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2011年6月16日、東京都新宿区の早稲田大学で、「ふんばろう東日本プロジェクト南三陸町志津川高校のリーダー内田さん講演会」が行われた。冒頭、宮城県南三陸町志津川高校で撮影された、東日本大震災の津波の映像が流され、その後、内田卓磨氏が、震災直後の様子を生々しく語った。
(IWJテキストスタッフ・柴崎)
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2011年6月16日、東京都新宿区の早稲田大学で、「ふんばろう東日本プロジェクト南三陸町志津川高校のリーダー内田さん講演会」が行われた。冒頭、宮城県南三陸町志津川高校で撮影された、東日本大震災の津波の映像が流され、その後、内田卓磨氏が、震災直後の様子を生々しく語った。
「南三陸町でスポーツバーを14年やっていた。2階の店で、親は1階で大衆食堂を35年やっていた。2時46分ぐらいに揺れが来て、外へ出たら車が『十メートルくらい来るぞ』と怒鳴って走り去っていった。海に行ってきた人が、『波が退いて50m100m先まで海底が見えている』というのを聞いて、これは本当に来ると家族で志津川高校に逃げた。
40分しないうちに町が砂埃でみえなくなって、遠くの建物が倒れてきた。自宅から高校まで1,2分の間に町がなくなっていた。その夜大雪が降り、学校の木の廊下を壊して燃やして、体操のマットと教室中のカーテンを柔道場に集めて暖をとった。当日の夜は何十波という津波が来て、壊れた家が何回も流されてきて、その2階から助けを呼ぶ女性の声が聞こえたが、助けられないままその家は流されていくことが繰り返された。
高校に上がってきたのは500人。町の人口は1万7千人。
震災を経験した神戸と中越のグループの炊き出しが一番早かった。町から貰う物資は、物があっても担当がいないとか、みなに配るまで待てとかいわれて空振りが多く、町を通さなくて直で送ってくれるふんばろう等のボランティアの活動は助かる。多いときには30もの団体と携帯で一日中やりとりした。
仮設住宅は完全抽選なので中々当たらず、隣人が見知らぬ人になるため、行きたがらない人も多い。物資が仮設に届かないというのも入りたがらない理由になっている。
これから復興は何十年も続くので、実際に町が一つなくなったという状況を見に来て、風化させないで伝えてほしい」など、被災地の状況や行政とボランティアに希望することを語り、質疑応答では個別具体的な支援の方法についてアドバイスした。