【IWJ特別寄稿】昭和天皇自ら天皇主権を否定し、大日本帝国憲法から日本国憲法へ橋渡しをした(近畿大学通信部短期大学・松永章生氏/憲法、社会保障法、生活保護法) 2015.10.22

記事公開日:2015.10.22 テキスト
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(文:近畿大学通信部短期大学・松永章生)

── 論文を書くにあたって ──

 この1年、憲法を無視する大変な事態がでてきました。明らかに憲法違反と分かっているのに、公然と安保法案を通しました。私はどうしてそのようなことができるのか、深く考えました。そしてふと気づきました。

 私は学生に憲法を教えています。残念なことに、日本国憲法の成立過程や性格については省いていました。心の中に「押しつけ憲法ではないか」とか「占領法規ではないか」とか、なんとなくやましい気持ちを持っていたからです。内容がよいからよいではないかとか、人権思想は世界史の流れであるからなどと考えても、なんとなくすっきりしません。そこで深く反省し、学問的にどうかと本気になって追究してみようと考えました。

 まずポツダム宣言、その他の文書を英文で読んでみました。日本国憲法も同じです。そうすると、意外なことに気づきました。英文では、「主権」と「権限」を厳密に区別していたということです。そしてより重要なことは、これまでの憲法論に主権者天皇の存在がすっぽり抜けていたということです。これでは日本国憲法の成立過程や性格を語ることができません。

 そのような事情で本論文は、できるだけ英文を入れ、また主権者天皇に視点をあてて論じることにしました。

論文の要旨

① ポツダム宣言を受諾しても、天皇主権は維持されていた。しかし権限はマッカーサーに従属した。主権を英語ではsovereignty といい、権限をauthorityという。この2つはポツダム宣言、マッカーサー元帥への通達、日本国憲法では厳密に区別されている。

② ポツダム宣言の目的は日本の武装解除であり、主権変更を目的としていない。主権変更は日本国民が決めることだからだ。マッカーサーは日本政府を通じて支配した。天皇を尊重し、日本政府に指示するという方法をとった。つまり間接統治である。主権者である天皇は自由に行動できた。

③ 天皇は戦前からイギリス型の立憲君主制を理想としていたが、ポツダム宣言受諾後、大日本帝国憲法のもとでは不備があると痛感した。すでにマッカーサーとの第1回会見前の1945年9月25日の記者会見で、天皇は「……立憲的手続きを通じて表明された国民の総意に従い、必要な改革がなされることを衷心より希望する」と述べている。その2日後がマッカーサーとの会見である。

④ 天皇は、1946年1月1日の「新日本建設に関する詔書」で天皇主権を否定した。天皇は、独立後の記者会見でこの詔書が自分の意思であることを表明している。マッカーサーの押しつけではない。主権が否定された大日本帝国憲法は形式だけになった。マッカーサー3原則が出たのは1946年2月3日である。その前の1月1日、天皇はすでに天皇主権を否定しているから、天皇主権をとる政府案(松本案)ではなく、国民主権をとるマッカーサー3原則が天皇の意思を表現している。

⑤ 国民は天皇を支持していた。大日本帝国憲法も、内容はわからないが天皇が与えるものだからよいものだと考え、喜んで支持した。終戦も天皇が戦争を止めるというから従った。日本国憲法も天皇が裁可したから喜んで支持した。

⑥ 憲法の分類には、君主が与える欽定憲法、市民革命などにより国民が制定する民定憲法、君主と国民が共同で制定する君民協約憲法がある。大日本帝国憲法は欽定憲法、日本国憲法は君民協約憲法である。従来の学説は君主と国民を対立的に考えていた。ここに誤りがある。日本の場合、天皇と国民は対立していない。

⑦ 天皇は戦前から「君臨すれども統治せず」というイギリス型の立憲君主制をモデルとしていた。政府の決定を尊重し、2・26事件と太平洋戦争終結以外は自分の意思で決めていないと1981年4月17日の記者会見で述べている。そうであるなら開戦の決断は天皇の意思ではない。しかし、天皇主権のもとでの立憲君主制は制度上不備がある。意思決定せず、責任だけ負う。つまり「君臨すれども統治せず。されど責任を負う」ということになる。そうであるなら国民主権のもとでの天皇制しかあり得ない。天皇は敗戦により制度の変更を痛切に感じたのである。

⑧ ところが政府は、天皇主権を維持することしか念頭にない。国民主権のもとでの天皇制即ち象徴天皇制があると考えることができなった。また戦前の天皇制を維持することの危険性に気づいていなかった。危険性とは何か。天皇の戦争責任である。

