【特別寄稿】スペイン在住の筆者が見た、カタルーニャ独立運動の高まりの実態! 歴史的背景からその意味を探る(「IWJフアン」氏) 2018.1.1

記事公開日:2018.1.1 テキスト
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(文:「IWJフアン」氏)

 イスラム国家支配、そしてレコンキスタ(※)と、宗教と民族の揺れ動きを経て今に至るスペインで今、北東部に位置し、バルセロナという世界的に知られたとりを要するするカタルーニャ自治州が事実上の「独立宣言」を行い、これに対し中央政府はカタルーニャ州の直接統治に乗り出そうとしている。

▲赤い部分がカタルーニャ

※レコンキスタ:718年から1492年までに行われた、キリスト教諸国家によるイベリア半島の再征服活動。「国土回復運動」ともいう。

 しかし、中央政府の意に反し、独立機運はますます強まるばかりだ。2017年12月21日に行われたカタルーニャ州議会選挙では、独立支持派の3党が過半数の議席を獲得。独立を押さえ込むべく選挙に踏み切った、中央政府のマリアノ・ラホイ首相の国民党は大敗した。

 民族や国同士の数限りない戦いの歴史の果てに、「欧州連合」というゆるやかな融合への歩を進めていたかに見えた欧州であったが、イギリスのEU離脱、ギリシャの不況、逆に堅調なドイツと他国の落差、シリア難民の流入など、各国で同時多発的にきしみが生じ、亀裂へと至る気配も見える。

 その中で、今回のカタルーニャの独立機運の高まりを、どのように見れば良いのか。中央政権の強引な独立派の「弾圧」は、日本の「共謀罪」や「緊急事態条項」を彷彿とさせるものがある。

 このタイミングで、日本のメディアでは伝えきれない細部のニュアンスも含めた現地からのレポートをお届けする。

 スペイン在住の「IWJフアン」氏(政府からの圧力が予想されるので本名は明かせず、ペンネームでの寄稿となることをご容赦願いたい)が、カタルーニャ独立の歴史をひもときながら、独立運動の背景に迫る。

記事目次

日本でも馴染み深いバルセロナを州都に抱えるカタルーニャ その歴史は紀元前8世紀に遡る

 スペイン北東部の地中海沿岸に位置するカタルーニャ(カタロニアともいう)。突き出た半島をぐるりと東に30キロほどまわれば、天才画家ダリが晩年を過ごした住居兼アトリエ「卵の家」があるカダケスに着く。訪れたことがある人もいるのではないか。

▲画家 サルバドール・ダリ

▲ダリ美術館(通称ポル・リガット「卵の家」)

 歴史を一気に飛び越えた1992年、州都バルセロナで開催された夏のオリンピック。200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子選手の「今まで生きてきた中で、一番幸せです」、女子マラソンで銀メダルを獲った有森裕子選手の「初めて自分で自分をほめたいと思います」やマラソンの谷口浩美選手の「こけちゃいました」は、日本人なら忘れられない。

▲日刊スポーツ(1996年7月29日)より

 いまそのカタルーニャが、スペインから独立する、しないでもめている。どうして「今」なのだろうか。

 同州は、4つの県(バルセロナ、ヒローナ、レリダ、タラゴナ)からなる。紀元前8世紀、エーゲ海からはギリシャ人がやってきて、イベリア半島北東端のヒローナのロサスに植民市を建設したのが始まりだ。ギリシャ人の支配の後、イベリア半島を支配下に置いたローマ人が、タラゴナに重要な都市を築いた。紀元前3世紀のころだ。

 4世紀に入り、ローマ帝国が衰退し始めると、「ゲルマン民族の大移動」(※)が始まり、西ゴート族がトレドに中央集権国家を築いた。カタルーニャは辺境の場所であったため、一定の「独立性」を保った。その特殊性を生かした不屈の精神は1500年以上経った今も、変わらず生き続けていることに感嘆する。

▲2~5世紀にかけての民族移動(wikipedia)

