【IWJ検証レポート(その2)】113年の時を超えて届いた田中正造の「直訴状」 〜「足尾鉱毒事件」の跡をたどった天皇陛下の胸中を探る旅(記者:原佑介) 2014.9.22

記事公開日:2014.9.22取材地: テキスト動画
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(IWJ 原佑介)

(その1の続き)

 「『古河市兵衛が日本の経済を支えた裏には大きな公害問題が大あって、それを止めようと田中正造が人生を捧げた。足尾銅山にはそういった光と影の二面性があるんですよ』と、両陛下に説明しました」

 天皇、皇后両陛下が私的旅行で訪れた足尾環境学習センターのセンター長・鈴木聡さんはそう語る。両陛下が訪れた際、鈴木さんがセンター内を案内し、展示物や足尾銅山の歴史の説明にあたった。IWJの突然の取材依頼にも快く応じてくれた。

▲足尾環境学習センターのセンター長・鈴木聡

 「足尾銅山の歴史は古河市兵衛抜きに語れません。幕府の管理下にあった足尾銅山は、明治になって民間経営に移りましたが、明治10年(1887年)に古河が買い取り、経営を始めました。その後、3年はいい鉱脈が見つからなかったんですが、明治14年に大きな銅の鉱脈を発見したんです。古河鉱業が大きくなった最初の年です」

▲古河財閥創始者・古河市兵衛

 古河市兵衛と古河鉱業――。

 古河財閥の創始者であり、「銅山王」とも呼ばれた古河市兵衛。天保3年(1832年)、木村長右衛門の次男として京都に生まれ、幼名を巳之助といった。その後、叔父の手引きで小野組盛岡支配人・古河太郎左衛門の養子になり、市兵衛の名を与えられた。「小野組」とは当時の全国的な企業で、金融業、繊維商、米穀販売など手広く事業を展開していた。

 市兵衛は生糸貿易で手腕を振るったが、明治7年(1874年)に小野組が破産して以降、東京に「古川本店」を開設。渋沢栄一らの資金協力を得て、足尾銅山を中心とした鉱山経営を始めた。

 その古河鉱業は明治14年(1881年)以降、銅の産出量を倍々に増やし、大きく発展してゆく。

 足尾銅山での銅の生産量を調べてみると、明治13年に年間268トンだったのが明治14年に370トンになり、鉱脈を掘り当てたことで明治15年には737トンと倍増。このころ、ようやく古河鉱業の収支が採れ始めるようになった。と同時に、工場から出る鉱毒によって渡良瀬川からは魚の姿が消え始める。

 さらに明治16年には1671トン、明治17年には3411トン、明治18年には5250トンと倍増し続け、明治23年には、年間7589トンを生産するにまで至った。

 足尾銅山は、東アジア最大の銅の産地にまで発展した。

 「しかし発展の裏では、『公害の原点』が発生してしまった」と鈴木さんは語る。

 「特に渡良瀬川の下流地域の人たちには大変な被害をもたらせてしまったんです」

足尾銅山が担った「国策」

 足尾銅山から廃棄される鉱毒が渡良瀬川の魚を死に絶えさせ、渡良瀬川沿岸地域の田畑を荒廃させ、住民の健康被害を引き起こした。そんな公害の原点、「足尾鉱毒事件」は、なぜ防げなかったのだろうか。

 「足尾銅山も公害を出そう、と思ってやっているわけではない。ただ、銅を掘ることは、足尾銅山の問題だけではありません。明治から大正、昭和、戦後にかけて、銅は、『国の経済を支える』という大きな役割を担っていました。足尾銅山は銅の産出量日本1位で、日本全体の4分の1をも占めていました。これを止めると日本経済は大変なことになるわけです」