⑨ それに気づいていたのがマッカーサーである。天皇を敬愛していたマッカーサーは、何とか天皇を護らなければならないと考えた。そのためには1946年2月26日極東委員会の成立前に憲法改正に着手し、その後速やかに国民主権に変更して天皇に戦争責任がないことを示さなければならなかった。つまり天皇は戦前も戦後も意思決定者ではなかったことを示す必要があった。天皇の意思を理解していたのはマッカーサーのほうであった。

⑩ 1946年1月1日、天皇自ら「新日本建設に関する詔書」で天皇主権を否定した。この時、大日本帝国憲法の根幹は崩壊し、形式だけになった。4月10日女性の参政権を認めた総選挙が行われた。4月17日憲法改正草案が公表された。この草案は国民主権に基くもので、天皇の意思を表現したものであった。形式化した大日本帝国憲法の手続きに従い、10月7日可決成立した。天皇はこれを裁可し、11月3日公布した。よって日本国憲法は天皇主導の君民協約憲法である。

資料の評価

 法的に評価できるものと補足的に評価できるものがある。①法的に評価できるものは、憲法、詔勅、法律、条約、宣言、通達、指示、覚書などの公式文書(または行政行為)である。②準法的に評価できるものは、天皇の記者会見などの公的発言である。公的存在である天皇の場合、一般人と異なり、記者会見は本人の意思を表明したもので法的効果を持つ。③補足的に評価できるものは、マッカーサーとの会談、回想録、同席した者の発言・日誌、当時の政治家の発言・日誌などである。背後を知るのに重要だが、私的なものもあり補足的に評価した。法的にみると重要度は①②③の順である。

 2014年、『昭和天皇実録』が公開された。この中に夥しい量の資料があるが、回想録、日誌、私的発言などは③になる。貴重な資料ではあるが、法的効果から見ると、①②に劣る。たとえると、①②は水面上の氷山であるが、③は水面下の氷山である。法的に効果を有するものは、下部にある個人の見解や心の動きではなく、上部にある明示された文書あるいは公的発言である。目に見えない部分には利害、思惑、感情が錯綜しているが、目に見える部分はそれが抜けたり、往々にして美辞麗句で語られたりする。それでも目に見える文書や発言が法的効果を持つ。また『昭和天皇実録』は、編集者の態度や論者のとらえ方で評価も変わる。その意味でこの論文では、筆者の見解を補足するものとして、補充的に取り上げた。なお、論文中の傍線は筆者による。

論文

1.ポツダム宣言受諾で主権に変更はないが、権限は連合国最高司令官に従属した

 ポツダム宣言で主権が連合国最高司令官マッカーサーに移ったという考えがある。しかし、これは主権の性質から言って誤りである。一般に主権には3つの特徴があるといわれる。①国家の統治権 ②最高性(内にあっては最高、外にあっては独立性) ③最高意思決定がそれである。意味は多様だが、この主権の保持者は広い意味の国民である。外国人ではない。歴史的にみると国民または君主である。それならマッカーサーの支配で何が移ったのであろうか。

 ここでまず、英文日本国憲法をみてみよう。

……do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
Government is a sacred trust of the people ,the authority for which is derived from the people …… そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し……、

 主権はsovereign power と表現されている。一方、権威をauthorityと表現している。authorityはthe power or right to give ordersと説明される。「命令を与える権威または権利」のことである。日本国憲法で考えると、国民に主権があり、それから出たものが国会、内閣などの国政の権威または権限である。主権というのは、国民あるいは君主が根源的に有するもので、だれにも譲れない。しかし、それから派生する権威や権限は譲ることができる

 そこでポツダム宣言に帰ってみると、次のようになる。

⑧……Japanese sovereignty shall be Limited to the islands of Honshu, Hokkaido,Kyushu, Shikoku, and such minor islands as we determine.日本国の主権は、本州、北海道、九州、四国、およびわれらの決定する諸小島に限らるべし。

 Japanese sovereigntyは日本の国家主権である。占領されても主権はマッカーサーに移るものではない。日本国にある。

 ところで1945年9月6日のマッカーサー元帥への通達によると、次の英文が見られる。

①The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the State is subordinate to you as Supreme Commander for the Allied Power. 天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官としての貴官に従属する。

 ここに使っている単語はauthority(権限)であって、sovereignty(主権)ではない。つまり主権から派生した統治の権限がマッカーサーに移っただけで、主権が移ったのではない。主権は占領されても委譲できないものだからだ。命令できる権限が移っただけである。この点の区別は重要である。

