ウクライナ大統領がイギリス首相に「侵入したロシア軍装甲車両を撃破した!」と――「報道」
あの騒ぎはいったい何だったのだろうか――
内戦の続くウクライナ東部では、死者は2千人を超え、ガザと同じ一般市民が多数巻き添えになっている。避難民の数はすでに70万人を超えた。一大惨事である。
ルガンスクやドネツクなどの現地では、水道も電気も通らなくなり、ライフラインが破壊され、食料も水も医薬品も欠乏している。ロシアは8月12日、ウクライナ東部の市民向けに、食料や医薬品を載せた約280台のトラックで構成する人道支援団を送ろうとした。
ところが、この人道支援のトラックの中に、兵士が隠れている、武器が積み込まれている、とウクライナと欧米諸国が非難の大合唱を浴びせた。人道的な侵略だ、という大仰な中傷も投げつけられた。人道支援の白いトラックの車列が国境に近づくにつれ、合唱は金切り声まじりとなり、緊張は最大限にまで高まった。
その車列がウクライナの国境近くでとどめおかれている時、「事件」は起きた。
日本では終戦記念日にあたる8月15日、ウクライナのポロシェンコ大統領が、「ロシア軍の装甲車両が国境を越えてウクライナに侵入した!」と公式に発表したのだ。
「ついに、ロシア軍が国境を侵犯した!」というしらせは、またたくまに全世界を駆け巡り、衝撃を与えた。さらにポロシェンコ大統領は、イギリスのキャメロン首相との電話会談の中で「多くはウクライナ軍によって破壊された」と述べ、越境したロシア軍の装甲車両はウクライナ軍に撃破されたと発表した。
日本の大手メディアも、ポロシェンコ大統領の発表を大々的に報じた。(2014/8/16 朝日新聞「ウクライナ『ロシア軍の装甲車が侵入』ロシアは否定、2014/8/16 読売新聞「ウクライナ、領内入った露軍車列攻撃…露は否定」)
ところが、である。このポロシェンコ大統領の発言について、ロシア側はあっさりと否定した。
ロシア軍の国境侵犯自体、事実ではない。まして、戦闘など起きていない。装甲車両が撃破された事実もまったくない、というのである。全否定である。
これはどういうことなのか、そんなバカな、という他はない。
仮にも一国の元首たるポロシェンコ大統領自らが、ロシア軍はたしかに「国境侵犯」してウクライナ領内に侵入し、我がウクライナ軍はこれを撃破した、と、イギリスの首相を相手に戦果を「報告」したのである。
スパイがこっそり侵入した、とか、しない、といった話であれば、言い分が対立することもありえるだろう。しかし、正規軍の戦闘があった、という事実に関して、真偽の対立の余地などあるはずがない。一方があった、と主張し、他方はなかった、と主張する。これはどういうことか。
しかしその後、この件に関して続報が8月末にさしかかる今も行なわれていない。ポロシェンコ大統領からは、ロシア軍が侵入し、戦闘が行われた証拠を示されることもなかった。この件について、米政府もだんまりを決め込んだ。世界中の政府とメディアが追随し、同様に素知らぬ顔をして、何事もなかったようにふるまっている。
いったい、この「から騒ぎ」と、それに続く「だんまり」は何なのか。
ロシア軍の「国境侵犯」が事実なら、第3次大戦へエスカレートする可能性すらありうる
この一報を聞いた時、これは大変なことになったと、誰もが青ざめたはずだ。
キエフ政権と欧米は、ロシアがレッドラインを踏み越えるのを、ずっと待ち構えていた。
米国はキエフ政権に武器を与え、資金を提供し、欧州各国政府に「ロシアが侵略してくる。戦争の準備をしろ。国防費を引き上げろ」とたきつけ続けてきた。NATOは実際に兵力を動かしていたし、もしロシア軍が国境侵犯したなら、それはウクライナ軍とロシア軍の間の二国間戦争にとどまらず、NATOもただちに介入し、たちまち欧州大戦へと拡大することを意味していた。
ユーラシア中央部での大戦は、他の地域のそれぞれの同盟国をも巻き込んでゆくはずだ。極東にも飛び火するだろう。中東は今でも火の海だ。いずれにしても、第3次大戦へのエスカレーションは必至だろう。
ロシア軍の「国境侵犯」は、それほどの大事件のはずだ。そもそも、ロシア軍の行ったことは、ヒトラー率いるナチス・ドイツが隣国ポーランドに仕掛けた電撃作戦に匹敵するはずなのだ。ヒラリー・クリントンはじめ、西側の要人たちはプーチンをヒトラーに見立ててきたのだから。
そのロシアの満を持した第一撃を、ウクライナが撃破した、というのも驚きだ。ウクライナ軍がそんなに精強であると、世界中の誰も知らないからである。これは二重に驚きで、一大ニュースのはずだ。
それが、なしのつぶてとは、どういうことか?
