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(取材・文:原佑介)
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四代などを取材して歩いた翌18日の午前10時、私は上関町の室津漁港にいた。祝島へ渡るフェリーに乗るためだ。
室津半島の主要漁港と祝島を海路で結ぶ定期便は、1日3往復出ている。私が乗った便の乗客は約10人。船には、内陸部から祝島へ運び入れる物資や郵便物が積み込まれていた。船のスピードが出ていたせいか、船が波で揺られるたびに、海がまるで硬くなったかのように感じた。この日の天気は霧雨混じりで、フェリーから見える祝島はぼんやりと霞がかって見えた。
山口県熊毛郡上関町・祝島――この島は、上関原発の建設予定地である田ノ浦から、海を挟んで約3.5キロの地点に位置する。島全体に300mを超す山々が連なっており、平地は少なく、集落は北東側の一区画に密集している。昔から瀬戸内海の要所として知られ、海の安全を見守る「神の島」として崇められてきたという。特産品は新鮮な魚介類で、なかでも祝島の漁師は、魚の鮮度がもっとも保てる「一本釣り」をすることで有名だ。ほかにも石豆腐や無農薬のビワ、ヨモギなどの名産がある。
祝島の住民の多くは、上関原発の建設に反対している。建設予定候補地として「上関」の名が上がってから今日まで、30年以上にもわたって原発に反対するデモを続けている。このデモは、毎週月曜日の夕方に行われており、「原発反対」「きれいな海を守ろう」などのかけ声とともに祝島の集落を練り歩くもので、これまで計1150回以上も行われてきた。
2009年9月からは、原発建設予定地の埋め立てを行うためにやってくる作業台船の作業を阻止するために、有志数名がカヤックに乗り、その行く手を阻んだ。彼らは「虹のカヤック隊」と呼ばれ、これまでに何度も中国電力による埋め立て工事を阻止してきた。
しかし2009年12月、中国電力は工事を邪魔されたとして、祝島の島民2人とカヤッカー2人に対し約4800万円の損害賠償を求めて提訴。典型的なスラップ訴訟であるとの批判を浴びながら、現在も裁判が続いている。
祝島行きのフェリーは途中、上関港、蒲井港、そして前日訪れた四代港に寄り、約40分ほどで祝島に到着した。傘なしで歩くには少し厳しいほどの雨が降り始めたので、漁港からすぐに看板が見えた喫茶店「わた家」に避難することにした。
「わた家」の扉をくぐると、店主と思われる女性がキッチンで料理の仕込みをしていた。私のほかに客はいない。このお店が原発に反対しているであろうことは、入るなりわかった。
お土産用の祝島の手ぬぐいやどんぐりの飾り物とともに、鎌仲ひとみ監督作品「ミツバチの羽音と地球の回転」のDVDや、山秋 真(著)『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)』、 那須圭子 (著)『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録(創史社)』などが棚にずらりと並び、販売されていたからだ。
席にお茶が運ばれてきた。ほうじ茶に近いような茶色だったが、飲みなれない香りと味である。「めずらしい味ですね」と聞いてみる。祝島の特産品である「びわ」の葉を原料にした「びわ茶」だそうだ。店主の女性の名前は綿村さん。町の人にはトモちゃん、と呼ばれているという。
単刀直入に、「原発には反対ですか?」と聞くと、「もちろ~ん」との返事が返ってきた。「そんなの当たり前です」といった調子だ。
――祝島も、四代などのように過疎化・高齢化が進んでいると聞いていますが、なぜ、祝島の皆さんは、原発に反対し続けることができるんでしょうか?
