山中恒・山中典子著『あたらしい戦争ってなんだろう?』 第三章「兵器が戦争を変える」(IWJウィークリー32号より) 2015.2.15

記事公開日:2015.2.16 テキスト
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◆第三章 兵器が戦争を変える◆

 アメリカは、「フセイン政権が大量破壊兵器をかくし持っている」ことを理由に、イラクを攻撃すべきだと主張してきました。

 その大量破壊兵器といわれるものの中には、毒ガス兵器や生物化学兵器もあるにちがいないと疑っていました。

 実際、フセイン政権はこれまでに毒ガス兵器を使用したことがありました。

 イラン・イラク戦争(一九七九年九月二二日~一九八八年八月二〇日)の末期に、イラク軍は反政府勢力のクルド人に対して毒ガスを使用したのです。

 毒ガス兵器は、戦闘員以外の一般民衆にまで被害をおよぼします。そのため、ハーグ条約によって禁じられている兵器ですから、この使用の事実は明らかに国際法に違反する行為でした。

 その後もフセイン政権は、毒ガス兵器を持ちつづけているのではないか、あるいはもっとおそろしい大量破壊兵器を開発しているのではないか、と疑われていました。たびたびの国連の査察に対しても非協力的な態度をとってきましたから、そのように疑われてもしかたのない部分はありました。

 アメリカの主張は、

 「フセイン政権は、大量破壊兵器をテロリスト集団にわたす危険な政権である。だから、イラクを攻撃して、フセイン政権をたおさなければならない」

 というものでした。

 しかし、考えてみると、そのような主張をするアメリカもまた、核兵器を持つ国です。そして、いま世界最強の軍事力を持つ国です。ハイテク新兵器を装備した特殊部隊、核兵器並の破壊力を持つといわれる爆弾モアブ、電磁波を利用した爆弾などを持っていることはよく知られています。

 アメリカが保存するこれらの兵器もまた、大量破壊兵器であることには変わりありません。アメリカは、これまでに核兵器を戦争で使用した唯一(ただ一つ)の国です。

 いずれにしても、このような大量破壊兵器を持つ国と、持つと疑われる国が戦争を始めてしまったのです。

 戦争は、国家と国家の武力による戦いです。言うまでもなく、「武力」は戦争の重要な要素です。国家が、いくら戦争をするという意思(戦意)を持っていても、武力を持っていなければ戦争はできません。

 ケンカをするばあいでも、素手よりも武器となる道具を持っていたほうが有利です。それと同じように戦争でも、敵国よりも高性能で強力な兵器を、大量に保有したほうが有利だといえます。

 戦争に勝つということは、敵国の戦力に打撃を加え、もうこれ以上戦争を続けることはできない状態に追いこみ、敗北を認めさせることです。そこまでしないと、戦争は終わらないのです。

 子どもどうしのケンカのように、ほどほどのところで仲直りしようというわけにはいきません。相手国に戦力と戦意があるかぎり、戦争は終わりません。

 だから、戦争に勝つためには、相手よりすぐれた兵器を持つことが必要となるのです。

 兵器には、敵をせめるための攻撃兵器と、敵の攻撃を防ぐための防御兵器があります。兵器は科学の進歩とともに進歩しますが、新しい攻撃兵器ができると、すぐに新しい防御兵器が開発されます。すると、その防御兵器を上回る攻撃兵器の開発がなされます。こうして、兵器の開発・改良は限りなく続けられてきました。

 人類は紀元前から戦争をくり返してきましたが、兵器の発達によって、戦争のやり方も大きく変わってきました。ここで、兵器の発達の歴史をふり返ってみましょう。

1 無煙火薬と爆薬

 火薬が兵器に使用されるまでは、世界中のどの民族も鎧・甲・楯で身を守り、刀・槍・弓矢を手に持って戦いました。刀・槍・弓矢の殺傷力や破壊力や粉砕力は「兵器」にはちがいありませんが、今から考えると、その殺傷力はたかが知れています。

 中世の戦争では、険しい山の上や深い川の近くに、石垣を高く積み、掘をめぐらして、難攻不落(せめられにくく、落とされにくい)の城を築きました。この時代の戦争は、城を落としたほうが勝者になりました。

