2013年3月9日(土)14時より、岡山市勤労者福祉センターで「3・8国際女性デー岡山県集会 樋口健二氏講演会『私が原発を追うようになったわけ~原発を40年余、撮り続けて~』」が行われた。写真家の樋口健二氏が、40年間撮り続けた原発の写真を映しながら、「原子力の平和利用は、まったくの嘘」と指摘し、エピソードを語った。
(IWJテキストスタッフ・関根/澤邉)
2013年3月9日(土)14時より、岡山市勤労者福祉センターで「3・8国際女性デー岡山県集会 樋口健二氏講演会『私が原発を追うようになったわけ~原発を40年余、撮り続けて~』」が行われた。写真家の樋口健二氏が、40年間撮り続けた原発の写真を映しながら、「原子力の平和利用は、まったくの嘘」と指摘し、エピソードを語った。
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冒頭、主催者代表から「3・8国際女性デーとは、110年前、ニューヨークの女性たちが、パンと参政権、労働条件の改善と女性の尊厳を求めて、デモを行ったことから始まった。世界経済フォーラムの発表によると、2012年の日本女性のジェンダーギャップ(性差)指数は世界で101位だ。特に政治経済に関わっている率が低い」などと開会の挨拶があった。
続けて、樋口氏の講演が行われた。「現在、東電は福島第一原発で、原子炉をただ冷やし続けているだけで、事故処理は何も進展していない。『安全・クリーン・平和利用』は、まったくの嘘。原発は下請け労働者の手によって動いてきた。40年間で、闇に葬られた原発労働者がたくさんいる。1999年、東海村JOC臨界事故が起こった。ここで、みんなが気付かなければならなかった。当時、電力会社に労働者のことを聞いても、『労働者はいない、原発はコンピュータが動かしているので、被曝などない』と答えていた」と前置きし、安保闘争に参加した若いころから今に至る活動の経緯を語った。
樋口氏はまず、「私は、『原発には45万人を超える原発労働者が従事している。下請け作業内容は、300種以上ある』などと、機会があるごとに、原発労働形態を説明してきた。3.11前までは、自分に対する嫌がらせが連続した。ところが、3.11以降、それがぴたりと止まった」と語った。さらに、「原発労働者の被曝線量の上限は、年間50ミリシーベルトと規定されている。1999年4月1日までは、1日1ミリシーベルト以下、3カ月で30ミリシーベルト以下という基準も併せてあったが、あまりにも原発労働者が多くなったので、年間50ミリシーベルト以下だけを残した。みんな、金の力で変わっていく」などと話した。
樋口氏は「自分は、欧米では有名だったが、日本ではずっと、まったく無名の写真家だった」と語り、ドイツ、ギリシャの雑誌にも掲載されたという、美浜原発の写真から説明を始めた。1970年代の福島第二原発のモノクロ写真、そして原発内部の配管写真を見せ、「津波で破損した、という東電の説明は、この複雑で脆弱そうな配管を見ると、信じることができない。それに、東電は起こりうる地震を震度7.8までしか想定していなかった。ちなみに、これらの配管は、建物、原子炉建設では参入できなかった、住友系の企業が請け負っている」と語った。
次に、原発労働者の写真に移った。「これらは、1977年、敦賀原発の定期検査中の作業員と、作業風景の写真だが、今では決して撮影は許されない」と言い、作業員の着替え、シャワーシーン、出退時の放射能検査、大飯原発の放射線チェックゲート、作業員必携の4つのアラームメーター、ホールボディカウンターの検査風景、労働者の日常風景などを映した。さらに、「延べ労働者数は、200万人を超えている。その人件費は、電力会社の見積では、1人1日5万円で計算しているが、中取りが繰り返され、末端の労働者に届くのは9000円くらいになる。外国人労働者も200人くらいいた」と語り、黒人の労働者の写真を見せた。引き続き、中央制御室、浪江町の農民、70年代の浪江町の原発への出勤風景、柏崎刈羽原発の労働者のプレハブ宿舎などの写真を紹介した。
樋口氏は続けて、敦賀原発定期検査に従事した労働者で、2時間半、一次冷却系配管をいじっただけで、ベータ線熱傷被曝をし、大阪地裁に訴えた人の病床写真を見せた。そして「この人の訴えは、最高裁で全面棄却、労災認定もおりなかった。しかし、この人の行動がなかったら、のちの労災認定などは勝ち取れなかった。また、この人に出会ったことが、自分のジャーナリスト人生を変えた」と語った。さらに、被曝病苦と生活苦の果てに、電力会社から提示された示談金600万円に奥さんが屈してしまい、裁判をつぶされた滋賀県の村居氏、大阪の長尾光明氏のスナップを見せ、「福島原発での作業で、年間70ミリシーベルトの放射線を浴び、多発性骨髄腫にかかった。そして損害賠償訴訟を東京地方裁判所に訴え、労災認定は受けることができた」と説明した。
引き続き、樋口氏は、写真を見せていった。敦賀原発労働者で、訴訟中の梅田隆介氏のスナップ、定期被曝検査の数値を改ざんしてある、被曝死した労働者の放射線管理手帳、浪江町の原発労働者の病床、田中角栄氏がこの利権で3億円を得て首相になった、といわれている柏崎刈羽原発建設前の敷地、大飯原発の建設風景、東電柏崎刈羽原発の活断層の写真などであった。
最後に樋口氏は、台湾の原発で被曝した、下請け労働者の遺体の写真を見せた。「この写真は、学術研究用に、内臓や筋肉を全部取り去ったあとの遺骸だ。台湾の一般的な葬送法は土葬だが、その後の調査で、遺体がほとんど腐っていなかったことがわかった。調べてみると、通常の1000倍の放射能が検出された。なぜ腐らなかったかというと、遺体を腐らせるバクテリアが放射線で死滅していたからだ」と語って、講演は終わった。
樋口健二氏講演会「私が原発を追うようになったわけ~原発を40年余、撮り続けて~」 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/65331 … @iwakamiyasumi
数多の被ばく労働者のために、樋口さんは力の限り撮り続け、語り続けている。ユーモアを交えながらも、その想いは熱く優しい。
https://twitter.com/55kurosuke/status/577993076762812417