※ゲルマン民族の大移動:フン族の攻撃から逃げ延びようとした西ゴート族がドナウ川を超えてローマ帝国領内に侵入。378年、アドリアノープルの戦いでローマ帝国軍は敗退し、ウァレンス帝が戦死する事態に追い込まれる。以後、ゲルマン系諸民族が他の勢力と共に各地の領土を切り取って国家を形成していく(Wikipediaより

イスラム教徒による征服とキリスト教徒による国土回復(レコンキスタ)~現在も思い出される誇り高き中世時代の栄華

 711年、イスラム教徒が侵入し、カタルーニャ4都市を征服して支配下に置いた。その後、フランク王国が旧カタルーニャを編入し、795年には(イベリア半島の)イスラム勢力に対する「緩衝地帯」の役割を果たすために、スペイン辺境領が設けられた。バルセロナ伯がカタルーニャの初代君主となり、987年に「カタルーニャ君主国」、カタルーニャ「主権国家」が誕生した。ちょうど、今から1030年前のことだ。

▲アンダルシア州・グラナダのアルハンブラ宮殿も、9世紀のウマイヤ朝支配の時代に建設が始まった。

 カタルーニャ君主国は、イスラム教徒から、国土を回復(レコンキスタ)しようと、タラゴナ、レリダをキリスト教徒の手に取り戻した。1400年代には、ナポリ王国、マルタ、エーゲ海のいくつかの島を支配下に置いて、栄華を誇った。この自負が、現代のカタルーニャにも息づいているのではないかと思われる。

大航海時代の始まりとともに地中海交易が衰退、カタルーニャも弱体化

 15世紀末、カトリック両王(アラゴン王子フェルナンド2世とカスティーリャ王女イサベル1世)が結婚し、カスティーリャ王国ができると、ヨーロッパにおける商業活動の中心は地中海から大西洋の大海原へと移り、南アメリカ大陸の植民地化が始まった。1492年に、イサベル女王の援助を取りつけたコロンブスが、3隻の船でスペインを出発した。地中海交易は衰退し、地中海に面したカタルーニャの国力が弱まっていったのは歴史の流れだ。

▲コロンブスを乗せてバハマ諸島に到達したサンタマリア号のレプリカ

1700年のスペイン継承戦争でバルセロナが陥落、カタルーニャはスペインの支配下へ

 1700年にスペイン継承戦争が勃発すると、カタルーニャはカール大公(ハプスブルク家)側につき、ブルボン家の新国王フェリペ5世に反旗を翻した。しかし1714年9月11日、バルセロナが陥落、カタルーニャはスペイン軍の占領下に置かれた。

 自由を奪われた日である9月11日は、後に「ディアーダ」と呼ばれる国民の祝日となったが、1716年にスペイン国家は、カタルーニャ議会や政府などを廃止し、公的な場でのカタルーニャ語の使用を禁じた。

 そして300年経った今日、まさに「歴史は繰り返す」の言葉の通り、マドリードの中央政府は同じ行為をなした。現在の国王が、「フェリペ6世」の称号をつけられたのも、歴史的必然性があってのことだろう。

▲フェリペ5世

▲現在の国王・フェリペ6世

19世紀末、スペイン支配下で経済的成功とともに独立運動の機運が高揚

 それでもカタルーニャは、マドリード中央政権への意地を見せた。政治的な圧迫を受けても、経済発展にエネルギーを集中していった。

 19世紀になると、繊維工業を牽引し、スペインのバスク地方と共に、希少な工業地帯を形成した。19世紀末には、カタルーニャ主義を掲げる勢力が台頭し、中央政府に対してカタルーニャの自治を要求した。今日の自治・独立運動の礎となった。

 20世紀に入ると、第一世界大戦の特需もあり、繊維産業だけでなく、金属・化学・セメントなどの産業が発展した。人口も域外からの移民も増えて100万人を超えた。労働者として市民の意識向上も高まり、中央政権の弾圧も容赦がなかった。

