【IWJブログ】「集団的自衛権の閣議決定は憲法を踏みにじる暴挙です!」――長崎平和式典で安倍総理を前にして果敢に批判した被爆者・城臺美弥子さんが胸の内を激白 「戦争への道は絶対に許せん!」 2014.8.20

記事公開日:2014.8.20 テキスト
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(IWJ・原佑介)

 人類史上初の原爆投下から69年が経ち、今年も広島、長崎では核廃絶を訴える平和記念式典が開かれた。2つの「原爆の日」は、戦争をめぐる市民と政府の考えの違いを浮き彫りにし、現場では、さまざまな立場の人間の思いが交差した。

 IWJは式典の模様をUst中継し、式典参列者に多数のインタビューを敢行した。さらに、安倍総理の目の前でアドリブを交えながらスピーチし、集団的自衛権をめぐる解釈改憲を糾弾した被爆者代表の城臺美弥子(じょうだい みやこ)さんへインタビューも行い、止むに止まれぬ思いを聞いた。

松井一実市長「信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりを」

 2014年8月6日、原爆が投下され、69年目の朝を迎えた広島は、大雨洪水警報が発令され、強い雨に見舞われていた。

 雨の中の式典開催は43年ぶりだという。平和記念公園で開催された原爆死没者慰霊式・平和祈念式には安倍総理のほか、米国のケネディ駐日大使など、68カ国の代表らが参列。式典には約4万5千人もの市民が訪れた。

 広島市の松井一実市長は式典で、複数の被爆者の体験談を交えた「広島平和宣言」を読み上げた。

 「当時12歳の中学生は『今も戦争、原爆の傷跡は私の心と体に残っています。同級生のほとんどが即死。生きたくても生きられなかった同級生を思い、自分だけが生き残った申し訳なさで張り裂けそうになります』と語ります。辛うじて生き延びた被爆者も、今なお深刻な心身の傷に苦しんでいます」

 さらに、「『本当の戦争の残酷な姿を知ってほしい』と訴える原爆孤児は、廃墟の街で、橋の下、ビルの焼け跡の隅、防空壕などで着の身着のままで暮らし、食べるために盗みと喧嘩を繰り返し、教育も受けられず、ヤクザな人々のもとでかろうじて食いつなぐ日々を過ごした子どもたちの暮らしを語ります」と語り、原爆投下後の凄惨な広島の姿を紹介した。

 その上で松井市長は、「子どもたちから温かい家族の愛情や未来の夢を奪い、人生を大きく歪めた『絶対悪』をこの世からなくすためには、脅し脅され、殺し殺され、憎しみの連鎖を生み出す武力ではなく、国籍や人種、宗教などの違いを超え、人と人との繫がりを大切に、未来志向の対話ができる世界を築かなければなりません」と述べ、核兵器を「絶対悪」と位置づけ、批判した。

平和主義のもとで69年間戦争をしなかった事実を重く受け止めよ

 続けて、松井市長は、「その『絶対悪』による非人道的な脅しで国を守ることを止め、信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりに全力で取り組んでください」と政府に提言し、憲法に言及した。

 「唯一の被爆国である日本政府は、我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している今こそ、日本国憲法の崇高な平和主義のもとで69年間戦争をしなかった事実を重く受け止める必要があります。

 今後も名実ともに平和国家の道を歩み続け、各国政府と共に新たな安全保障体制の構築に貢献するとともに、来年のNPT(核不拡散条約)再検討会議に向け、核保有国と非核保有国の橋渡し役として、NPT体制を強化する役割を果たしてください」

 「集団的自衛権」をめぐる閣議決定に触れるかが注目されたが、現行憲法のもとで69年間戦争しなかった事実を受け止める必要がある、と指摘し、政府を牽制するにとどまり、集団的自衛権の行使容認を決める7月1日の閣議決定に直接的に言及し、批判することはなかった。

安倍総理挨拶

 安倍総理は挨拶で、「戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」と話し、日本が昨年の国連総会で核軍縮決議を提出したことをアピール。「包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています」と述べた。

 その上で、「核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします」と締めくくった。

 安倍総理は、「核兵器」にだけ焦点を絞り、同じく「核」の問題である福島第一原発事故に触れることはなかった。また、平和を誓う場でありながら、安倍政権による「武器輸出三原則」の変更、集団的自衛権に関する閣議決定など、今年に入ってからなされた、平和国家としての戦後日本のあり方を左右する重大な政策変更に関する説明もなく、昨年同様、第一次政権時では盛り込んだ「憲法遵守」の文言もなかった。