 ところが、黒色火薬を使った銃が登場すると、戦争は大きく変わります。重い鎧はあまり役に立たなくなりました。銃や大砲などの飛び道具を持ったほうが戦争に勝つようになりました。

 黒色火薬は爆発すると黒煙が出るので、煙が消えるまでは敵をねらって弾をうつことができないという欠点がありました。無煙火薬は一八四六年に、綿火薬とニトログリセリンの発明によって実現されました。このニトログリセリンを珪藻土に吸わせたのがダイナマイト(一八六六年、ノーベルが発明)です。一九世紀の終わりごろ、煙の出ない無煙火薬を使った弾を連続してうつことが可能になりました。

 大砲の弾丸の中に入れる火薬を爆薬とか炸薬といいます。化学が発達すると、トロチールを利用したT・N・T火薬やピクリン酸を使った黄色薬を利用して、強力な爆発力をもったさまざまな爆弾ができました。

2 機関銃と鉄条網

 一八八四年、アメリカのマキシムが全自動式機関銃を発明しました。この機関銃は一分間に数百発という弾丸を連続してうてる兵器です。一人の人間が短い時間に、たくさんの人間を殺すことができるようになりました。

 日露戦争でロシア軍はこの機関銃を使いました。堅固な塹壕(戦場に溝をほって、土を敵側に積み上げたもの)で一人の兵士が機関銃を持って最後までがんばれば、一小隊でも一中隊でも全滅させることができました。そのために機関銃を持たない日本軍は悪戦苦闘し、大量の戦死者を出しました。

 第一次世界大戦では、主な交戦国軍(イギリス・フランス・フランス・ロシア・ドイツ)は、開戦当初から機関銃を多数使用しました。

 機関銃を持った兵士たちが、鉄条網と塹壕による強固な要塞(攻撃・防御のための建物)に立てこもって戦うようになると、それを突破するのは大変に難しくなります。少しばかりの砲撃では破壊できません。安易な歩兵隊の突撃は、無意味な全滅を招くだけです。

 より強い兵器と、より強固な要塞がそろうと、戦線は固定して動かない状態におちいります。兵隊は苦しい塹壕戦を戦うことになり、戦争が長期化することが多くなりました。

 そこで交戦国は、今度は機関銃や鉄条網に対抗するための新兵器を次次に戦場に登場させたのです。

3 火力兵器-重火砲の登場

 どの軍隊も機関銃を持つようになると、先に砲撃を加えて敵の機関銃をつぶし、安全を確保してから攻撃前進するしかありません。そのためには、敵国より多くの機関銃や爆弾が必要です。強力な火薬ができ、機械工業の発達とともに特に破壊力の強い重火砲を持つようになりました。これによって、敵よりも大きな砲弾を遠くまで、速くうてるようになりました。さまざまな用途に合わせて迫撃砲・野砲・長距離砲などが戦場に登場しました。

 戦場は草や木が一本も残らないほどの焼けこげた土地となり、大量の戦死者や負傷者を出すようになりました。

4 自動車――自動車の軍用化、装甲車・戦車の登場

 第一次世界大戦では、交戦国の軍隊は開戦当初から機関銃を使用しましたが、すぐに足りなくなりました。各交戦国は大量の機関銃や重火砲を生産したり輸入したりして、使えるかぎりの武器弾薬を使いました。

 開戦から四年目の一九一八年には、フランスのベルダン大要塞を攻撃したドイツ軍は、二週間でふつうの野砲の砲弾を約三百万発と、重砲百万発をうちました。消費した砲弾の総重量は十二万トンに達しました。フランス軍の野砲弾の一日当たりの消費量は二八万発、製造量は二二万発で、不足分は六万発でした。

 第一次世界大戦では、銃弾や砲弾などを、どうやって大量に補給するか、どのようにして速く戦場まで輸送するかが問題になりました。馬の力では、大量の兵隊や食糧や武器弾薬を輸送できません。鉄道は線路や鉄橋が破壊されると修理に時間がかかります。新しく鉄道をしくには資材や時間がかかります。

