山中恒・山中典子著『あたらしい戦争ってなんだろう?』第五章「第一次世界大戦と石油」(IWJウィークリー34号より) 2015.2.19

記事公開日:2015.2.19 テキスト
このエントリーをはてなブックマークに追加

第4回の続き。第4回はこちらからどうぞ→山中恒・山中典子著『あたらしい戦争ってなんだろう?』第四章「イラクの石油問題の始まり」(IWJウィークリー33号より) 2015.2.17

◆第五章 第一次世界大戦と石油◆

 中東で発見された油田をめぐって、イギリスとドイツが激しく争っている、まさにそのころ始まったのが、第一次世界大戦でした。

 一九一四年月二八日、セルビアのサラエボで、オーストリア・ハンガリー皇太子夫妻がセルビアの青年に銃撃され死亡しました。このサラエボ事件が第一次世界大戦の発端です。

 オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦すると、セルビアと同じスラブ系のロシアがセルビア側について参戦する意思を明らかにし、動員をかけました。

 これを聞いたドイツはいきなりロシアに宣戦し、さらにフランスにも宣戦しました。

 ドイツはフランスをせめるために、ベルギーに対し、ドイツ軍がベルギー国内を自由に通過することを求めると、ベルギーが自国の中立を主張して拒否しました。拒否の返事にかまわず、ドイツ軍がベルギーにせめこむと、イギリスは、「ドイツの侵略からベルギーの中立と独立を守るため」という大義を掲げて、ドイツに宣戦しました。

 イギリス政府は戦争に乗り気ではありませんでしたが、イギリス国民の多くは「戦争撲滅(絶やすこと)のための戦争だ。世界の民主主義を救うための戦争だ。勝利よりも戦後のより良い世界をめざすべきだ」と理想主義に燃えていました。

 イギリスがドイツに宣戦すると、戦争はヨーロッパ全土に広がりました。日本も日英同盟に基づいて参戦しました。

 こうして世界中を巻きこんだ戦争が始まりました。

予想外のトルコの参戦

 オスマン帝国(以下、トルコ)は、それまで「海峡」問題でイギリスとロシアの板ばさみにあい、絶えず両国からおどかされたり保護されたりしてきました。国力も領域内の支配力もおとろえる一方だったので、トルコは思い切って新興勢力のドイツに国運をかけたのです。

 一九一四年一〇月、トルコはドイツ側について参戦すると、皇帝スルタンは、カリフとして全イスラム教徒に「聖戦」を呼びかけました。

 このトルコの参戦にいちばんあわてたのはイギリスでした。なぜなら、イギリスの属領には多数のイスラム教徒がいるからです。さらに深刻な問題は、トルコとの国交が断絶することで、中東地域の石油を確保することが難しくなることでした。アラビア半島に接するスエズ運河や紅海やペルシャ湾が危機にさらされ、イギリス海軍の石油補給地の確保が危なくなるからです。

第一次世界大戦とアラビア民族運動

 トルコの支配するアラビア半島には、数多くの部族がいました。

 モスル油田が発見されたころ、イブン・サウドは砂漠をかけぬけ、部族を征服しながらアラビア半島を平定し、領土と民族的統一をめざして、サウド王国を再興しました。

 イブン・サウドは武術も人格も非常にすぐれた英雄で、略奪を行わなかったので、人々の尊敬を集めました。けれども当時は、イブン・サウドが広げた領土に石油があるとはだれも知りませんでした。(現在のサウジアラビアがずばぬけて広い領土と豊富な油田を持っているのは、イブン・サウドのおかげです)。

 イギリスは、このアラブの独立運動を利用し、アラブ人にトルコを攻撃させることにしました。イギリスはすでにトルコと戦っていたイブン・サウドと友好条約を結び、対トルコ戦で協力することを約束しました。