独裁者を怒らせた「カタルーニャ自治憲章」をめぐり市民戦争へ フランコ将軍がカタルーニャを徹底弾圧

 1932年9月、第2共和政権下で「カタルーニャ自治憲章」が制定され、カタルーニャ議会選挙が開催された。ERC(中道左派党)が初代カタルーニャ首相に就任、1934年にスペイン国会で右派が政権を獲得。これにカタルーニャが反発すると、自治憲章が無期限停止となった。80年前のことである。

 左派の人民戦線が勝利した1936年、カタルーニャ自治憲章は復活したが、モロッコに左遷されていたフランコ将軍らが一斉蜂起、市民戦争に突入した。フランコは、カタルーニャを徹底して弾圧した。「カタルーニャ・ルネッサンス」を標榜し、ナシオン(国家)を求め続ける自由な文化思想は、極右独裁者には目障りだった。

▲フランコ将軍(右から二人目)、左はナチスのカール・ヴォルフとハインリヒ・ヒムラー

※国際義勇軍:スペイン内戦での人民戦線義勇軍への従軍体験を描いたジョージ・オーウェルの『カタルーニャ讃歌』、アーネスト・ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』。オーウェルは、労働者階級が政権を取ったバルセロナの活気にあふれた様子を描きつつ、反対派を粛清して覇権を握った親ソ派をファシズムだと批判する。一方、ヘミングウェイは、左派に同情し、反ファシスト軍としてスペイン内戦に参加した兵士の恋物語を描き、スペイン市民戦争の「内情」を世界に紹介した。

▲トランプ大統領の就任直後、『1984』が改めてベストセラーにもなった、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌

▲映画「誰がために鐘は鳴る」よりイングリッド・バーグマンとゲイリー・クーパー

第2次世界大戦中には経済停滞 1970年台に息を吹き返し、自治州も発足

 ヒットラーと組んでも、第2次世界大戦で枢軸国側に加わらなかった「したたかな」フランコは、国内産業の振興に力を入れた。しかし、カタルーニャの産業には冷淡だったため、カタルーニャ経済は停滞を余儀なくされた。

 カタルーニャはこれを耐え、戦後、1970年代には同州の経済成長は再び息を吹き返し始めた。外国資本の投資や観光客が増加し、観光業・金融業などの第3次産業が発展し、金属・化学・建設も進んだ。フランスやドイツ、英国など、太陽が少ないヨーロッパ北部からの観光客がコスタ・ブラバなどに大勢押し寄せてきた。2800年前、エーゲ海からロサスにやってきたギリシャ人の代わりに、今度は欧州先進国からの訪問客が到来することとなったのだ。

 1975年、フランコが死去。初の自由選挙が行われ、スアレス首相の下で、スペインの民主化が進んだ。自治主義を認める「スペイン1978年憲法」が制定され、1979年に「カタルーニャ自治憲章」が制定されてカタルーニャ自治州が発足した。

 しかし、現スペイン中央政府は、民主的な憲法155条(※)を楯にとり、カタルーニャの独立宣言を違反とし、自治を停止させている。

※スペイン憲法155条:①自治州が憲法もしくは他の法律により課せられた義務を履行せず、またはスペインの全体利益を深く損なうような行為をなすときは、内閣は、前以て自治州の知事に請求することにより、及び、この請求が受け入れられない場合においては、参議院[転載者注:翻訳原文ママ。現在は「上院」と訳されることが多い。スペイン語Senado]の絶対多数決による承認を得て、自治州に対し、その義務を強制的に履行させるため、またはその全体利益の保護のため、必要な措置を採ることができるものとする。

