2011年6月8日、岩上安身による名古屋大学名誉教授・沢田昭二氏のインタビューが行われた。
(注釈とサマリー・ボランティアスタッフ@sekilalazowie)
2011年6月8日、岩上安身による名古屋大学名誉教授・沢田昭二氏のインタビューが行われた。
記事目次
■ハイライト
岩上「皆さんこんばんは。名古屋大学名誉教授の沢田昭二先生のインタビューをこれからお願いしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
先生は放射線の影響ということについて日本で第一人者であり、大変長い間ご研究されてきて、ご自身も被爆経験があるということで、放射線の怖さというものについて誰よりもよくご存知だろうと思います。
且つ、大変広い視野と歴史的なパスペクティブ(視野、概観)を以て放射線の難しさ、怖さを論じてこられたと伺っております。先生のご体験も踏まえながら、今の福島第一原発の事故後の放射線の影響、被曝の影響というものについて、我々にご解説いただきたいなと思っております。どうぞよろしくお願いいたします」
沢田「こちらこそ」
岩上「このインタビューがスタートする前、先生が子供の頃に広島で被爆された、原爆が投下された時の体験というのを実は伺っていて大変ショッキングな経験をされているということを言葉が詰まる思いでお聞きしていたんですけれども、もう一度これをご覧になっている人のために先生の出発点である原爆体験をお話願えますでしょうか?」
沢田「当時、中学校2年生。当時の中学2年生は戦争に協力するということで、軍事工場、私の場合は機関中の弾丸を造る工場に動員されていた。ただその日は病気で自宅で眠っていた。その眠っている間に原爆が爆発したんです。原爆のことを『ピカドン』、ピカッと光ってドンッと爆風がやってくるということですけれども」
岩上「爆心地からどのくらい離れていたんですか?」
沢田「1400mのところ。気がついたら潰れた家の下敷きになって気がついた。寝ていたので何が起こったか分からなかった。一生懸命もがいて潰れた家から這い出ることができたが、這い出たときは潰れた家に当たって、周りが暗闇だった。なぜ暗闇かというと、広島市全体が破壊されて、ものすごい土埃が数百メートル舞い上がり、朝の太陽を遮ってその下が暗闇になっていたということ。でもそれが、焦げ茶色から茶色、黄色、白っぽくなってサーッと遠くが見えるようになった。
そして日頃はよその家の屋根しか見えない筈の潰れた家の上に立つと、一面広島が潰れているのが見えた。それでびっくりしました。最初は大きな地震が起こったんだと思った。そう思っているうちに、すぐ私の足元で私の名前を呼ぶ母の声がした。
それで、どうなっているかと聞いたら、太い柱か何かが足を挟まれていて動けないと言う。それで一生懸命上に乗っかっているものを引っ剥がして取ろうとしたがなかなかうまくできない。そうしている間に母親のほうが私の方に色んなお説教を始めた。
『自分はもういいからお前は早く逃げなさい』と言ってくれたが、その頃は軍国主義教育をずっと受けていたから、天皇のために命を捧げるんだという教育により、命が大事だなんてこと全然思っていなかった。けれども母親が生き残ることの大事さということを一生懸命説教し始めた。
それでもなかなか逃げる気持ちになれなかった。けれども、最初は黙っていたのだが、ピカッと光った時には色んな燃えるものには火がついていた。
今ちょっと考えますと、いったん火が付いていたものが爆風で全部吹き飛ばされた。そして暫く燻っていた。燻っていたけども、またいっせいに燃え始めた。そして気がついたら、自分の周りは全部火事になっていたわけです。
でも、はじめは母親が心配するからということで言わなかったんだけど、だんだん火が強くなったのでそのことを言ったら『もう火事になる前にお前は早く逃げなさい』と言ってくれた。でもなかなか逃げる気にならない。
何時間頑張っていたのか記憶がなく、2~3時間いたんじゃないかなという気がする。