 その一方で、メッカの太守ハーシム家のフセインに、「イギリスはアラブ諸国の独立を承認する。イギリスはアラブ=イスラム=カリフ国の建国宣言に同意する」という書簡を送り、アラブ人の領土支配を約束しました。

 わかりやすくいうと、イブン・サウドか太守フセインが、トルコの独立した統治体(政府)をたおせば、トルコは敗北したも同然です。アラビア半島からトルコの勢力を取り除くために、イギリスはアラブ人を利用し、しかも二またをかけたのです。

 予言者ムハンマドの直系三九代目のハーシム家のフセインは、イギリスの甘い言葉を信じて、アラビア半島の全域を統治するカリフになる野望を抱き、トルコに反乱を起こしました。

イギリスの卑劣な裏切り

 トルコがたおれても、アラビア半島の政情はまだ不安定で、アラブの各部族が自力で独立国家を形成できる状態ではありませんでした。独立国家となるために必要な「人民・領土・独立した政府」が整っていないからでした。

 そのどさくさにまぎれてイギリスとフランスは、「やむを得ず『過渡的段階』として『委任統治』という方式を採用する」と、もっともらしい言い訳をして、アラビア半島を支配下に収めました。

 サウジアラビアを建国した英雄イブン・サウドは、全アラブの統一を希望していました。アラブ人による全アラブ統一を望まないイギリスは、イブン・サウドの影響力を弱め、アラブ諸族の仲を悪くさせる政策をとりました。

 イスラム教の聖地メッカがあるサウジアラビアを取り巻くイラク・シリア・ヨルダンの各国には、イブン・サウドと犬猿の仲のフセインの子孫を配置することで、統一を妨害したのです。アラビア半島を取り巻くペルシャ湾と紅海の沿岸の大事な港がある、今日のクウエート・バーレーン・カタール・アラブ首長国連邦・オマーン・イエメンは、当時は植民地も同然で独立国家とはいえませんでした。こうしてイギリスの息のかかった傀儡国(思いのままにあやつれる国)が広大なサウジアラビアを包囲する形にしたのです。

 イギリスの裏切りと画策によって、アラブの統一や独立は致命的な悪影響を受けました。

第一次世界大戦後

 第一次世界大戦の結果、ドイツ・オーストリア・トルコ側が負けました。一九一九年六月二八日、パリのベルサイユ宮殿、鏡の間で、ドイツと戦勝国がベルサイユ条約に調印して戦争は終わりました。

 敗戦国オスマン帝国は崩壊し、広大な領土を失いましたが、実は戦争の最中一九一六年に、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定」を結んでいました。戦勝国になったら、イラク・ヨルダン・パレスチナをイギリスの委任統治領に、シリアをフランスの委任統治領にすることを決めていたのです。

 一九二〇年、イギリス・フランスは、「サン・レモ協定」を結び、ドイツが持っていたルーマニアとイラクの石油利権の一部をフランスにあたえることを決めました。

 イギリスは戦争に勝つと、イブン・サウドをアラブの領主とは認めないと言い出しました。一九二〇年、フセインの三男ファイサルはベルサイユ会議の決定を無視して、シリア国王を名乗りました。イギリスはファイサルの即位を拒否し、フランス軍はシリアのダマスカスを占領し、ファイサルを国王の座から引きずり降ろし、国外に追放しました。こうしてイギリスは、利用価値のなくなったフセインやイブン・サウドを切り捨てました。

 フセインの次男アブドゥラは、一九二一年四月一日に、トランスヨルダン(ヨルダン)の部族国家の君主アミールに即位し、アブドゥラ一世を名乗りました。イギリスにとって資源がまったくないヨルダンなどはどうでもよかったので、すんなりとこれを承認しました。

 ところがその四か月後の八月に、モスル油田のあるメソポタミアで、アラブ人の反乱が起きました。これにあわてたイギリスは、石油利権を守り、アラブ民族をおさえるために、前にシリア王の座から引きずり降ろしたフセインの三男ファイサルをイラクの国王に即位させ、一九二一年八月二三日に正式にイラクを建国させたのです。あっという間のイラクの独立でした。もちろんファイサル王はあやつり人形で、実験はイギリスがにぎりました。

