「路上生活で一番つらいのは人間関係を失う事。行政のシェルターには屋根はあるが人間同士の結びつきがない」――。
毎週土曜日の炊き出しを中心に夜回りや医療福祉相談、生活保護の申請同行などの取り組みを渋谷で行っている「のじれん(渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合)」が、毎年恒例の越年活動を渋谷区役所仮庁舎のある美竹公園で12月28日から1月3日まで行った。
IWJは大晦日、現場の様子を取材した。越年行動は夕食の共同炊事を中心によろず相談、青空図書館、マッサージ、衣類配布、映画上映、年越しそば、紅白上映などが日替わりで行われ、夜は集団野営のためのテントも用意されていた。
- 13:00~ マッサージ、衣類配布/15:00~ 共同炊事/17:30~ 全体寄り合い/18:00~ 夕食/20:00~ 年越しそば
肌着や靴下は新品でないと配れない~必要なものは不足しがちな「肌着」類
「のじれん」の木村正人氏によると、野菜などは付き合いのある農家や八百屋さんが送ってくれた。米はフードバンクも利用し、調味料は寄付で購入しているため食材は現在十分に足りているという。「今、必要なものは?」という記者の質問には、「毎年当事者たちから多く聞くのは肌着」だと回答。寒いので毛布・防寒着などは支援で集まるが、肌着や靴下は新品でないと配れないということもあり、不足しがちなのだという。
▲「のじれん」木村正人氏
この近辺に“食えない”人は140~150人
IWJが取材した12月31日は大晦日ということで、夕食の他に年越しそばも振る舞われた。共同炊事は2回続けて行われた。夕食・年越しそばとも110~150食ほどが用意された大テーブルに並べられ、あっという間になくなる。
前出の木村氏によると、毎週土曜日の炊き出しも含め毎食140~150食が出ているので、定常的にこの周辺には、それくらいの「食えない人がいる」のだという。
「その他に働いている人もいて、食えるので炊き出しには来ない人もいる。渋谷は集団で寝泊まりするような場所がなく、深夜終電後に人目につかないシャッター前で数時間寝ている人も多い。働いていてちょっとでもお金があればネットカフェとかに泊まる人もいる。行政は目視でテントだけを数えて『路上生活者は減っている』という。減ってはいるだろうが、それ以前に見えにくくなっている」
「路上生活では家がないことも大変だが、安らぐ場所や人間関係を失うことが一番つらい」
また、木村氏は「路上生活では家がないことも大変だけど、安らぐ場所・人間関係を失うことが当事者たちにとって一番辛い」と続ける。
「それは生活保護を受けるようになって住む家ができても一人暮らしなので変わらない。行政がやっているシェルターや施設も、屋根はあるが人間同士の結びつきがない」
木村氏は2000年に、路上生活者とともに、韓国・台湾の路上生活コミュニティーの視察を行なった。木村氏は、「韓国では大規模な施設を作って路上にあるコミュニティーごと受け入れ、運営も当事者にある程度任せていた。それはうまく機能していたが、日本はコミュニティーを分断したがる」と比較した。
活動の中心になる共同炊事には、支援者として、路上生活から抜け出した“卒業生”も毎週多く参加する。むしろ、“卒業生”こそが活動の中心になっているのだという。
「みんなでやったほうが楽しい。作業を通して会話も生まれる。人間関係もできる。その中で仕事や生活の情報交換も行われる。腹を満たすのも大事だが、そういうことが力になると思う」
木村氏のこの言葉通り、参加者の多くは支援する人、される人、ボランティアが区別なく用意された大きなテーブルを中心に賑やかに一緒に作り、食べ、片付けていた。
「みんなが同時に受け取って食べられる」という大きなテーブルを指しながら、木村氏は「行列を作って配る人が受け取る人に順に渡して、受け取る側は申し訳なさそうな顔をして行くのは気持ちのいいことではない」と話した。
「だったら自分たちで作って自分たちで堂々と食べればいい。食べた食器は自分で洗って返す。使い捨て食器と比べて会話する時間もできる」
木村氏は、作業を増やして役割を作っていく中で、彼らが持っている力を発見したのだそうだ。当事者の中には、もともと料理のプロが、テントを建てる際には大工のプロがいるのだという。
「震災の年、パブリックスペースを使って被災者を受け入れ、その同じ時期に江東区でも渋谷でも路上生活者を追い出した」~自然災害の避難者と経済災害の避難者の扱いの違い