装甲車両が人目につかない山の中の獣道をこっそり越えることなどできるわけがない。装甲車両が通過するとすれば公道以外にありえないのであり、公道の国境には必ず検問所があり、歩哨も立っているはずだ。
なぜ、西側の記者「だけ」がたまたま目撃したのか? 目撃の証拠も、撃破の証拠も、なぜ何も出てこないのか? どうして誰もそれを不思議に思わず、追及もしないのか?
英紙ガーディアンと英紙テレグラフの「スクープ!?」
この「から騒ぎ」をふりかえってみよう。
事の発端は、英紙による「スクープ」だった。
8月15日付の英紙「ガーディアン」と、8月14日付の英紙「テレグラフ」は、ロシア軍のものと思われる車両が、14日の夜にウクライナ領に侵入したと報じた。
「ガーディアン」紙の記者が、14日、23両の装甲人員輸送車と、ロシア軍の公式プレートがつけられた他の兵站用車両などからなる隊列を、ロシア南部ドネツク付近の高速道路上で目撃。この隊列が夜間に、国境フェンスの間を通り抜けたという。
また、「テレグラフ」紙は、西側諸国により、ウクライナ東部を拠点とする分離派に対して、ロシアから武器や人員の供与があったとされてきたが、ジャーナリストによる目撃証言はこれまでなかったと指摘。「今回の報道が初めてのものになる」としている。
これまでキエフ政権と欧米各国政府は、ロシア政府に対し、東ウクライナの親ロシア派に対して武器供与を行っているとさんざんに非難し、それをロシアに対する大規模な経済制裁を実施する根拠にもあげてきた。ところが、ロシア軍が実際に国境を超えるのを見た、という目撃証言があらわれたのは、これが最初である、というのだ。
要するに、これまでは確実な証言や証拠のない噂や憶測にすぎなかった、ということである。しかし、今度は違う、これまでは憶測だったかもしれないが、今度はたしかに目撃者がいるぞ、というのである。しかも西側の名だたるメディアの記者だ。間違いない、と。
これまで、ウクライナに侵入する未確認ロシア軍部隊の話は、まるでツチノコとか、ネッシーとか、UFOのようなレベルで何度も繰り返し語られてきた。そんな不確かな情報のために、世界が「第2の冷戦へ突入か!?」と騒ぎ、東ウクライナ一帯では、キエフ政権が、自国民を殺戮し続けるのを正当化する理由にさえされてきたのである。「ロシアの脅威」があるからと。
いずれにしても、これまでは都市伝説かSF的空想の領域の話に過ぎなかった情報が、英紙の「スクープ」によって、ついに現実に確かめられた、というわけである。
ウクライナのポロシェンコ大統領は、この情報を「信頼できるもの」と、早々に断言。それどころか、15日の英キャメロン首相との電話会談の中で、侵入した装甲車両の大半はウクライナ軍砲兵隊により「破壊」されたと戦果について語った。
またポロシェンコ大統領は、「ロシアの武器や車両のウクライナ東部への流入が続いているという事実」に懸念を示したという。「撃破」したあとも、さらに「侵入」は続いている、というのである。
- 2014/8/15 Press office of President (Ukraine)「President of Ukraine and Prime Minister of Great Britain discussed international efforts on the settlement of the conflict in the Donbas」(記事削除)
英紙の「スクープ」、そしてポロシェンコ大統領の発言と呼応するかのように、NATOのラスムセン事務総長は15日、ロシアによるウクライナへの「侵入(incursion)」が、前日夜にあったと発表した。ラスムセン事務総長は、これは、ロシアから東部ウクライナへの、武器と戦闘員の継続的な流入を証拠づけるものであり、同地域の不安定化へのロシアの関与を明確に例証するものだと述べたのだ。
もっとも、ラスムセン事務総長は、物的証拠を示したわけではない。話だけである。そうであっても、今回は英紙記者の目撃、大統領の発表と相まって、ロシア軍の侵入、今度こそ間違いなし、という空気づくりに一役買った。
目撃情報だけなら、見失った、という結末もありえるかもしれない。
しかし、ウクライナの大統領が砲撃によって破壊したと、他国の首相にわざわざ電話をかけて「報告」までしているのである。砲撃されたロシア側も、応戦したことだろう。ウクライナ軍に被害はなかったのか。仮に一撃でロシア軍部隊が殲滅されたとして、では、その地点はどこなのか。現場には、装甲車両の残骸やロシア軍兵士の遺骸が散乱しているであろう。その現場写真は、かねてより大声で喧伝されてきた、ロシアによる「侵略」のまたとない証拠となるはずだ。
ところが、その後、ウクライナ政府もウクライナ軍も、まったく証拠を示そうとしない。現場がどこかも明らかにされないし、現場の写真も公開されない。交戦したウクライナ軍の部隊についても明らかにならない。一緒になって騒いだNATOの事務総長も、この「事件」をすっかり忘れたかのようである。