とうとう火事あらしが起こり、周りがいっせいに火の勢いが強くなってきた。これはもうなんともならないなと思った時に、母親が『今すぐ逃げなさい』と。母は下敷きになってますから、彼女からはその火が見えない。でも、命令調で強く言ったものですから『お母さん、御免なさい』と言って、その場を逃げる決意をした。
という体験を持っています」
岩上「もう辛い体験ですよね。周囲に助けてくれる大人というのはいらっしゃらなかったんでしょうか?」
沢田「時々、大人を掴まえて助けを求めたけども、これは駄目だということを言ってみんな逃げて行ってしまった」
岩上「お父さんは?」
沢田「おやじはその朝出張して、島根県の方に行っていた。親父は山の中に居たから広島が原爆に遭ったなんていうことはぜんぜん知らなかった。2日後になって知り、一生懸命帰ってきたわけだけれども、結局、3日後に帰り着いた。親父が帰ってきたので一緒に広島市内が見える比治山という山にいて、その山の上から燃える広島市内を眺めていた。
あくる日も心配だったので山を降りて市内に近づこうとしたけれど、熱くて近づけない。3日目にやっと親父と一緒に降りていった。土を掘り起こすとまだ底に火が残っていた。だいたい、ここにあるだろうという所で母親の骨をすぐ見つけた。骨のすぐそばに磁器とか陶器があって、触るとポロッとすぐ壊れる。こんな熱い中で母親は焼き殺されたんだなということをその時感じた。そして骨を集めて持って帰りました」
岩上「先生ご自身はその時、被爆をされているんですよね。被爆の影響は色々な形で表れるのかもしれませんけども、こうして元気で過ごされている。なにかその後、身体に影響が出ることはなかったのでしょうか?」
沢田「その日、病気で休んでいたが、原爆の後は病気の事なんか消えてしまうような、そういう状況になってしまって、爆心地から1400mですし、あまり遠くへ逃げる気にならなかった。なので爆心地から1500m付近の河原に夕方までずっといた。
後から自分で研究した結果から見ると、放射性降下物の影響をずいぶん受けているはずなんです。かなり被爆していることが自分の計算でも分かるのだが、ところがそういった放射線の影響というものは殆ど表れてない。冗談で『お前は放射線を浴びたから元気になったんじゃないか』と言われるほど健康状態に問題はない。
これは被爆影響、特に放射線の影響というものは個人差というものがかなり大きい、ということ」
岩上「たまたま先生はもともとの遺伝的な要素も含めて被爆の影響が表に表れにくかったけれども、人によってはその距離で被爆をしていれば大変な悪影響が出ていた可能性もある。決して先生のケースが典型的なケースではないという事なんですね」
沢田「僕の弟がその日、学校に行ってた。学校でほとんど同じ距離で被曝をしているけれども、弟は体中傷だらけで、私は運良く、赤ん坊が寝る枕蚊帳の中に入って寝ていた。ガラス戸のすぐ側で寝ていたが、その麻で作った枕蚊帳でガラスの破片が目の下辺りを一か所だけ刺さっただけで殆どケガをしなかった。凄く僕は幸運だったが弟は30数か所ケガをしていた」
岩上「爆風の影響ですよね」
沢田「校舎の2階にいて、校舎と一緒に潰れたので、色んなケガをしていたが、それでも一人でちゃんと母親の故郷まで逃げ帰っていた。身体全体としては被爆の影響もあったと思う。65歳になって癌を発症して癌で死んでしまいましたから、僕は被爆の影響だと思っています。しかし急性症状では起こっていないので、そういう意味では両親に感謝しないといけない。
放射線の影響は僕も弟も比較的強かった。だけど、弟は放射線の影響だと思うけれど、がんで死ぬということになりました」
岩上「同じような年頃の子ども、同じような状況で被爆した人たちにはもっと厳しい形で表れたケースがあったわけですか?」
沢田「多くの人が脱毛とか、そういう急性症状を発症している」
岩上「生き残った人元気な人を基準にして判断しまうと大間違いをしてしまうということですね。こういった体験があってこの道に入られたということですか?」
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