2.マッカーサーの支配は原則として日本政府を通じた間接統治

 占領下の支配形態には2つある。直接統治と間接統治である。直接統治の場合、主権は停止される。この場合はわかりやすい。ドイツの場合、戦後の支配を決めたポツダム協定が存在した。直接統治である。だから占領が終わると、停止されていた主権が回復する。ところが日本の場合は複雑である。

 1945年9月6日のアメリカ政府によるマッカーサーへの通達は次のように伝える。

②Control of Japan shall be exercised through the Japanese Government to the extent that such an arrangement produces satisfactory results. This does not prejudice your right to act directly if you required. 日本の管理は、日本政府を通じて行われるが、これは、このような措置が満足な成果を挙げる限度内においてである。このことは、必要があれば直接に行動する貴官の権利を妨げるものではない。

 ここでは、日本の管理は原則として日本政府を通じて行われるとされている。ただ必要に応じてマッカーサーが直接行動できるとも記されている。

 日本支配は、マッカーサーから始まった。ポツダム宣言受諾によりマッカーサーが派遣されたとき、ドイツの支配の在り方を決めたポツダム協定に当たるものは存在しない。1945年12月末にようやく、日本の占領管理体制を規定するモスクワ協定ができ上がる。それにより日本支配の最高意思決定機関である極東委員会の発足は1946年2月26日となった。その後は、マッカーサーは極東委員会に従うことになる。

 さて、ポツダム宣言受諾に関して、「ポツダム宣言受諾に関する8月10日付日本国政府申入」は次のように述べている。

 帝国政府ハ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ米,英,華三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ゲラレタル条件ヲ右宣言ハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾ス。The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the Joint Declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, by the heads of the Governments of the United States, Great Britain and China, and later subscribed by the Soviet Government, with the understanding that the said Declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler.

 日本政府は、天皇主権the prerogatives of His Majesty as a sovereign rulerを変更しないという条件をアメリカ政府に申し込んでいる。これに対するアメリカ政府の回答は次の通りである。
(「米英ソ中各政府の名における8月11日付アメリカ政府の日本国政府に対する回答」1945年8月11日)

 From the moment of surrender, the authority of the Emperor and Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers, who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms. 降伏ノ時ヨリ 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
(筆者註 ここでは、a sovereign ruler即ち主権ではなく、the authority権限という言葉を使っている。天皇主権は変更しないが、権限が移ったのである。)

The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration and shall issue his commands to all the Japanese military, naval and air authorities and to all the forces under their control wherever located to cease active operations, and to surrender their arms, and to issue such other orders as the Supreme Commander may require to give effect to the surrender terms. 天皇ハ日本国政府及日本帝国大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸条項ヲ実施スル為必要ナル降伏条項署名ノ権限ヲ与へ且之ヲ保障スルコトヲ要求セラレ又 天皇ハ一切ノ日本国陸,海,空軍官憲及何レノ地域ニ在ルヲ問ハズ右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行為ヲ終止シ,武器ヲ引渡シ及降伏条項実施ノ為最高司令官ノ要求スルコトアルベキ命令ヲ発スルコトヲ命ズベキモノトス
(筆者註 ここでは日本の武装解除を述べている。)

……
The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. 日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス
(筆者註 ここでは日本の最終的政治形態は日本国民の意思によるとある。連合国は関与しない。)

The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved. 聯合国軍隊ハ「ポツダム」宣言ニ掲ゲラレタル諸目的ガ完遂セラルル迄日本国内ニ留マルベシ

 この文書で見る限り、連合国最高司令官の任務は日本の武装解除であり、軍事的なものであった。日本の最終的な政治形態即ち主権変更は、日本国民の意思によると述べている

 終戦の詔書に次の文章が見られる。

……朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ得テ……
 (筆者註 天皇と日本国政府が國體、即ち、天皇が統治権を総攬するという天皇主権は維持されたと認識していたことを示している。)

 日本支配の方法を決める極東委員会が発足するまで、マッカーサーは自由に行動できた。状況によっては直接統治も可能であったが、日本政府を通じて行うことにした。つまり間接統治である。その意図はさまざまに推測できる。マッカーサーの周辺の助言や日本政府首脳の進言ともいわれる。また1945年9月27日、天皇とマッカーサーの第1回会談がマッカーサーの統治に決定的な影響を与えたともいわれる。理由は推測の域を出ないが、現実として、マッカーサーは天皇を尊重し、政府に対して指示するという方法で臨んだ。

