京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏、在職中最後のゼミ講演で「原子力廃絶」を力説──原発に警告を発し続けてきた半生を語る 2015.2.27

記事公開日:2015.3.10取材地: テキスト 動画
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(IWJテキストスタッフ・富田)

※3月10日テキストを追加しました!

 大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所で、2015年2月27日、1980年から行われている自主講座「原子力安全問題ゼミ」の111回目があり、この3月に定年退職を迎える京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏が「原子力廃絶への道程」との演題で、退職前の最終講義を行った。

 小出氏は、原子力の安全性に長年警告を発し続けてきた「京大熊取6人衆」と呼ばれる学者グループの1人。この日の講義では、原発再稼働の阻止が難しくなりそうな気配を憂い、「私の現役中に、原子力を廃絶できなかったことが無念」と何度か口にするも、自分の信念を曲げずに、原子力利用のリスクに関する研究に精一杯取り組んできた学者としてマイクに向かう姿からは、清々しさが伝わってきた。

 原子力の危険性を従来以上に強く訴える、この日の講義は多角的だった。4年前に起きた福島第一原発事故が、いかに過酷なものであったかを、広島に投下した原発の脅威と比較しながら解説する場面では、「政府は、国民を(必要のある人間以外は立ち入れない)放射線管理区域に捨てたようなもの」との発言も飛び出した。

 さらには、「核のゴミ(放射性廃棄物)」を生んでしまう点で、原発は、たとえ事故を起こさなくても問題があるとし、選択権のない将来の子どもたちに、人類が始末できない有毒物資を押しつける行為は「未来犯罪」だと主張した。

 小出氏はこの日も、核兵器の開発技術を得るために原子力政策を推進してきた自民党と原子力ムラを厳しく批判したが、講義の終盤では、国民にも苦言を呈した。「(福島第一原発事故を受け)多くの日本人は、『自分は原発の安全性について、国にだまされてきた』と痛感したはずだが、そう感じるだけで終わらせていい問題なのか」との言葉は、今の日本人への、将来世代からの厳しいメッセージを先取りしたかのようにも感じられる。

記事目次

■ハイライト

  • 司会 今中哲二氏(京都大学原子炉実験所助教)
  • 14:00~ 川野眞治氏(元京都大学原子炉実験所助教授)「伊方原発裁判の頃」
  • 14:30~ 小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)「原子力廃絶への道程」
  • 16:00~ 総合討論/閉会あいさつ 小林圭二氏(元京都大学原子炉実験所講師)
  • 日時 2015年2月27日(金)14:00~17:00
  • 場所 京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)

1970年代の伊方原発訴訟を振り返る

 「今回で、このゼミは111回目を迎えるが、振り返ってみれば、この35年間、われわれ熊取6人衆は(反原子力の立場で)同じことを主張し続けてきた。4年前には東京電力の福島第一原発に過酷事故が起き、それによってゼミが振り回された時期もあったが、事故の前後で主張が変わることはなく、たぶん、今後も変わるまい」

 司会の京都大学原子炉実験所助教・今中哲二氏は、このように挨拶した。「今回は、小出先生が定年退職する前の最後の勉強会ということで、彼の講義を中心に進めていく」と続け、熊取6人衆の1人である元京都大学原子炉実験所助教授・川野眞治氏に登壇をうながした。

 小出氏の講義に先立ち、川野氏は、四国電力の伊方原発の安全性をめぐって争われた訴訟について話した。

 同訴訟は、1973年8月、愛媛県西宇和郡伊方町の反原発の住民30人余りが、伊方原子力発電所1号機の原子炉設置許可処分の取り消しを求めて、松山地方裁判所に提訴したことに始まる。1978年4月に、同地裁は原告敗訴の判決を下し、1984年12月には高松高裁が、1992年10月には最高裁が、それぞれ上告を棄却したため、原告の敗訴が決まるのだが、専門性の面において、住民たちからのサポート依頼を引き受け、裁判を一緒に闘った川野氏は、「多くのことを学ぶことができた」と話した。