 閣議決定によって、憲法解釈を変更してしまうという総理が「憲法遵守」という言葉を口にするはずもない、とはわかっていたものの、憲法99条に定められた、憲法尊重擁護義務をどう考えているのだろうと寒々とした思いにとられた。

 安倍総理の挨拶が「コピペ」だったことは、別の稿で詳しく述べる。

原爆被害国が集団的自衛権で米国に追随するという矛盾

 東京から式典に参列しにきたという女性は、原爆を透過した米国と、その米国に追随してゆく集団的自衛権の行使に強い疑問を示した。

 「原爆の大元は米国ですよね。広島、長崎の人たちが原爆被害を受けたのだから、日本と米国との関係はどうなのか、ということをきちんと政府はしなければいけない。なのに、集団的自衛権は米国政府に追随していく流れですから、本当に矛盾していますよね」

 他方、原爆死没者慰霊碑に献花していたある女性は、集団的自衛権の問題について「仕方ない」と語った。

 「息子がいますから戦争になるのは嫌だな、という思いはありますが、なかなか難しい時代にきたな、とう気がします。中国、北朝鮮とのことを考えたらまるまる反対はできないかな、と思います」

 同じく慰霊碑に献花していた男性は、式典に参列するため、東京から来た、と語った。

 「私の親父の兄も戦争で亡くなっています。原発をなくすのは当然ですが、集団的自衛権の閣議決定もした。抑止力とは言いますが、戦争へ行く危ない道を選んでいるのではないかと思います」と話し、広島市長のスピーチにももの足りなさを感じたと語った。

 「広島市長さんがもうちょっと踏み込んだ話をされるかと思っていたが、直接的には触れなかったのでちょっと残念だった。はっきり言ってもらいたかった」

 会場に入れず、式典のスピーチを会場外で聞いていた名古屋からきたという男性は、「安倍さんが集団的自衛権で米国と一緒に戦争するという中で、安倍さんの言葉が空虚に聞こえた」との感想を口にし、その上で安倍政権への危惧をこう語った。

 「歴代の首相が、なんとか米国の要請に対して、憲法9条を盾に自衛隊派兵などを断ってきたのに、安倍さんは全部潰してしまう」。安倍さんに求められているのは、韓国や中国、北朝鮮とうまくこの地域で共存していくための外交努力ではないか」

 大雨の影響で、例年よりも人の集まりが少なかったというが、式典会場近くの原爆ドーム周辺では、さまざまな市民団体が平和集会を開いていた。デモ隊は「戦争反対」「安倍は帰れ」などとシュプレヒコールを上げながら行進し、中国電力本店に移動。原爆と原発、戦争に反対の意思を示した。

 他方、今年も「在日特権を許さない市民の会」などのレイシストが平和集会を妨害しようとした。市民団体の平和集会に近づき、「核兵器なしで日本はどうするんだ」などと怒鳴り声を上げたが、その数は10人に満たず、すぐさま警察官らに離れるよう誘導され、集会への影響は皆無だった。

69年目の朝を迎えた長崎では

 広島に続き、2発目の原爆を投下された長崎では、8月9日、原爆投下から69年の日をむかえた。台風11号の接近にともない、一時は野外での開催が危ぶまれたが、当日は、風は強かったものの晴れ間が広がり、例年通り長崎市平和公園で平和記念式典が開かれた。

 50カ国の代表者も出席し、原爆が投下された11時2分には約6000人の参列者が黙祷を捧げ、平和祈念像下からは、平和を象徴する鳩がいっせいに放たれた。

戦争、原爆体験者たちの声、「戦争からは何も得られない」

 「目をつむったら、亡くなった人の顔が見えたなぁなんて思ってね。悲しくなります」――。

 式に参列した高齢の女性は、戦時中は学徒動員で、軍需工場で働いていたという。IWJの取材に、涙ながらに戦争体験を話した。

 「原爆のときは建物の下敷きになって、だいぶ経ってから助けだされたんですけども、コンクリートだったから、火が燃えてこなくて、助かったんですよ。家族も原爆で亡くなりました」

 その上で、「戦争だけはつまらんですよ。勝っても負けても、何も得るところがない。マイナスばかり。だから今、ガザとかから子どもや年寄りが怪我して運ばれたりするのを見るとかわいそうで。当時を思い出しますよ」と続け、涙を拭いた。

 爆心地から目と鼻の先にある現・長崎大学病院で原爆投下の日をむかえたという被爆者の男性は、「体は全面ガラスでやられ、目も片方失いました」と右目の義眼を見せる。同時に母親も失ったという。

 男性は平和祈念像に手を合わせ、「この60年間無事に平和を守ってきたが、これから先、どうやってこの平和を守っていくか、よく見守ってください、という気持ちでお祈りしました」と胸のうちを明かした。