②前項に定められた措置の執行のため、内閣は、自治州のすべての機関に対し指示を与えることができるものとする(「スペイン憲法155条(黒田清彦訳)」。

カタルーニャ語の公用語化が「違憲」判決 地方交付金の少なさや中央政府の圧力もあいまって高まる住民の不満

 21世紀に入り、フランコ時代に禁止されていたカタルーニャ語をスペイン語に優先する公用語とし、自治権の拡大を狙った「2006年カタルーニャ自治憲章」が制定された。政権党のPartido Popular(PP/民衆党)は、これを違憲として、スペイン憲法裁判所に提訴、違憲判決が下されて、カタルーニャの不満は高まった。

 税の不公平感もカタルーニャの不満を高めた。同州はスペイン国内生産の2割を稼ぎ、90%を中央政権の国庫に納めているという自負があるが、地方交付税交付金が少なく、毎年8%の財政赤字を抱えている。「やっていられない」というのが住民の本心だ。

 また、中央政府のカタルーニャに対する自治独立を厳しく律する言動も、独立志向の高まりに輪をかけた。

「1年半でカタルーニャ共和国を建国する」――加速する独立運動とプッチデモン首相の誕生

 2014年11月、カタルーニャ州独立を問う住民投票が行われ、「カタルーニャ州は国家であるべきであり、独立を望む」とする声が8割を超える結果となった。

 続く2015年自治州議会選挙では、過半数の135議席中72議席を獲得、州議会は独立宣言への「手続き」を加速させた。

 2016年1月には、「Junts pel Sí(ジュンツ・パル・シ/みんなで賛成)」のカルロス・プッチデモン・ヒローナ市長が、独立派からマス州首相の後任に祭り上げられ、「1年半でカタルーニャ共和国を建国する」という見通しを示した。

▲カルロス・プッチデモン首相(当時、中央)

2017年10月の「住民投票」では有権者の半数が国家警察や治安警察の妨害により投票に行けず

 その昔、ギリシャ人が、ヒローナのロサスに植民市を建設してから、2800年。州議会の「独立宣言」の翌日、ヒローナの自宅から密かにベルギーのブリュッセルに「脱出した」プッチデモン氏は、「みんなでカタルーニャ」をモットーに、カタルーニャの独立プロセスを、欧州のみならず国際世論を味方にして、人権保護を打ち出し、一歩一歩駒を進めようとしている。

 カタルーニャを取り巻いた歴史を振り返りながら、カタルーニャがこれから先、どこに進もうとするのか、明確に見通すことは難しいが、取り巻く環境と疑問点を整理してみたいと思う。

 2017年10月1日、カタルーニャの独立を問う「住民投票」が行われた。独立を支持した市民は204万(有効投票の90.18%)、投票所へ行かなかった人が300万人強。有権者の半数以上は「燃えて」いなかっただろうか?

 そうではない。投票に行きたくても行けなかった人が多かったのだ。実は、マドリード中央政府が派遣した国家警察や治安警察が徹底して、「民主的な投票」を、物理的に阻止していたのだ。この現実を、スペイン人以外の人々、日本の人々は、どれだけご存知だろうか。

 勇気ある人々は、投票前夜から投票所に泊り込んだり、当日乱入する警察隊を阻止しようとしたりした。投票箱を隠したり、投票場所を急遽、どこかに変えたりと、あの手この手で応戦したが、圧倒的な警官隊に抑えこまれた。表向きの数字だけでは推し量れない事情があった。

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「【特別寄稿】スペイン在住の筆者が見た、カタルーニャ独立運動の高まりの実態! 歴史的背景からその意味を探る(「IWJフアン」氏)」への1件のフィードバック

  1. 同じくカタルーニア在住 より:

    在住ということで新たな視点を期待して読んだのですが、残念ながら私には期待はずれでした。
    (失礼ながら、これならまだ自分で歴史を調べて背景をつなげてる方がまだ現実的に感じました。)
    因みにこの程度の内容なら、FBでも現地の人が実名でも書いているので、別に名前を出すても全然構わないかと。(苦笑) 実際、民主主義の元、自由に意見を言える環境だけど、独立派が変に「弾圧されている」と被害妄想気味に言っているのを間に受けられているのでしょうか?

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