSEALDsの「次」を問い続ける社会。メンバーの桒田麻椰さんは、こうした問いに、「問い」で返した。
「解散してこれからどうするの?と聞かれますが、それはSEALDsだけの問題じゃなくて、みんなの問題でもある。自分は何をしていくのか、どうしていきたいのかを考えてほしいと思っています」
本間信和さん「SEALDsだけじゃなく、高江で起っていることも報じてほしい」
▲本間信和さん(写真=2015年9月14日、国会前)
自分たちは解散するが、SEALDsが起こしたムーブメントに代わる動きが生まれることをメンバーたちは期待している。千葉泰真さんは、「そのための種を撒いてきたつもり」と話した。
「SEALDsのムーブメントは、この国のソーシャルムーブメントの最先端だと思う。でも、最新性や最先端なんてものは、一瞬でいい。SEALDsが作り出した運動がアップデートされて、新しい運動の最先端が出てきて欲しい。そのための種を、5月3日の結成の日から蒔いてきたつもり。それをキャッチしてきてくれた人が日本中にいると確信しています」
同じく本間信和さんも、「中継でこの会見を見ている10代や20代の人たち、SEALDsは解散しますが、何かが終わるわけではないので、この次、何かの機会があれば、今度は一緒にやりましょう」と呼びかけた。
若者たちにメッセージを送った後、本間さんは会見場に詰めかけた報道陣に対しても、あることを願い出た。「こうして、普通の学生の運動を報道していただいてありがたいと思っています」と謝意を示した後、こう続けたのだ。
「SEALDsの解散だけではなく、現在、高江で起っていることを、きちんと報道してほしい。安保法制をめぐっては議論が次の段階に移り、南スーダンや中東地域に自衛隊員が派遣されていく。天皇陛下の生前退位についても、これから議論が深まっていく状況に日本社会が入っていく。戦後の体制を見直さないといけない時期にさしかかっていると思います。
その中でも、特にメディアの人たちの果たす役割は重要だと思っています。日本社会でこれから起こっていくことをきちんと報道していただきたい」
本間さんの抱いている危機感は、IWJが抱えている危機感と共通する。本間さんが指摘する通り、大半の既存メディアは高江で起きている出来事を報じることについて、及び腰だ。であるからこそ、IWJは、高江の問題については全力を傾けて報じ続けている。
SEALDsについて報じ、語るとき、メディアは自分のことを棚に上げてSEALDsの主張や活動を「評価」したり「批判」したり、あるいは個々のメンバーの身の振り方を取り沙汰するのではなく、SEALDsの志に対して、自分たちは、何をしているか、何をどう報じ、論じ、活動しているかが問われなくてはならない、と思う。
「自分は『納得していない』ということを、自分の顔と声と名前を出して言っている人がいることに、勇気をもらった」
27人による解散記者会見は、SEALDsらしい清々しさの中で幕を閉じた。今後、学業や就職活動などに専念するが、政治に関わることもやめないという。
SEALDsでは主にデザイン班を担当してきた伊勢桃李さんは、「政治に関わらないといけないことを知ってしまった」と話す。
「政治を近づけるものとして、デザインは大切だったと思う。でも、まだまだだと思っていて、今後、学校でもちゃんとやっていきたい。解散し、生活に戻り、学校に行くけど、政治と関わらないといけないことを知ってしまったので、これからも関わっていくと思います」
神宮寺博基さんもSEALDsとの出会いを振り返りながら、今後について次のように話した。
「良くなって行かなそうな何かに対して、自分は『納得していない』ということを、自分の顔と声と名前を出して言っている人がいることに、勇気をもらった。何かが良くなるまでに時間がかかると思いますが、できることがあることを学んだので、それをやり続けたいと思います」
林田光弘さんは、「ここにいるメンバーが活動し続けると僕は信じています。5年、10年後の未来を考えた時に、国会前や路上で、また、みんなと再会できることを心から嬉しく思っています」と締めくくった。