 マッカーサーが恐れたのは極東委員会の発足だ。発足した時から、マッカーサーはそれに従わなければならない。しかし、各国の利害が対立し、実際発足したのは1946年2月26日である。1945年8月28日、マッカーサーが日本に到着しているから、約6か月の期間があった。それが幸いした。マッカーサーは自由に裁量できた。

3.天皇は「人間宣言」で自ら天皇主権を否定した

 1946年1月1日、天皇は、「新日本建設に関する詔書」を出した。いわゆる人間宣言である。この時、憲法に関しては、松本案も、マッカーサー3原則も出ていない。間接統治の日本では天皇は依然として主権者である。その天皇が詔書を出した。

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
……
然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。
……
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

 天皇は、ここで、「五箇条の御誓文」を引用するとともに、自身が現人神であることを否定している。これは重要な詔書である。なぜなら大日本帝国憲法の根幹に関わることだからである

 大日本帝国憲法第3条は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定する。天皇が現人神だからだ。それを天皇自身が否定したのであるから、大日本帝国憲法の根幹は崩れ去った。つまり天皇主権の否定である

 日本国憲法でいえば、憲法の根幹である基本的人権が否定されたことになる。人権が否定されると国民主権の根拠も失われる。なぜなら近現代憲法は「生まれながらにして自由・平等な人権の主体者である国民に主権がある」と考えるからだ。

 天皇が強調したかったのは、日本にはすでに民主主義があったということである。アメリカからの輸入ではない。それが「五箇条の御誓文」第一に示されている。「広く会議を開いて、政治の重要な事は世論によって決めるべきだ」ということだ。つまり民主主義である。

 天皇主権の否定と民主主義の強調を考えると、これは大日本帝国憲法の否定である。天皇自ら国民主権への道を開いたのである。

 そうであれば、否定された大日本帝国憲法はどうなったのか。根幹をなくしたものの形式は残っている。議会、大臣(行政担当者)などの形式的な政治制度は残っているのである

 天皇の人間宣言についてGHQの押しつけであるという主張がある。その点についてはこれまで賛否両論があった。ところが独立後の1977年、天皇は記者会見をしている。つまり公的存在である天皇の意思表明である。これによると詔書は自分の意思であるとはっきり述べている。アメリカの支配が去ったのち、即ち自由に表明できる状態で、天皇は自分の意思で宣言したと表明している。背後にどのような思惑があったとしても、自由意思のもと明示している以上、天皇の意思としての法的効果を持つ。会見の内容は次の通り。

「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」
(「『陛下、お尋ね申し上げます』高橋紘、文春文庫、昭和52年8月23日の記者会見)

記者「ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが………」

天皇「そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
 それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。
 そうして、「五箇条の御誓文」を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
 それで、特に初めの案では、「五箇条の御誓文」は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
 幣原が、これをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしい、というマッカーサー司令官の強い希望があったので全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります」

記者「そうしますと陛下、やはりご自身でご希望があったわけでございますか………」

天皇「私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです」

記者「陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終ったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃から民主主義の大本、大綱があったんであるという………」

天皇「そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。

 この詔書は、一般に「人間宣言」と言われるが、この点に関しては国民と天皇の考えにずれがある。天皇は、民主主義は明治大帝のときからあったことを強調している。自分が現人神であるということは「二の問題」と言っている。ところが国民にとっては「二の問題」が大切だから、「人間宣言」という

 天皇は戦前からイギリス型の君主制を理想としていた。それは「1981年4月17日の記者会見」にみられる。

天皇「皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らなければと感じました。しかし、それにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは2回でした」
(註 2回とは2・26事件と太平洋戦争の終結)

 1945年9月25日、1回目のマッカーサー会見前の記者会見では、つぎのような発言がみられる。

天皇「英国のような立憲君主国がよいと思う。立憲的手続きを通じて表明された国民の総意に従い、必要な改革がなされることを衷心より希望する。

 これはまさに国民主権下の象徴天皇制である。1回目のマッカーサーとの会見は9月27日であるから、その2日前である。国民の総意に従う君主制が天皇の意思である。日本国憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく。」と同じである。

 2014年9月9日、『昭和天皇実録』が公表された。『昭和天皇の戦後日本』(豊下楢彦、岩波書店、2015年7月28日 3頁)によると、こうなる。

「内大臣木戸幸一をお召しになり、1時間余にわたり謁を賜う。内大臣は拝謁後、内大臣秘書官松平康昌に憲法改正問題につき調査を依頼する。」(1945年9月21日)