 当時の日本は明治維新を経たばかりで、開国して間もなかった。世界の列強国と肩を並べようと必死だった日本は、「富国強兵」を掲げ、領土拡大、植民地の拡充に突き進んだ。

 そんな時代にあって、銅の生産は、絹に並ぶ「外貨を稼ぐための重要な産業」として位置づけられていたのである。

 鈴木さんは、足尾銅山の開発が単なる私企業の営利活動にとどまらず、「国策」という側面があった、と展開する。

 「銅は生活に必要なものです。ただし、銅だけでは生活ができない。当時は『銅を輸出することで外貨を獲得する』という大きな目的がありました。そうして得たお金で、今度は外国から『鉄』を買う。鉄も必要なものです。橋を作るにも鉄がいるし、やはり戦争時代となると『戦艦』や『弾作り』で鉄が必要になります。ということで『どんどん足尾銅山から掘ってください』と国から言われる。これは一つの『国策』なんです」

 決して「足尾銅山からの公害はどうでもいい」ということで掘ったのではなく、日本経済の支柱ともいえる事業の裏で、結果的に公害が出てしまった。当時は、公害を止めるだけの技術も進んでいなかった。鈴木さんはそう説明する。

 鉱毒を出したくて出しているわけではないが、時代背景も手伝って、止めようにも止められない――。

 しかし、国が本腰を入れれば「被害民を避難させる」「国が被害民へ保障を行う」といった対応も取れたはずだが、なぜそうしなかったのか。どうやら、国と古河鉱業の間にあった「癒着」が関係していたと思われる。

「公害」を支えた政治的背景

 明治憲法では、基本的人権については、現行憲法より不十分なものではあっても、「天皇から与えられた権利」として「臣民(天皇の臣下としての国民という意味)の人権が一応は保障されており、また、日本坑法、鉱業条例では、「鉱業の公害に害ある場合は、農商務大臣はこれを停止させることができる」とも定められていた。田中正造は国会質問で、この2点を根拠に古河鉱業の足尾銅山開発中止、被害民の救済を繰り返し迫った。

 当時の農商務大臣は陸奥宗光。幕末期はあの坂本龍馬の作った海援隊の一員として働き、「刀を二本差さなくても食っていけるのは、おれと陸奥だけだ」と坂本龍馬にその才能を認められていたという人物だ。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や大河ドラマ「龍馬伝」をみていれば、必ず知っている名である。

▲陸奥宗光農商務大臣(田中正造記念館より)

 田中正造の質問に対する陸奥農商務大臣の答弁は、「確かに、渡良瀬川に被害はあるが、それが足尾銅山の鉱毒によるものかは断定できない」というものだった。因果関係が認められない、よって、農商務大臣の停止権限も発動しない、ということである。

 足尾銅山は富国強兵策の要である。国としては、鉱毒と住民の健康被害との因果関係を認めるわけにはいかない。この点も何やら現在の日本における原発に重なりあう。しかし、因果関係を認めないのは、「国策」だから、というだけではなさそうだ。陸奥農商務大臣が自身の息子・潤吉を古河市兵衛の養子に出していたことも無関係ではないだろう。

 潤吉は古河市兵衛の死後、二代目社長に就任している。銅が富国強兵の要であるだけではなく、事業者が政府要人の身内であれば、国が厳格に取り締まることなどできるわけがない。

 そして潤吉社長が副社長に抜擢したのが、原敬内務大臣である。田中正造の生涯を紐解くと、僕でも知っている「有名人」の名前がずらりと登場する。

▲原敬内務大臣(田中正造記念館より)

 内務大臣は当時、事実上の「副総理」とみなされており、文部省、大蔵省、司法省を除くすべての内政におよぶ広範な権限があった。(後に詳しく述べるが)渡良瀬川を襲った鉱毒問題はやがて、「洪水防止」という「治水問題」にすり替えられてしまう。

 その煽りを受け、渡良瀬川下流にある「谷中村」という村が「貯水地」になることを余儀なくされ、村そのものが消されてしまうことになるのだが、明治40年1月26日、「土地収用法」の適用認定を公告することで「Goサイン」を出したのが、原敬内務大臣なのである。