 建国して独立国家になるためには、領土を確定しなければなりません。そのため、イギリスは石油中心に国境を定めました。そのころは、モスルの石油はチグリス・ユーフラテス川を船で下ってバスラまで輸送し、そこからペルシャ湾を航行してインド洋や地中海に送り出しました。それでモスル・バグダッド・バスラをふくむ領域をもとに、国境を定めました。

 モスルの南東のキルクークの町には、クルド人が生活していました。イギリスは、キルクークにもまちがいなく油田があると確信していました。それで時の植民地大臣チャーチルは、キルクーク地方もイラク領土にふくめるように厳命したので、キルクークもイラク領土になりました。

 イラク人と異なる生活習慣を持つクルド族の存在を無視して、イギリス人が自分の都合で、勝手に地図に定規をあてて国境線を引いたわけです。イギリスが石油利権を得るために、クルド人住民の「生活」を破壊したことが、後の紛争の原因になりました。

 クルド人はイラン・イラク・トルコ・シリアなどの広い範囲に住んでいます。それなのに独立のチャンスも、キルクークの油田も、イラク人にうばわれたことは許しがたいことでした。(今回の「イラク戦争」でも、イラク北部キルクークの油田とクルド人の動向が戦争の焦点になりました)。

アメリカもイラク石油をねらう

このようなイギリスやフランスのやり方に、強い異議を唱えたのが、アメリカでした。

 第一次世界大戦が起こったとき、アメリカは中立を守っていました。ところが、戦争が長期戦になり追いつめられたドイツは、無制限潜水艦戦を強行し、アメリカ商船も撃沈しました。東部大西洋の戦争区域を通行する船舶を見つけしだい撃沈したのです。このためアメリカは一九一七年二月二日にドイツと国交断絶、四月六日に宣戦布告をして、連合国に参戦しました。

 アメリカは国際連盟に加盟しませんでしたが、サン・レモ協定が発表されると、「イギリスがイラクとパレスチナを事実上植民地にした」と厳重な抗議をしました。アメリカは、国際連盟の委任統治下にあるイラクの石油開発権に関しては、参戦国の機会均等を認めるべきだと主張しました。

 モスル油田の利権をめぐって、今度はイギリス・フランス・アメリカのあいだで争奪戦が起きました。  一九二九年の夏に、ようやく三国間の協定がまとまります。

 イラク石油会社の資本の九五パーセントを、 アングロ・ペルシャン石油会社 (英)、 ローヤル・ダッチ・シェル (英) フランセーズ・ド・ペトロー (仏) スタンダード石油会社 (米) で四等分しました。

 つまりイギリスは、アメリカに譲歩して自分の分け前をアメリカにあたえたわけです。

 このようにして、イラクの石油を、イギリス、フランス、アメリカが分け合う形となりました。

 第一次世界大戦以後、石油資源の豊富な中東は、政治的・軍事的に極めて重要な地域になりました。

イラク石油とパレスチナ問題

 またイギリスは、委任統治領となったパレスチナに多数のユダヤ人を入植させることで、アラブ人の民族統一運動に間接に圧力をかけました。

 パレスチナは、ユダヤ人にとっては民族の生まれた土地です。年々多数入植復帰してくるユダヤ人は、アラブ人が商売の事情をよく知らないことにつけこんで、彼らから土地をうばい、商業を独占してきました。アラブ人は次々に生活手段を失い、苦しい立場に追いこまれていきました。

 一九二〇年、ユダヤ人の民族郷土建設計画に反対するパレスチナの民族独立運動は、自分たちの政府樹立を求めることから始められました。  『パレスチナ』(一九八七年・広河隆一・岩波新書)は、次のように書いています。