「なんででしょうかね。人と人との繋がりですかねぇ。例えば、島にはみんなの孫や子どもが毎年帰ってきていますが、この環境をずっと残そうと思ったら原発なんていらないでしょう。最近思ったりするのが、多くの人が、先祖や子孫に対する愛情が希薄、っていうこと。
祝島では、夏になると各家庭に子や孫が里帰りして、とても賑やかになるんです。それぞれ5人帰ってきたら、町が5倍になる。仲のいい記者さんが言うには、そういう里帰りみたいなことが四代にはないみたいですねぇ」
――なぜ祝島には定期的にみなさんが帰ってくるのでしょう。
「魅力があるからじゃないですかねぇ(笑)」
びわ茶に満足してしまって、まだ何もオーダーしていないことに気づき、慌ててホットコーヒーを注文した。綿村さんは「多分、祝島の人口はこのまま減り続ける」と言いつつも、最近はUターンやIターンによって30人以上の若者が増えたことを教えてくれた。
つい4〜5年前まで、祝島に飲食店は一つもなかったそうだ。「わた家」がオープンして今年で4年目。そして、それより一足先に「小岩井食堂」という食堂がオープンしている。そして今年の1月、新たに中華料理屋ができたのだという。
綿村さんは、母親の介護のため、広島から祝島にUターンしてきた。つきっきりで看病しなければならないような状態ではなかったため、戻ってきてからすぐに飲食店を始めようと思いついたのだそうだ。地元の人たちは、「わた家」のオープンを喜んでいるという。
「お年寄りの方たちにとって、こういう喫茶店は懐かしいようなの。その人たちが生まれた頃までは祝島も人口が多くて、お店もいっぱいあったんですよ。私が幼い頃には名残がありましたもん。商店街があって、お祭りになれば金魚すくいとかが出て。楽しかった」
綿村さんは、当時を懐かしそうに振り返る。
――なぜお店がなくなっていったのでしょうか。
「みんな外に出て行くから。高校に行こうと思えば島を出るしかない。そして外で就職して、そこに居付いてしまう。ここは現金収入が少ないから、子どもに高学歴になってもらおうと思ったら、稼ぎに出なければいけなくてね。昔から出稼ぎの習慣はありました。海や山で仕事しながら出稼ぎもする、っていうふうに育ててもらいました」
綿村さんによると、祝島は四季折々、様々なものが収穫できるという。今の時期はひじきやわかめ、あおさ。春になれば、びわ。そのあとにはウニが獲れ、夏休みになれば子や孫が帰ってきてみんな忙しくなる。秋になればびわの葉っぱを取ってお茶の準備をし、みかんの出荷も始まる。みかんのあとは橙(だいだい)で、その次は八朔(はっさく)、八朔の次は伊予柑――といった具合だ。
「農家でも半農半漁でも、一年中、やることは山積みなんです。なので、祝島では、贅沢しようと思わなければ、基本、生きていける。おじいちゃんおばあちゃんたちは、みんな、こうやって生活しながら、30年間、田ノ浦の原発建設反対運動に出たり、デモをしたりしているんです。もう、足も悪くなってデモにも出られない人もいます。でも、みんなそうやって頑張ってきたの」
綿村さんがインタビューに答えながら手を動かして仕込んでいるのは、今日の「学校ランチ」用の、「石豆腐のメンチカツ」だという。給食センターがないため、綿村さんが喫茶店を営業しつつ、祝島小学校の生徒3人と先生の分の給食を作って卸しているのだ。
コーヒーを飲みながらインタビューをしていると、長周新聞という新聞を持った漁師の男性が店に入ってきた。新聞を一部、綿村さんに手渡す。トップは福島の除染に関する記事だ。漁師の男性は、「酷い話だよね」と紙面について話しながら、同じくコーヒーを注文した。原発問題に関心があるようだ。話題は14日に発生した地震の話に移った。その男性が地震が起きた日を振り返る。
「最初は南海トラフが『ズッた』かな、と思った。結構揺れたもんなぁ。ギシギシ言いよったけぇ、伊方あたりは気色悪かったろう。あの辺りはマグニチュード8クラスの断層があるみたいよねぇ。こっちにも伸びとるらしい。あれが連動したら結構いくよ。
最初、『ドォォォン』って言いよるから、雷でも落ちたんかなと思って。それから『ゴォォォ』ときてね、風が出てきたのかと思ったら『ゴソゴソゴソー』っと揺れて。下から持ち上げられたけぇね。そんで慌てて壁押さえたんよ。みんなに笑われたけど(笑)」
綿村さんも地震で飛び起きたというが、「意外に大丈夫だった」とのこと。お店の食器が棚から落ちて割れるような被害もなく、祝島では怪我人も出なかった。
漁師の男性いわく、この町の魅力は「のんびりしたところ」だという。海と山に囲まれた静かな島で、のどかな時間を過ごす。そんな島の向こう岸に、はっきりと見えるかたちで原発ができるとなると、よそ者の私からしてみても不自然に思うし、違和感を感じる。漁師の男性も、当然のように上関原発の建設に反対だ。
「今までずっと、おじいさんから親父、で、今度はわしの代になったんじゃけどね。ずっと昔から海を大事にしろと教わってるしね。一時金を貰ろうたとしても、それでええことは何にもないよね。使ったらそれまでじゃ。それだったら、今までの海を大事に使えば、そのくらいなんぼでも稼いでいける。
もうお金ばっかりの時代は終わったよ。お金がなくても自然から恵まれたものさえあれば食べていけるもん。お金は少しあればいい」
(…会員ページにつづく)