ロシア軍の侵入は「幻影」に過ぎない、という痛烈な反論
これに対し、ロシア側は、真っ向から「侵入」の噂を否定してきた。ロシア国防省のイーゴリ・コナシェンコフ報道官は15日、ロシア軍の侵入は「幻影」だとし、昼夜に関わらず、ロシア軍の隊列がロシア・ウクライナ国境を越えた事実はないとロシア・メディアに語った。
つまり、「ガーディアン」紙と「テレグラフ」紙の記者たちは、「幻影」を目撃して記事にしたのであり、その「幻影」をウクライナ軍は砲撃して破壊した、と思い込み、大統領までが、「幻影」の破壊について公式に語った、というのである。真夏の怪談のような話ではないか。
ロシア連邦保安庁も「侵入」を否定している。国境付近には国境警備隊が配置されているが、それはロシア領内に限ってのことだ、とロストフ州地域の国境警備隊の報道官は、「ロシア・トゥデイ」に話した。
さらにこの報道官によれば、ウクライナ側から継続的な砲撃が繰り返され、ウクライナ軍による集団的な越境行為が増えているために、ロシア側は警備の基準を引き上げたという。国境を侵犯して挑発を行っているのは、ウクライナの方だということになる。
このような中、ロシア外相のラブロフ氏と、ウクライナ外相のクリムキン氏は15日電話で会談をし、ロシアによるウクライナ東部への人道支援に関する議論を続けた。クリムキン氏によれば、ベルリンで、フランス、ドイツを交えて、ロシア外相ラブロフ氏との会談をおこなうことが決まったという。
株式市場への影響と市場が下した「判断」
幻影であったか、実在であったかはともかく、ロシア軍の装甲車両が「破壊」された、というニュースが世界を駆け巡ると、株式市場は一斉に反応した。
実は、この「国境侵犯事件」の起こった8月15日の、その前日の14日、プーチン露大統領はクリミア半島のヤルタで、主要閣僚と下院議員を前に演説を行っており、その内容に世界中の市場が好感していた。
プーチン大統領は「(ウクライナの)南東部で大きな人道上の危機が起きている」と発言。「(ウクライナは)残忍な混沌、同胞同士が相争う状態にある」との認識を示し、ロシア政府として紛争停止のための取り組みを約束した。
プーチン大統領の演説は、西側メディアを通じて、「ロシアは戦争を望んでいない」というメッセージとして伝わった。
「我々は、威厳とともに、冷静に、そして効果的に、我々の国を作らなければならない。外側の世界に背をむけてはならない。我々は一体となり結集する必要がある。しかし、それは戦争のためでもないし、あらゆる意味において対立のためでもない」
市場には、このプーチンのクリミア演説を受けて、緊張の続いてきたウクライナ情勢が好転するとの見方が広がった。14日のロンドン市場は、総合株価指数.FTSEが28.58ポイント(0.43%)高の6685.26まで上昇。企業決算が期待外れだった米国でも、ダウ、S&P、ナスダックの主要3指数の全てが引き続き続伸した。日本の株式市場は膠着感があったものの、日経平均株価の15日終値は、前日終値より比べ3円77銭高い15318円34銭だった。
しかし、クリミア演説への「好感」を、「国境侵犯」と「破壊」のしらせが打ち消した。
翌日、ウクライナによる「ロシア軍車両の破壊」のニュースが駆け巡ると、15日の欧州株式市場では、取引終了にかけて一週間の上昇分が一気に吹き飛んだ。また、EU(欧州連合)に比べ、ロシアとの経済的結びつきが少ないとされる英国でも、ロンドン市場は引けにかけて当日の上昇分を失った。
当然、米国市場も「破壊」のニュースに敏感に反応した。
ところが、興味深いのは、「破壊」の裏づけがなかなか出されないとなると、一転して上昇に転じはじめたことだ。主要指標のうち、S&Pは下げ幅を前日比0.7%にまで広げていた場面もあったが、結局0.01%安まで戻した。ダウは前日比0.3%の下落。それぞれこの日の安値から回復した格好だ。ナスダックは最終的に0.27%の上昇となった。
英紙が目撃したとする侵入車両を、ウクライナ軍が本当に破壊したのかについては、いまだに事実が確認されていない。仮に破壊された車両があったとしても、それがロシア軍のものであるかも、証拠の示されていない現在、真偽はいまだに不明だ。もちろん、砲撃による「破壊」どころか、「侵入」の情報自体も、事実ではない可能性すらある。ウクライナ政府も、最初の目撃情報をまいた英紙も、NATOすらも、何も証拠を示さないので、真偽の確認のしようがないからだ。
ところが、事実の確認が宙ぶらりんになっている間に、市場はさっさと事態を見きわめ、「判断」をくだしていく。「国境侵犯と撃破」の情報はたいしたことはない。あるいはガセか、飛ばしかもしれない、と。
(この稿続く)
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