一九一七年には五万六〇〇〇人だったユダヤ人口は、一九二九年には十五万六〇〇〇人になった。/一九二九年にはユダヤ教の聖地、嘆きの壁(イスラム教の聖地でもある)にシオニストの旗をかかげたユダヤ人とパレスチナ人との間で衝突が起こり、双方におのおの四〇〇名を超える死傷者を出した。

 ここに今日まで問題になる、アラブ人とユダヤ人の果てしない闘争が発生しました。

 一九二九年八月の大衝突は死者二百人を数えたほどで、イギリスは、このことをパレスチナに大量駐兵する理由づけにしました。

 先に述べたとおり、イギリスは第一次世界大戦が終わる前に、イラク・ヨルダン・パレスチナをイギリスの委任統治領にすることを決めていました。さらに、将来パレスチナが独立建国するときには、ユダヤ人領を除外することも決めていました。

 ところがイギリスは、第一次世界大戦中から、パレスチナにユダヤ領土を広げ、将来はパレスチナの大部分をイスラエル国にする計画も立てていたのです。一方では、パレスチナの独立を約束しながら、もう一方では、その独立を妨害するような政策をとっていたのです。

 なぜこのような矛盾(つじつまが合わない)したことをしたのでしょうか?それは「石油」のためなのです。

 イギリスとフランスがシリア・パレスチナ・ヨルダンを委任統治領にしたのには理由があります。アラビア半島の地中海側には、ハイファ・ベイルート・トリポリに港があります。石油をタンカーで輸送するには良い港が絶対に必要なのです。英仏地中海艦隊にとって血液ともいうべき石油をイラクのモスル油田から供給するためのパイプラインを、一本はパレスチナのハイファへ(一九三五年開通)、もう一本はシリアのトリポリへ(一九三四年開通)しいたのです。

 つまり、イラクのモスル石油を、イギリスとフランスの安全な委任統治領に送って地中海から積み出したのです。

 イギリスにとってハイファはきわめて重要な港です。イラクのモスル油田には、イギリス系の資本が投下されています。イラクの石油の入り口と出口をユダヤ人がおさえたわけです。

 同じく地中海に面しているエジプトには、まずアレキサンドリア・ポートサイドの二つの重要な港があり、イギリス・フランスにとってその大動脈ともいうべきスエズ運河があります。

 アラブ諸国は、イギリス・フランスの軍事力の前に屈服させられたわけです。しかもイギリスは、裏切り行為によってアラブの統一を妨害したあげくに、アラビア半島全域を支配し、イラクの油田をうばったのです。イスラムの聖地パレスチナを委任統治領にしたあげく、ユダヤ人の入植を奨励して、パレスチナ人を追い出し、パレスチナが独立できないようにしたのです。

 イスラエル・パレスチナ問題は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の宗教上の争いではなく、イラクの石油から始まったのです。パレスチナ問題が常にアラブ人全体の問題になるような歴史があることを理解する必要があります。

 二〇世紀はまさに「石油の時代」でした。石油は、平和な時代には経済を発展させる「黄金の卵」であり、戦時においては「石油の一滴は血の一滴」といわれます。国家にとって欠くことのできない液体です。

 第一次世界大戦後も、各国は石油をめぐって、弱肉強食の激しいうばい合いを続けました。

 第二次世界大戦は、「石油を持っている国」と「石油を持っていない国」の戦争といわれます。

 そして今に至るまで、「石油」は戦争を読み解く重要なキーワードです。

 「イラク戦争」の動きの背景にも、このような「石油」をめぐる各国の利権がからんでいることを、私たちは心に留めておく必要があるのです。 (第6回に続く)  

■山中恒・山中典子著『あたらしい戦争ってなんだろう?』

IWJの取材活動は、皆さまのご支援により直接支えられています。ぜひ会員にご登録ください。

新規会員登録 カンパでご支援

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です