 さらにまた、次のような記述も見られる。(同書23頁)

「この度成立する憲法により、民主的新日本の基礎が確立された旨のご認識を示され、憲法改正に際しての最高司令官の指導に感謝の意を示される。」(1946年10月16日マッカーサーとの第三回会談)

 1946年10月7日、日本国憲法が可決成立した。天皇は、憲法改正をマッカーサーの指導として感謝している。これはどう見ても、憲法改正をまず天皇が言いはじめ、マッカーサーが支援したと考えざるを得ない。つまり天皇主導の憲法改正である

 ポツダム宣言受諾後、天皇の周辺は激変した。しかしその後、マッカーサーの支配下にあってもマッカーサーとの良好な関係を保った。天皇は主権者として自由に判断ができる地位にいた。占領下で、天皇がどう決断するかは天皇個人の問題である。ここで法的に問題になるのは、意思決定において天皇に自由があったかどうかである。この点には全く問題がない。さらに独立後の記者会見で、人間宣言に見られる詔書が自分の意思であると表明している。よって法的効果がある。

 以上から、大日本帝国憲法を否定し、日本国憲法制定へ導いたのは昭和天皇である

4.押しつけ憲法ではない

 1946年2月1日、毎日新聞が松本案をスクープした。松本案は基本的に天皇主権に変更は加えないまま、字句の変更をしたにすぎなかった。そこで2月3日、マッカーサーは3原則を示す。


The Emperor is at the head of the State.天皇は国家元首の地位にある。
His succession is dynastic.皇位は世襲される。
His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsible to the basic will of the people as provided therein.天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基本的意思に対して責任を負う。

II
War as a sovereign right of the nation is abolished.国家の主権としての戦争は廃止される。
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。
……

III
The feudal system of Japan will cease.日本の封建制度は廃止される。
……

 その後、日本国憲法では天皇はheadではなくsymbolになっている。また3原則では自衛の戦争も否定されているが、日本国憲法では削除されている。しかし国民主権、戦争放棄という原則は変わらない。

 そこで天皇の「新日本建設に関する詔書」と比べると、天皇の意思はマッカーサー3原則に近い。というより、天皇の詔書が先であるから、天皇の意思に近いのがマッカーサー3原則だ。だから押しつけではない。

 天皇は戦前からイギリス型の君主制を理想としていた。先に述べたように、終戦直後(1945年9月25日、1回目のマッカーサー会見前の記者会見)、つぎのような言葉がみられた。

 「英国のような立憲君主国がよいと思う。立憲的手続きを通じて表明された国民の総意に従い、必要な改革がなされることを衷心より希望する。」

 この記者会見から考えると、天皇がマッカーサーより先に憲法改正を言い出しているのである。

 このあたりの事情について、豊下楢彦氏はつぎのように記す。
(『昭和天皇の戦後日本』13頁、16頁)

 年を越えた1946年1月7日、松本は「憲法改正私案」を昭和天皇に奏上した。この「私案」は、「天皇が統治権を総攬するという大原則を変更する必要はない」という「第1要件」を含む4つの要件に沿ってまとめられたものであった。……

 ……前日の12日に昭和天皇が木下侍従次長に対し、7日に「奏上」をうけた松本案について、「……松本は、帝国議会において、現行憲法(明治憲法)条文のままとする部分に論議が及んだ場合、議会に権能なしとして拒絶する考えというが現実的ではない旨を仰せになる」と『実録』が記していることである。つまり昭和天皇は、明治憲法の骨格とはほとんど変わらない松本案を、事実上否定する考えを木下に伝えていた訳であって、要するに松本案はGHQばかりではなく、昭和天皇からも拒絶されていたのである。

 ここで大切なことは、マッカーサーが松本案を知ったのは1946年2月1日である。その前月の1月7日、天皇は奏上をうけ、12日に木戸伝えている。松本としてはマッカーサーには秘密にして天皇に先に示したはずだ。ここで天皇が松本案を否定している。『昭和天皇実録』の解釈は各人による。また直接法的効果を持つものではないが、背後を知るのに極めて重要な資料である。

 1946年1月1日、「新日本建設に関する詔書」で天皇によって否定された大日本帝国憲法は、形だけになった。その形式を利用して男女平等選挙、帝国議会の審議がなされた。手続きにも問題はない。天皇の意思に近いのがマッカーサー3原則だとすると、それに基づいた民政局の憲法草案こそ正当性がある。つまり内容にも問題がない。そして最後に、天皇が裁可した。