 当時、防空壕に避難していたという女性は、「昨日のことのように原爆が落ちた日を思い出しました」と語る。

 「戦争はバカみたい。とんでもない。戦争がないのが一番。結局、戦争があったことないから実感できないから、安倍総理だって実感がないから平気で何でも言えるのかもしれない」

 続けて、「みんな逃げ惑って、私なんて近くにリュックサックも落ちていたのに、(防空)ずきんだけ持って逃げるくらい慌てたんですから。防空壕に逃げて、みんなに会って手を握ってからやっと安心した」と戦争の恐怖を振り返った。

田上市長、集団的自衛権に言及

 式典では、田上富久長崎市長が長崎平和宣言を読み上げた。

 田上市長は、「核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが始まっているが、一方で、核兵器保有国とその傘の下にいる国々は、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを依然として手放そうとしない」と述べ、核兵器を手放そうとしない各国の動きに懸念を示した。

 さらに、「核戦争から未来を守る地域的な方法として、『非核兵器地帯』があり、現在、地球の陸地の半分以上が既に非核兵器地帯に属している」と指摘。日本が属する北東アジア地域を核兵器から守る方法の一つとして、非核三原則の法制化とともに、『北東アジア非核兵器地帯構想』の検討を始めることを、日本政府へ向けて提言した。

 また、「今、わが国では、集団的自衛権の議論を機に、『平和国家』としての安全保障のあり方について、さまざまな意見が交わされています」と、広島市長が触れなかった集団的自衛権へも言及した。

 「被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点が今、揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が生まれています」と指摘するとともに、日本政府へ、「この不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けること」を強く求めた。

 最後に、「東京電力福島第一原子力発電所の事故から、3年がたちました。今も多くの方々が不安な暮らしを強いられています」と原発事故に触れ、一日も早い福島の復興を願うとし、核兵器のない世界の実現のために努力すると宣言した。

「集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙」

 被爆者代表として登壇し、「平和への誓い」を読み上げたのが、城臺美弥子(じょうだい・みやこ)さんである。城臺さんは6歳のときに、爆心地から2.4キロ離れた自宅で被爆した。

 「たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆3世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました」

 被爆者としての苦しみを打ち明ける城臺さんは、続けて核兵器廃絶を訴え、唯一の被爆国である日本が国際的なリーダーシップを発揮するよう求めた。さらに安倍総理らを目前に、「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です」と厳しく糾弾。「日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか」と問いかけた。

 「武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください」

 式典で事前配布されたパンフレットには、長崎市長の「長崎平和宣言」などとともに、城臺さんの読み上げた「平和への誓い」の全文も掲載されていたが、「日本国憲法を踏みにじる暴挙です」という文言は原稿にはなかった。アドリブだったのだ。

 城臺さんは続けて原発問題にも言及。「福島には、原発事故の放射能汚染で、いまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて、おびえ苦しんでいる親子もいます」と述べ、再稼働へも疑問を呈した。

「この子たちを戦場にやれるか」城臺さんのアドリブスピーチの真相

 城臺さんはどのような思い出式典に臨み、どのような思い出スピーチしたのか。IWJは、城臺さんにインタビューをするべく、連絡をとった。

 城臺さんはやはり原爆の日、アドリブでスピーチを一部、変更したのだという。

 「あれは日頃から思っていることを言ったんです。私は『被爆講話』で、中高生に被爆体験を語っていますが、『どうして原爆が投下されることになったか』という被爆の歴史的背景も語っています。それだけでなく、『現在はこんな段階だが、これからこんなふうになるかもしれない』という先のことも話しています」

 城臺さんは「被爆談話」を通し、普段から自分が思っていること、伝えてきたことが、壇上でも自然と口をついた、という。

 「私が今、一番頭にきていたのは集団的自衛権です。国民の理解も求めぬまま憲法を曲げていった。戦争をくぐり抜けてきた人は、『憲法によってこれまで生きてきたんだ』とみんな思っています。『憲法がああしたやり方で、戦争を体験していない方々に曲げられていったら、今の日本の平和はない』と、体験から思っています」

 用意した原稿は、スピーチの持ち時間として与えられた5分に収まるようまとめたものだが、城臺さんには、「思いはいっぱいあった」。

 「開式の1時間前から会場に座っていましたが、(設営スタッフらが)一所懸命に会場を準備する姿、会場に入ってくる方々をみていました。同級生らはみんな病気になって、もう歩けなくなっている人もいます。私の一番の親友から、いつ逝ってもおかしくない、という電話が昨日かかってきました。走馬灯のように思い出されているときに、公明党の山口さんが入ってきたんです」

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