 のちに首相となる原敬は、武士階級出身者が並ぶなかで史上初めて「市民」出身者として頂点にのぼりつめた政治家。「平民宰相」と呼ばれ、親しまれる。戦前の民主主義のシンボルのように扱われる存在だが、鉱毒問題をダムの底に沈めてしまおうとした明治政府の責任者なのである。

 原敬は、なんと足尾銅山の副社長を務めたことがあった。「平民」出身というのも、20歳の時に分家して戸主となって市民籍に入ったためで、盛岡藩(岩手県)の藩士の家系出身。爵位を固辞したため、「平民宰相」の呼び名が定着したらしい。

 いかに鉱毒問題が深刻の度合いを深めようと、足尾銅山の銅製錬所は止まることがなかった。

 因果関係があろうとなかろうと、銅を掘ることはやめない。やめるくらいであれば、村を一つ潰してしまえばいい――。

 富国強兵という国の命題とともに、古河鉱業と権力者の間には紛れもない癒着が存在していたのだった。

禿げ山を眺めた天皇陛下の思い

 「公害の原点」に襲われたのは、渡良瀬川下流地域だけではない。地元・足尾も同じく被害に遭っていた。こちらは「煙害」である。銅の精製過程で発生する「亜硫酸ガス」を含んだ煙が、足尾の山を荒廃させた。

(その3へ続く)【IWJ検証レポート〈その3〉】113年の時を超えて届いた田中正造の「直訴状」 〜「足尾鉱毒事件」の跡をたどった天皇陛下の胸中を探る旅(記者:原佑介) 2014.9.23

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  1. miyamoto より:

    足尾鉱毒事件のレポート、興味深く読ませていただいています。
    僕も、あの日以来の福島からの帰りに、何度か田中正造ゆかりの地
    (渡良瀬川、足尾、佐野等々)を通り過ぎ、いつか、その史跡を巡って
    みたいと思っていたからです。
    田中正造に関する本も、震災以来何冊か読みました。谷中村から、
    北海道のサロマ湖の方に移住された方々の「栃木」集落のことも知り
    ました。栃木出身の故・立松和平さんの小説も。
    国策という、冷徹な論理でいかに多くの人々が、その人生を狂わされ、
    自然環境が破壊されてきたか、例を挙げれば枚挙に暇がありません。
    今回の東電による原発事故は、まさにその政業合作の象徴でしょうが、
    福島や周辺の地域の人たちにとっては、現実、そしてこれからも続く難題
    をかかえながら生きていかなければならないのですよね。
    僕も最近、旅先で国策によって翻弄された人たちの足跡をたどったりしています。
    野添憲治さんの本を頼りに、朝鮮や中国からの強制連行労働者のゆかりの
    地を訪ねたり、森村誠一さんの『笹の墓標』を読んで、北海道の朱鞠内に
    行ったり。今年の初夏、北海道の夕張と日高・二風谷を訪ね、夕張では、
    中国人と朝鮮人の炭鉱での犠牲者の墓を、二風谷では、アイヌの資料館
    を訪れ、アイヌの女性の方と少しお話をさせていただきました。
    夕張は、言わずとしれた国策変更によって翻弄された街であり、二風谷も
    ダム建設訴訟が行われた所です。先ごろ、札幌の自民党市議が、「アイヌ
    はもういない」などと言うとんでもない発言をしましたが、二風谷でお会い
    したアイヌの女性は、現在行われている、アイヌ文化への国の振興策に
    ついて、懸念を話されました。「東京オリンピックまでは、表向き振興策を
    行うかもしれないが、その後はどうなるか」と。国の都合でどうにでも変わる
    ことは、過去の歴史を見てくれば、明らかでしょう。足尾しかり、戦争しかり、
    水俣、薬害エイズ、今回の福島も!「政府は必ず嘘をつく」堤未果さんの
    本の題名の通りだと思います。
    これからも、このような企画を楽しみにしております。お疲れ様でした。

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