5.国民の支持

 「新日本建設に関する詔書」で天皇は国民とともにあると述べている。これは国民主権か、君主主権かという対立的概念ではない。君民一体である。大日本帝国憲法の制定時にも、多くの国民は内容も知らずありがたく思った。また太平洋戦争を終わらせたのは天皇である。天皇がそう言うから正しいというのが国民の意識だ。

 終戦から日本国憲法制定までの動きを、担当者は知っていた。ところが多くの国民は知らない。知らないが天皇を支持していた。天皇が裁可したからよいに違いないというのが国民の気持ちであった。

 これまでの日本国憲法の成立過程や性格に関する見解は、主権者である天皇の存在が抜けている。ポツダム宣言を受諾しても、主権者は天皇であり、天皇がどう決断するかが最も重要である。主権者不在で憲法を論じることはできない。

「押しつけ憲法論」
 マッカーサーの押しつけというものである。しかし、3原則が出た時より早く、1946年1月1日天皇自ら天皇主権を否定しているから、押しつけにならない。独立後、1977年の記者会見で、この詔書は自分の考えだと天皇は表明している。自由意思のもとで表明している以上、法的効果を持つ

「占領法規論」
 占領中に作られたから無効というものである。もし有効であるなら、独立後、有効であることを宣言する必要があると主張する。しかし、占領中とはいえ、天皇は主権者であり、天皇は自らの意思で動いていた。そして天皇主権を否定した「新日本建設に関する詔書」を天皇は自分の意思によると表明している。この詔書により大日本帝国憲法は否定されて形式になり、その形式に従って日本国憲法が制定された。内容も手続きも正当であり、占領法規ではない

「八月革命説」
 宮沢俊義氏の考えである。ポツダム宣言受諾とともに革命が起きたというものだ。宮沢氏は革命の意味を取り違えている。革命は外国勢力ではなく国民が起こす現実のものだ。もし法的革命の意味であれば、観念論に過ぎない。日本政府は天皇主権を変更しないという条件でポツダム宣言を受諾している。そして宣言受諾後も天皇主権は維持され、日本政府は存在していた

 もし、ポツダム宣言受諾とともに極東委員会が支配していれば、事情は異なっていたであろう。しかし実際は、委員会が発足するまでの約6か月間、マッカーサー支配に委ねた。ここに空白が生じ、従来の学説では考えられない事態が出てきた。

 憲法の分類には①欽定憲法、②民定憲法、③君民協約憲法がある。①は君主が定めた憲法である。プロシア憲法や大日本帝国憲法がそれである。②は市民革命などにより国民の代表(議会または憲法制定会議)によってできた憲法である。③は君主と国民の合意によってできた憲法である。

 日本国憲法は分類上、君民協約憲法になる。ただし、実際は、天皇主導の君民協約憲法である。

 ポツダム宣言受諾後、天皇には3つの選択があった。①逃亡、②退位、③主権変更である。①の逃亡は第一次大戦後のドイツ皇帝に見られる。②退位であるが、終戦直後この話も出ている。しかし、天皇はその選択をしていない。天皇が選んだのは、③主権変更である

 天皇は戦前から「君臨すれども統治せず」というイギリス型の立憲君主制をモデルとしていた。天皇は1981年の記者会見で、政府の決定を尊重し、2・26事件と太平洋戦争の終結以外は自分の意思で決めていないと述べている。そうであるなら開戦の決断は天皇の意思ではない。よって①逃亡、②退位はありえない。

 しかし、天皇主権のもとでの立憲君主制は制度上不備がある。政府や軍部によってうまく利用される。意思決定をせず、責任だけ負わされる。つまり「君臨すれども統治せず。されど責任を負う」ということになる。確かに「君主無答責」と言われ、君主は責任を問われない。しかし、第一次世界大戦後、必ずしもそうではない。ドイツ皇帝は責任が問われた。実際はオランダに逃亡して、開廷されなかった。今回その危険性もある。

 そうであるなら、国民主権のもとでの天皇制しかあり得ない。天皇は敗戦により制度の変更を痛切に感じたのである。だから天皇自ら大日本帝国憲法を否定し、国民主権のもとでの天皇制への道を開いたのである。

 ところが政府は、天皇主権を維持することしか念頭にない。国民主権のもとでの天皇制即ち象徴天皇制があると考えることができなった。また戦前の天皇制を維持することの危険性に気づいていなかった。危険性とは何か。天皇の戦争責任である。事の本質に気づいていない