 そうなると、補給は自動車にたよるしかありません。
 
 補給手段として重要な役割を果たすことがわかると、自動車は戦争の必需品になりました。

 また、イギリスは自動車を軍用に使うために鋼鉄板で車体をおおった戦車や装甲車を開発しました。

 一九一六年九月一五日、イギリスはソンムの戦いで初めて戦車(タンク)を登場させました。鋼鉄板でできた戦車は、ドイツ軍による小機関銃の一斉射撃の中を突進し、鉄条網をおしたおして敵陣を攻撃しました。戦車という新兵器に負けて陣地を失ったドイツは、すぐに対戦車砲と戦車を造りました。敵の戦車をうちぬく歩兵砲を造り、敵よりも分厚い鋼鉄板で戦車を造りました。戦場で戦車対戦車の戦いが行われるようになりました。

 第一次世界大戦から軍隊の自動車化(機械化、機甲化)が進み、自動車がないと戦争はできなくなりました。

 自動車の動力源は石油です。自動車が戦争に欠かせないものになるとともに、戦争における石油の役割が大きくなってきたことも付け加えておきましょう。

5 飛行機の登場

 第一次世界大戦では、飛行機を初め、空中からの偵察(敵のようすをさぐること)に使用されました。

 やがて、飛行機に機関銃を組みこんだ戦闘機ができると空中戦が可能になりました。

 開戦三年目のベルダン戦から、戦闘機が編隊を組んで敵機を攻撃する戦闘様式が定着しました。

 飛行機の軍用価値が高まると、用途別に戦闘機、偵察機、爆撃機が開発され、ついにはドーバー海峡をわたってロンドンを空襲する双発動機の爆撃機が登場しました。

 このように飛行機から爆弾を投下し戦果を上げるようになると、戦争のやり方は大きく変わりました。攻撃目標に爆弾を投下する爆撃機は、強固な要塞や戦車や軍艦を爆破できます。軍用飛行機が活躍するようになると、戦闘は陸・海・空と立体的になり、戦闘空域は広範囲になりました。兵器の威力が増し、使用可能な範囲が拡大した結果、戦争は激しさを増し、悲惨で深刻な事態を招きました。

 一時代前の戦争は軍隊対軍隊の戦いで、戦場も比較的せまい範囲で限られていました。自動車の登場によって初めて、大量の軍隊を遠くの戦場に運ぶことが可能になりました。爆撃機の登場で、遠くから素早く戦場に爆弾を運び、空から広い範囲に攻撃ができるようになりました。

 こうなると戦争は、軍隊対敵国民の戦いになりました。武器を持っていない老人や女性や子どもも、空襲の被害を受けるようになったのです。

6 毒ガス兵器の出現

 第一次世界大戦が始まって二年目、一九一五年四月二二日、ベルギーのイープル(イーペル)戦線で、ドイツ軍はイギリス・フランス連合軍に対して初めて毒ガスを使用しました。このとき使用した塩素ガスで中毒にかかった者は一万五千人、そのうち死者は五、六千人と言われています。

 ドイツ軍は戦線が動きのとれなくなった状態で、思うように攻撃ができないジレンマから、試しに毒ガスを使ってみると、これが予想以上の効果を上げました。

 対するイギリス・フランス軍は、まだ毒ガス兵器からの防御のしかたを知らなかったので、大勢の兵隊がガス中毒で戦死したり、捕虜にされたりしました。

 イープルの戦いで毒ガス兵器は、動きのとれない戦線の状態を打開するための安上がりな新兵器であることが実証されました。染料や香料やソーダを製造する化学工業は簡単に毒ガスを造ることができるからです。ソーダを製造する過程で塩素ができ、染料や香料を製造する過程でフォスゲンができ、グリコールという染料の溶剤はイペリットに早変わりします。

 戦車や大砲や機関銃などを造る軍需工業は、原材料や設備や費用がいります。化学工業の製造工程を変えるだけで、簡単に安く製造できる毒ガスは化学兵器として脚光を浴び、交戦国は一斉に毒ガスの研究開発を進め、大量の毒ガスを使用しました。また、防毒マスクや防毒衣の使用と、解毒剤の研究は、第一次世界大戦から始まりました。

