世界の注目の焦点は、ウクライナの首都キエフから、東方のモスクワ、そしてそのはるか南のクリミアに移った。
16世紀以来、オスマントルコ帝国を、12度に渡る露土戦争(ロシアートルコ戦争)で叩きに叩いて、領土を拡張し、帝国を築いたロシア。そのロシアがさらに南下し、外洋に出るための出口としてボスポラス海峡まで支配しようとしたところ、イギリス、フランスの権益と対立、黒海に突き出したクリミア半島を巡って戦ったのがクリミア戦争である。19世紀、1853年から56年にかけての10回目の露土戦争のことをそう呼ぶ。
クリミア戦争ではイギリスのナイチンゲールが活躍し、看護学を確立し、のちに「戦争と平和」という超大作を書く大文豪トルストイが、「セヴァストーポリ要塞」を描いた。不凍港を手に入れるのがロシアの悲願だった。黒海艦隊の基地がある、そのセヴァストーポリが今、キエフから逃亡したヤヌコビッチ・前ウクライナ大統領を匿うロシアの拠点になった。
老いたる帝国であるオスマントルコのことは、帝国がバラバラになるまで、散々に痛めつけてきたが、英仏が出てきたら、ロシアは勝てなかった。敗北のあとは英仏と協調。その結果、ロシア西部での南下政策はほどほどにして、ロシア帝国は極東での南下を進めることになった。
南へ向いていたモスクワの視線が東へ向いたのだ。
その結果、日本との戦争に至ったのは周知の通りである。クリミア戦争の結果次第では、極東での南下政策はまた変わっていたかもしれない。
歴史はそんなもので、自国と正対している国だけを分析していても、何もわからない。自国、敵国、同盟国、それ以外の第三国、自国から遠く離れた地域の紛争にも目配せしていなかったら、次の展開がまるで読めなくなる。今なら中国と米国にしか関心のないような状態である。それはあまりに視野狭窄で、実に危なっかしい。
このクリミア戦争では、産業革命を未経験だったロシアは、産業革命を経た英仏に遅れをとった。オスマントルコ帝国は没落、内部からも民族主義の台頭で多民族国家だったオスマン帝国は弱体化。その間隙をぬって工業化を進めたのがプロイセンだった。1856年にクリミア戦争は終結した。
視線をモスクワから西へ向けよう。
ロシアを退けたフランスのナポレオン3世は、しかし1870年に始まったビスマルク率いるプロイセンとの戦争(独仏戦争)で敗れた。プロイセン王がドイツ皇帝に、プロイセン首相のビスマルクが帝国首相となってドイツ帝国が成立。オスマントルコの崩壊により、ドイツ帝国の東方世界に広大な、権力の弱い地帯が出現した。
首都ベルリンから、東に向けたまなざしには、はるばるとした沃野が広がっていたことだろう。
ドイツ帝国はこの東方世界に征服と植民の野心を抱く。スラブ民族に対する、ゲルマン民族の優越も、誇大に宣伝された。この、実に19世紀的な領土拡張の野望に燃えたドイツイデオロギーに、狂信化した反ユダヤ主義が加わればヒトラーのナチ・イデオロギーとなる。
急速に国力をつけたドイツ帝国と同じく近代化を果たしたロシア帝国は、1914年から始まった第一次大戦でまみえる。ここで「総力戦」の提唱者であるルーデンドルフ将軍の指揮のもと、タンネンブルクの戦いでドイツは寡兵ながら兵力の上回るロシア軍を包囲殲滅する。
このタンネンブルグの戦いにおいて、ドイツ帝国は見事な戦略的勝利をおさめ、日本陸軍の参謀らはしきりにタンネンブルク参りを繰り返す。帝国陸軍の中に「タンネンブルク神話」が生まれ、日本軍は短期決戦の殲滅戦にこだわるようになっていった。奇襲、先制攻撃、そして自軍兵士の損耗を一顧だにしない戦略思想は「特攻」や「玉砕」という、戦略とは到底言いがたい作戦計画に煮つまってゆく。
ルーデンドルフは、ドイツ東方帝国の立役者となったが、タンネンブルクの戦闘には勝ったものの、戦争そのものには、ドイツ帝国は敗北する。日本陸軍の作戦思想に多大な影響を与えた、このルーデンドルフは、のちに若きヒトラーとともに、ミュンヘン一揆を起こしている。
アドルフ・ヒトラーは、ある日過去と隔絶した形で、一代で登場してきたわけではない。彼が掲げたナチ・イデオロギーは、降って湧いたものではなく、前史が存在する。ナチ以前のドイツとりわけプロイセンの東方征服政策を理解する必要がる。ナチスは一夜にならず。特に「生存圏」構想は日本にも多大な影響を与えた。そうでなければ、満州国建国も、その結果としての15年にわたる日中戦争と、大日本帝国の破綻もありえなかったろう。
拝啓
早春の候
いつも、興味深く拝見させて頂いております。
薄暗い世の中になりつつあります。
大変、胸痛む報道が続いております。
岩上さんの投稿には、真実を感じています。
私は、福島奥会津の空から岩上さんご健康を
心よりお祈り申し上げます。
かしこ
平成26年3月1日
早く続きが読みたいです!!