 それに気づいていたのがマッカーサーである。天皇を敬愛していたマッカーサーは、何とか天皇を護らなければならないと考えた。そのため極東委員会の成立前に憲法改正に着手し、その後速やかに国民主権に変更して天皇に戦争責任がないことを示さなければならなかった。天皇は戦前も戦後も意思決定者ではなかったことを示す必要があった。天皇の意思を理解していたのはマッカーサーのほうであった。

 天皇自ら、1946年1月1日、「新日本建設に関する詔書」で天皇主権を否定した。その時、大日本帝国憲法の根幹は崩壊し、形式だけになった。4月10日女性の参政権を認めた総選挙が行われた。4月17日憲法改正草案が公表される。この草案は国民主権に基くもので、天皇の意思を表現したものである。10月7日可決成立し、10月29日天皇により裁可され、11月3日公布された。国民は歓迎して支持した。よって日本国憲法は天皇主導の君民協約憲法である

(論文 終わり)

筆者感想(「戦争責任について」)

 戦争責任についてですが、特筆すべきは、外務大臣・広田弘毅です。戦争反対の努力をしながら、「黙して語らず」、東京裁判で処刑されました。他の政治家は自らを弁護しています。裏で工作して責任を免れた者もいます。第一次世界大戦終結後すぐ、マックス・ウェーバーは次のように述べています。

 「……結果に対する責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する……、測り知れない感動をうける……」(『職業としての政治』岩波文庫103頁)。

 広田弘毅はそのような政治家でした。結果責任を深く自覚しているのが本当の政治家です。

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「【IWJ特別寄稿】昭和天皇自ら天皇主権を否定し、大日本帝国憲法から日本国憲法へ橋渡しをした(近畿大学通信部短期大学・松永章生氏/憲法、社会保障法、生活保護法)」への3件のフィードバック

  1. 武尊 より:

    この考え方や時間軸検証は素晴らしいとは思うのですが、マッカーサーをアメリカ側の主体と考えるのは間違いだ、と思います。
    アメリカ政府は戦前から太平洋から西への覇権を目論んでいたのは間違いない筈です。その時に日本という国をどう扱うか研究していた筈です。そこに有ったのは天皇という存在をどうするかが一番の問題だったのではないでしょうか?日本という国が国民を含め全てと言ってもいいほど、国家存立を天皇に依存している事をアメリカは見抜いていた訳ですよね。それならば戦争を仕掛け、天皇を自分達でコントロール出来るようにすれば、自分達の思惑が成就すると考えるのは自然の成り行きでしょう。
    その先兵が敗戦時のマッカサーだっただけではないですか?
    この点から考えると松永章生氏は、少々マッカサーやアメリカの思惑を買い被り過ぎな様な気がします。他国が他国を支配するのにそんな情緒的な考えで行う訳が有りません。それも自国の兵や資金を犠牲にして成し遂げた事に措いてでは尚更だと思うのですが。
    確かに昭和天皇がマッカサーよりも先に現憲法の根幹を示したかも知れませんが、それはそうしなければならないように仕向けられた結果だったのではないでしょうか?私は押し付け憲法だ、などという破壊的考えには賛成しませんが、そういう方向に天皇が向かわされたのだと思います。
    この辺はアメリカという国の狡猾さを考慮しなければ駄目だと思いますね。

    1. 松永章生 より:

      武尊様
       コメント有難うございました。政治史的に言えば、武尊様の述べられたとおりです。アメリカの日本支配はペリーの来航で開始されました。ところが、アメリカにとっては不幸なことですが、日本にとっては幸いなことに南北戦争が起きました。アメリカは日本どころではなくなり、その隙をついて日本は明治維新を成し遂げることができました。
       さらに歴史を遡ると、ヨーロッパのアジア支配やアフリカ支配は絶対王政時代から始まっています。支配・被支配が歴史の現実です。第二次世界大戦もその延長上にあります。
       ポツダム宣言には日本の民主化が達成されたら連合国軍は撤退すると規定されていますが、米ソ対立という状況の変化で、米軍は居座り続け、現在に至っています。そして今、日本のTPP参加でアメリカの日本支配は限りなく完成しようとしています。
       これが歴史の現実です。しかし、法的にみると違ってきます。本論文は、日本国憲法が「押しつけ憲法」や「占領法規」でないことを示すものです。日本国憲法成立を法的にみるとどうであるかを論じるものです。それゆえ、アメリカの日本支配の歴史に遡るのではなく、ポツダム宣言受諾から論じることにしました。
      ポツダム宣言は天皇主権を変更しないという条件で日本は受け入れました。天皇も終戦の詔書で國體は維持しえたと述べています。天皇は主権者として存在していました。法理論的にみると、国民がどうかは問題ないのです。なぜなら、主権者は天皇であったから、天皇がポツダム宣言受諾をどう捉えたかが問題だったからです。
       マッカーサーの支配が始まった時、マッカーサーの思惑がどうであれ、法的効果はないのです。法的効果は主権者天皇の意思によって決まるのです。そして大切なことは天皇が自由意思で判断し、行動することができたかどうかです。日本の場合、直接統治のドイツと異なり、マッカーサーの間接統治でした。日本支配の権限をもつ極東委員会の繋ぎとしてマッカーサーが派遣されていたからです。そして、占領下の天皇の自由意思に関しては、独立後、天皇自身が自分で判断したと言っています。ここに、天皇の思惑が何であれ、法的にみると、天皇の発言に法的効果が出てくるのです。
       資料の扱い方で述べていますが、氷山の水面下には天皇の思惑があります。また、マッカーサーの意図もあります。天皇の思惑は戦争責任に関することでしょう。マッカーサーの思惑は日本支配をスムーズにいかせることでしょう。しかし、それらは政治的にみれば重要なことでしょうが、法的にみるとそうでもありません。法的には氷山の上部にある宣言や公的な会見が重要なのです。往々にして水面下にあるものは推測の域をでません。上部にあるものの方に法的効果がでるのです。これは国家間の関係でもよくみられます。水面下では利害が対立し、調整がなされますが、合意として宣言された場合、不満はあっても法的効果がでてくるのです。
       天皇は戦前からイギリス型の立憲君主制を理想とし、そのように行動してきたと言っています。2・26事件と終戦以外は自分の意思ではないと述べています。その背後にどのような思惑があったかどうかは法的には問題になりません。天皇が自由意思のもとで述べたことが法的効果をもつのです。
       しかし、天皇の理想は明治憲法下では遂げることができません。なぜなら軍の統帥権をもっていたからです。明治憲法のモデルとなったプロシア憲法のもとで、ドイツ皇帝は戦争責任を問われオランダに逃亡しました。天皇の理想はイギリス型の立憲君主制であったとしても明治憲法下では限界があるのです。天皇は自分の理想とする立憲君主制を実現するために自ら天皇主権を否定し、国民主権のもとでの象徴天皇制への道を開いたのです。
       これに対して、マッカーサーの押しつけという議論は成り立ちません。天皇の自由意思によって決断したからです。
       天皇の意図と天皇をうまく使って日本支配をスムーズに行うというマッカーサーの意図は見事に一致しました。ただし、これは政治的には意味があっても、法的にはあまり意味がないのです。この区別が大切です。法的に意味があるのは、自由意思のもとで天皇自ら「新日本建設に関する詔書」で天皇主権を否定したことです。さらに独立後、記者会見で「新日本建設に関する詔書」は自分の判断でおこなったと述べていることです。水面下に何があったかは推測にしかすぎません。水面上の主権者天皇の自由意思による宣言が法的効果をもつのです。
       以上のことから、明治憲法を否定し、国民主権のもとでの天皇制に橋渡しをしたのは天皇自身ということになります。日本国憲法はマッカーサーの押しつけでもないし、占領法規でもありません。
       だから、日本国憲法を変えて自主憲法を制定するという自民党の主張には何の根拠もありません。それどころか昭和天皇の意思を無視する行為になります。
         
      10月29日 松永章生

  2. sarabande より:

    この論考は、大変参考になりました。敗戦後の焼野原から、どう日本人が立ち上がるのか、日本国憲法が公布されるにいたるまでにあった、戦中から戦後にいたる主権移譲の流れの内実を把握しておくことは、特に今、非常に重要になっていると思います。戦後すぐの時は、日本を反共の砦とする米国の意図はなく、その時に、米国も含め、意外と理想的な方向での立憲国家の樹立が試みられ、昭和天皇の方向性と合流し、その置き土産が、今の日本国憲法なのだと思います。サンフランシスコ講和条約以降は、より日本のいわゆる岸を含む戦犯たちを巻き込んだ今にいたる軍略的謀略的な日米関係となっていきましたが、その前に焼け野原の中で成立していた熱い歴史的成果を、国家消滅の危機の中で持った日本人の初心として思い起こす必要があると思います。

    昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲
    http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20151031

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