今年、渋谷区は「人道的な支援の観点から」美竹公園を施錠しなかったのだそうだ。木村氏によると、もともと美竹公園にはテントに住む人もいて、ずっとここで炊き出しをやっていたが、震災の年(2011)年に、強制的に追い出されたのだという。
「一方で、パブリックスペースを使って被災者を受け入れ、その同じ時期に江東区でも渋谷でも路上生活者を追い出した。経済的な困窮者というのは社会的な災害の被害者なのに法律はそうなっていない。自然災害の避難者と経済災害の避難者で扱いが違う」と木村氏は批判した。
宮下公園だけは夜間に開けたという前例を絶対に作りたくない「理由」
だが、はたして今年、渋谷区は本当に人道的な配慮から公園を解放したのだろうか。数年前、警察を大量動員して宮下公園から路上生活者を強制排除し、年末年始を通じ公園出入り口を施錠までして越年支援の炊き出しも妨害したのは渋谷区だ。そうした冷たい仕打ちに対する批判に耳を傾けたのだろうか。
その点に関して“みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会”小川てつオ氏に詳しい経緯を聞くことができた。また、別の支援者の話などからも総合してまとめると、次のようになる。
2006年にフットサルコートが作られる前には、宮下公園には100軒のテントがあった。フットサルコート新設後は30~35人が生活していた。
2008年6月頃、宮下公園をナイキジャパン社と渋谷区で改造する「ネーミングライツ」の話が動き出した。これは公式発表されず、一部のリークから発覚したという。ナイキ公園化計画は水面下で話が進み、2009年にようやく区長が認め、ナイキジャパン社との10年契約が結ばれた。契約では公園名を「宮下ナイキパーク」とし、公園改修費の全額を同社が負担、スケートボード場・クライミング施設・エレベーターの整備費として年間1700万円を支払うことになっていた。
2009年9月から工事を始める予定だったが、野宿者の問題だけでなく一企業の購買層のための公園になることに反対運動が起き、テントを張ってトークイベントやライブを行われ、工事は延期された。
2010年9月、工事が始まったときにまだ残っていた何人かの野宿者は、行政代執行で強制排除され、今公園の下に並んでいる小屋に移らされた。批判を受けたナイキはこの時、命名権料を払った上で名称変更しないことを表明した。
工事前、渋谷区側は、「夜間は運動施設のみを閉め、公園出入り口は施錠しない」と説明していたにもかかわらず、2011年4月、公園リニューアル直後から約束を反故にして夜間施錠が続けられている。
2013年暮れ、のじれんが越年活動に宮下公園を使おうとしたが、渋谷区は警察官を大量動員して追い出したため、隣の神宮通り公園で越年活動を行った。
すると2014年は、渋谷区によって、宮下公園、神宮通り公園、美竹公園の3つが年末年始通して、約9日間、終日施錠閉鎖された。その際は宮下公園階段下で越年活動を行った。
2015年3月、東京地方裁判所は、「渋谷区がナイキジャパン社との間で改修費負担を対価として命名権を与える契約を結んだことは、一般競争入札を実施していない上、必要な議会の議決を得ておらず地方自治法違反」「行政代執行により強制的に男性を排除したのは許容範囲を超えており違法」という判決を下し、高裁でも判決が維持され確定した。
ナイキと10年契約を結んだはずが、三井不動産による再開発事業が浮上、宮下公園をつぶす計画
一方で、渋谷区は昨年夏から「新宮下公園整備事業」という再開発計画を始めた。公募により候補事業者に選ばれた三井不動産が、宮下公園を全部壊して3階建て商業施設と17階建てホテルを作るのだという。
前出の小川氏は「そもそもナイキ公園化自体おかしいが、そのナイキとの契約が10年なのに、2011年にオープンした公園を2014年に壊す話が出ていること自体、二重におかしい」と話した。
2015-2016 渋谷 越年・越冬闘争(動画) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/280682 … @iwakamiyasumi
多くの方が楽しく年の瀬を過ごす一方、住まいも仕事も無く、文字通り「明日をも知れない」人たちがいます。そこから見える行政・社会のあり方、考えてみませんか。
https://twitter.com/55kurosuke/status/683405034336342016