【特別転載】ヒトラーに抗い強制収容所へ送られた、労働者の権利のためにたたかった弁護士の運命! 劇団民藝「闇にさらわれて」の公演によせた石田勇治・東京大学教授の解説文を全文掲載! 2019.6.26

記事公開日:2019.6.27 テキスト
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(リード:IWJ編集部 本文:石田勇治教授)

 「これは強大で暴力的な権力に対して弱き者たちがいかに闘ったかを示す真実の記録である――」

 2019年6月23日から7月3日の間、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都渋谷区)にて、劇団民藝「闇にさらわれて」が公演されている。本作品は、1931年のドイツ・ベルリンでのある殺人事件の裁判から始まる。この法廷では、なんとナチ党(民族社会主義ドイツ労働者党)の指導者であるアドルフ・ヒトラーが、証人として出廷することになった。なぜなら、このベルリンで発生した殺人事件というのは、ナチ突撃隊に所属していた犯人が共産主義者を殺害したものであったからである。

▲劇団民藝2019年6-7月東京公演『闇にさらわれて』(劇団民藝ホームページより)

 ヒトラーの証人喚問を求めたのは、貧しい労働者の事件に立ち会ってきた弁護士のハンス・リッテン。リッテンは、この殺人事件の背後にある、ヒトラーの非合法・暴力的な政治指導の正体を暴いていった。しかし、その2年後、ヒトラー内閣が成立する。これ以降、ハンスは過酷な運命に直面していく…

 劇団民藝・制作部 平松多一氏は、本作を次のように紹介している。

 「『闇にさらわれて』は、母と子の絆を描いた作品でもあります。ヒトラーに抗い強制収容所へ送られた息子の命を救うため、孤独な戦いを続ける母親を演じる日色ともゑは、『彼女(イルムガルト)の物事に対する一途さは、私自身とも重なるところがあると思います。母としての深い愛情、そしてひとりの女性として凛とした強さを』と抱負を語っています。

 そしてヒトラーを法廷に召喚し、3時間にも及ぶ尋問を行い、後に捕らえられ強制収容所へ送られた息子のハンス・リッテン役の神敏将は、『志半ばに亡くなった人物を演じます。その人の思いを誠実に伝えられれば』と意気込みをのぞかせます。密度の濃い民藝アンサンブルにご期待いただければと思います」

▲リッテンが収容された、ダッハウ強制収容所(Wikipediaより)

 さらに本作について、ナチ・ドイツ史研究の第一人者の石田勇治教授(東京大学)が解説をよせている。それを下記に転載する。ご提供くださった石田教授に感謝申し上げる。

※転載にあたり、ウェブ記事であることを考慮して見出しをIWJ編集部で追加した。ご了承いただきたい。

▲石田勇治・東京大学教授(IWJ撮影 2016年9月11日)

 なお、石田教授には、6月30日開催の「IWJファンドレイジングシンポジウム・2019 改憲か否か!? 運命の夏」にご登壇いただく。「20分でわかるナチスの『手口』と緊急事態条項」のタイトルで、以下の概要でお話いただく予定である。

 「ナチスが独裁樹立に向けて用いた『手口』のひとつがワイマール憲法48条(緊急事態条項)の濫用である。だがこれを濫用したのはナチスだけではなかった。ヒトラー政権に先立つ歴代の首相も、それぞれの思惑から緊急事態条項を濫用して議会制民主主義を骨抜きにした。ヒトラーは、その『成果』の上にさらにこれを濫用して『授権法』(全権委任法) 制定の扉を開き、議会政治にとどめを刺したのだ。緊急事態条項は、ヒトラーのような極端な人物でなくとも、困難に直面した為政者が安易に手を出したくなる危険な代物である」(石田教授による概要)
 自民党は6月7日に参院選(7月4日公示・21日投開票予定)の公約を発表したが、その中には、緊急事態条項の創設を含む改憲4項目が掲げられている。日本の民主主義の運命は、切迫した状況に置かれている。

※「IWJファンドレイジングシンポジウム」の残席はあとわずかです。ぜひお早めに、このURLよりお申し込みください。日時は以下の通りです。

―――――――
◆日時:2019年6月30日(日)
開場 15:00 開演 15:30 ~ 終演 20:30 (予定)
◆会場:ライブレストラン 六本木バードランド (http://www.bird-land.co.jp/
106-0032 東京都港区六本木3-13-14ゴトウビル3rd 5F
TEL.03-3402-3456
地図: http://www.bird-land.co.jp/#footer
◆参加費:20,000円 夕食、飲み物代金込み。会場受付にて現金でお支払いください。
―――――――

※IWJ会員の方で前々日の28日金曜日午後3時までに1万円以上のご寄付をくださった方へ限定で、当日こちらのイベントをペイパービュー(PPV)方式で生配信します。そのお手続きは以下の通りです。
 イベント前日の29日土曜日までに、イベントご視聴のためのURLとログインパスワードをメールでお送りいたしますので、IWJサイトの「ご寄付・カンパのお願い」ページ末尾にある「足あと(寄付・カンパの情報登録)」にお名前とメールアドレスと会員番号をご入力ください。ご寄付・カンパの金額と会員情報を確認できた方へご視聴に必要な情報をメールでお届けいたしますので、必ず、このお名前とメールアドレスと会員番号をお忘れにならないようにお気をつけください!
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思想は自由だ 石田勇治