 しかし、毒ガスの使用はどうしても周囲の一般市民を巻きこんでしまいます。そのために第一回万国平和会議は、「毒ガスの禁止に関するハーグ宣言」―窒息せしむべきガスまたは有毒質のガスを散布するを唯一の目的とする投射物の使用を各自に禁止する―(一九〇〇年九月四日効力発生)が議定され、第二回万国平和会議では、「陸戦の法規慣例に関する条約」において、「毒または毒を施したる兵器を使用すること」を禁止しました。

 それなのに、第一次世界大戦の交戦国は毒ガスを大量に使用しました。交戦国は、毒ガスの使用が戦時国際法に違反することをわかっていました。殺人や放火は国内法の刑法で裁くことができますが、戦争中に国際法に違反しても、その戦争に勝てばその違反を裁かれることはありません。いったん戦争になったらとにかく勝つことだけがすべてになってしまうのです。

 第一次世界大戦が終わると、ジュネーブで、「毒ガス等の禁止に関する議定書」(窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書・一九二八年二月八日効力発生)を定めました。

 この議定書の中で、「この禁止が、諸国の良心及び行動を等しく拘束する国際法の一部として広く受諾されるために次のとおり宣言する」と述べています。これでわかるように、国家が、国際社会のルールである国際法の約束事を受け入れ、それをきちんと守るかどうかは、国家の「良心」に期待するというのです。

7 核兵器の登場

 第二次世界大戦の交戦国は、第一次世界大戦で使われた兵器をさらに進化させた強力破壊兵器を大量に使って戦争をしました。例えば、戦車の走行を不可能にするために、障害物を設置したり、対戦車地雷をまき散らしました。戦車を破壊するために対戦車砲が作られました。強固な塹壕や要塞をつぶすために火炎放射器を使用しました。

 太平洋戦争の末期、一九四五年になると、アメリカ軍は東京・大阪・名古屋・神戸など日本の主な都市を空襲しました。レーダーの軍事利用で、昼夜を問わず空爆できるようになりました。夜間の空襲は、一般市民に衝撃と恐怖と不安をあたえ、戦争をがんばろうという意欲を失わせ、戦争をいやがる気分を高める効果があります。

 日本の主な都市が空爆されて都市機能をうばわれました。それと同時に、多くの市民の生命と財産が焼きつくされました。幼い子どももたくさん死にました。けれども、日本の戦争指導者は、降伏(敗戦を認めて、敵に従うこと)はしない、最後の最後まで戦争を継続してアメリカ軍と日本本土決戦をやると決めました。

 そんな日本に連合国は降伏勧告(ポツダム宣言)をつきつけ、無条件降伏するようにせまりました。日本が降伏勧告を拒否すると、アメリカ軍は広島と長崎に原子爆弾を投下しました。それでも日本は無条件降伏をためらいました。

 アメリカ軍が三発目の原子爆弾を東京に投下するという情報が流れ、ソ連(旧ソビエト社会主義共和国連邦、現在のロシア独立国家共同体)が参戦して中国東北部(満州)で戦闘が起きると、日本はついにあきらめてポツダム宣言を受諾(受け入れること)して無条件降伏することを決めました。アメリカは、原爆という新兵器で衝撃と恐怖をあたえて、日本を降伏させたのです。

 核兵器のような大量破壊兵器の登場は、戦争を大きく変えたと言えるでしょう。

 兵器の目的は、敵国や敵国軍に確実に大損害をあたえることです。

 ところが、核兵器のように一度に何万人、何十万人もの人間を殺せる兵器となると、このような兵器を持っているというだけで、相手国に恐怖をあたえ、戦争を始める前から、戦意を失わせることができるようになったからです。

 現代の戦争では、核兵器やハイテク兵器を大量に持っている国が、圧倒的に有利な立場に立つことができます。

 二〇〇三年のイラク戦争でも、アメリカは軍事力の上では、圧倒的に有利な立場にありました。戦争前から多くの人は、アメリカが勝つことを予想しました。

 実際、戦争が始まると、アメリカはまずバグダッドに激しい空爆を加えました。これは、強大な軍事力を見せつけて、初めから勝てない相手と戦っているのだと思い知らせることで、イラク軍の戦う気力をなくし、投降をさそう作戦でした。この作戦は、「衝撃と恐怖をあたえる作戦」と呼ばれました。

(第4回に続く)
 
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