現実となった、伊方原発訴訟での危機感

 伊方原発の裁判では、市民らが国を相手取り、1. 原発は潜在的リスクがあまりにも大きく、いったん過酷事故が起きれば、その地域が消滅するほどの甚大な被害が生まれる、2. 原発内の被曝労働は実に理不尽、3. 原発は平時でも一定の放射能を環境中に放出している、4. 放射能廃棄物処分の見通しが立っていない、ということなどを訴えた。川野氏は、「当時の原告の指摘はどれも、半世紀近くが経過した今でも通用する」と言い重ねると、次のように強調した。

 「技術というものは、半世紀もの長い年月を経れば、成熟するのが普通だが、原発にはそれが見られない。それなのに、なぜ、日本は原発政策を展開したのか。それは、軍事転用に結びついているからだ」

 「伊方の訴訟で、国は東大出身の学者らを証人に揃えたが、科学論争では住民側が押しまくっていた」と川野氏は力を込める。1審で裁判長が2回も交代した不可解については、「国の主張を引き写すような判決文を書いたのは、喚問など審理を担当した村上悦雄裁判長ではなく、柏木賢吉裁判長だった。司法が『過酷事故は絶対に起きない』と過信していた行政に従属した側面が大きかった」と、改めて批判を口にした。

 そして、1986年4月のチェルノブイリ事故や、1999年9月の東海村JCO臨界事故などを取り上げると、原告の指摘のほとんどが、これらの事故で具現化したと訴えた。

核の平和利用に夢を馳せた高校時代

 川野氏からは、「われわれの訴えに対し、国側は『過酷事故は絶対に起きない』の一点張りだったが、その結果として起こったのが福島第一原発事故だったと言わざるを得ない。同事故は、複数炉心のメルトスルーであり、いくつもの原発を集中させることが、いかに危険かを物語るものだった」との言及もあった。

 その福島第一原発事故などなかったかのように、「原発再稼働」の動きが進んでいる現状に懸念を示す川野氏は、「福島で、あれだけの過酷事故が起きたという事実を消すことは不可能だ。原発問題に対する若い世代の関心度が高まることが大切だ」と語気を強めて語り、小出氏にマイクを譲った。

 小出氏は、まず、「今日は『原子力の廃絶』に向けて、私の思いをいろいろと話してみたい」と切り出した。

 その後、広島と長崎への原爆投下に始まる、人類の核兵器開発の流れに触れると、「自分は高校生の時に物理を学ぶようになり、原子力を軍事に使うことは間違っていると認識する一方で、たった1グラムの物質をすべてエネルギーに変えられれば、50メートルプール30個分の冷水が蒸発するという、原子力の圧倒的なパワーを、人類の平和利用のために使いたいと思い込むようになった」と打ち明けた。

 「1954年3月、(当時は改進党の議員だった)中曽根康弘氏が国会に、唐突に原子炉予算案を提出した。その後、ろくな議論もされぬまま予算は成立し、日本の原子力開発の歴史が幕を開けた」と議論を進めた小出氏は、当時の新聞報道を紹介。

 1954年7月2日付毎日新聞を、「原子力を潜在電力として考えると、まったくとてつもないものである。しかも石炭などの資源が今後、地球上から次第に少なくなっていくことを思えば、このエネルギーの持つ威力は人類生存に不可欠」と読み上げ、「高校生だった私は、マスコミのこうした主張を完全に信じ切り、大学入学では京大の工学部原子核工学科をわざわざ選択した」と明かした。

 そして、すぐにこう言いかぶせるのだった。「では、事実はどうだったかというと、高校生の私が信じていた内容とは全然違っていた」。

貧弱な埋蔵量のウランにエネルギーの未来を託す間違い

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コメント “京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏、在職中最後のゼミ講演で「原子力廃絶」を力説──原発に警告を発し続けてきた半生を語る

  1. 【大阪】京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏、在職中最後のゼミ講演で「原子力廃絶」を力説─原発に警告を発し続けてきた半生を語る http://iwj.co.jp/wj/open/archives/235922 … @iwakamiyasumi
    どれだけの人が311以降、小出さんの発言に助けられたか。感謝の言葉しかない。
    https://twitter.com/55kurosuke/status/575263438244466688

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