 ハンス・リッテン(1903〜1938)は、中部ドイツ・ザーレ河畔の大学都市ハレに、父フリッツ、母イルムガルトの長男として生まれた。父は高名な法学教授で、ケーニヒスベルク大学の法学部長を経て学長となった。典型的な教養市民層の良家に育ったハンスだが、父の権威主義教育は息苦しく感じられたようだ。自由と自然を求めて家から離れ、固い絆で結ばれた友と深い森を渡り歩く「自由ドイツ青年運動」(ワンダーフォーゲル運動)に身を投じた経験は、その後のリッテンの人生行路に大きな影響を及ぼした。

 リッテンが法学を志したのは、父の影響による。だが二人の考え方は正反対である。保守的で愛国心の強い父と対照的に、息子はマルクス主義を受容し、反戦・平和運動に共鳴した。ドイツが第一次世界大戦に敗れ、帝政が崩壊、共和制の国(ワイマール共和国)が生まれたことを父は嘆いたが、息子は歓迎した。父はユダヤ教を棄ててキリスト教徒となったが、息子はむしろユダヤ教に親しみを覚え、父の改宗を出世のためのご都合主義だと批判した。

貧しい労働者の権利のために戦った弁護士のリッテン

 リッテンが弁護士資格をとった頃、ドイツの社会状況は混乱を極めていた。将来への展望を失った若者は左右の過激思想の虜になりつつあった。若者の精神的自立を急務の課題と見たリッテンは、彼らが直面する現実の社会問題に目を向け、そのなかで「ドイツ赤色支援」Rote Hilfe Deutschland という共産党系の労働者支援団体に関わるようになった。リッテンは弁護士として、貧しい労働者の事件に立ち合い、裁判では弁護人を引き受けた。

▲「ドイツ赤色支援」Rote Hilfe Deutschlandの活動の様子(1928年)(Wikipediaより)

 リッテンが関わった最初の大事件は、1929年5月の血のメーデー事件である。これは、事前に布告された示威行動禁止令を無視したデモ隊にべルリン警察が武力介入した事件で、少なくとも19名の労働者が落命し、約250名が負傷した。この裁判で騒乱罪に問われた被告を、リッテンは弁護した。警察の過剰介入を追及するため、ハインリヒ・マンなど当代一流の作家に声をかけて事件調査委員会を立ち上げた。後に収容所でともに「囚人」として再会するカール・フォン・オシエツキー(獄中でノーベル平和賞受賞)、エーリヒ・ミューザムもこうした支援活動を通じて知り合った仲間である。

1931年、エデンパレス事件(1930年11月)の裁判でヒトラーを証人喚問

 リッテンを一躍有名にしたのが、エデンパレス事件(1930年11月)である。これは、ベルリン西部のダンス酒場エデンパレスで気炎をあげる共産党の若者に、ナチ突撃隊(SA)の第33機動急襲班が武器を手に襲いかかった事件だ。この裁判でリッテンはヒトラーの証人喚問を求めた。

 当時ナチ党は、国政選挙(1930年9月)で第二党に躍進して世間の注目を集めていたが、その運動を支える突撃隊員の間で、ヒトラーのいう合法路線への不満と反発が強まっていた。リッテンは、この事件を洗うことで、口先の合法戦術の裏に隠された真意を抉り出そうとしたのである。

▲アドルフ・ヒトラー(Wikipediaより)

 証人席に立ったヒトラーに、リッテンはナチ党の非合法・暴力路線を表す証拠を示して詰め寄った。返答に窮したヒトラーは激昂して罵声を浴びせたが、翌日の新聞には「リッテン勝利」を伝える記事が躍った。

1933年のヒトラー内閣成立以後

 それから一年八か月後、ヒトラーは首相の地位を手にした(1933年1月30日)。国会が解散され、選挙戦が始まると、新政府は共産主義の撲滅と議会制民主主義の廃絶を国民に訴えた。選挙戦の最中に起きた「国会議事堂放火事件」を、共産党の仕業だと断定し、ヒンデンブルク大統領に「国民と国家を防衛するための緊急令」(2月28日)を発動させた。これによって人身の自由、言論の自由など憲法が定める基本権が効力を停止し、大規模な政治弾圧が始まった。リッテンが拘束されたのはこの局面においてであった。

▲炎上する国会議事堂(Wikipediaより)

 共産党の国会議員全員(81名)が拘束されるという異常事態のなか、国会では立法権を政府に与える授権法(全権委任法)の議決が強行された(1933年3月23日)。

 リッテンが収容所で虐待に堪えていた間、外では民族共同体の名の下に強引な国民統合が進められていた。当初は距離をおいた民衆も、独裁が不可逆点を越えたことを悟ると、雪崩をうってこれに迎合した。

 「政治犯」が「再教育」を施されて釈放される可能性はたしかにあった。その意味で、母イルムガルトがありとあらゆる策を講じて息子の釈放を勝ち取ろうとしたことは愚かしいことではない。しかし扉は開かなかった。

 リッテンは釈放の可能性がないことを見通していたように思う。リッテンは最期まで公正で清廉だった。1935年4月、リヒテンブルクの収容所で衛兵から歌えと命じられたリッテンが、詩集を取り出して朗読したのは、十九世紀初頭のドイツの詩人ファラースレーベンの「思想は自由だ」である。これは、リッテンが愛してやまない「自由ドイツ青年運動」の愛唱歌のひとつだった。

 思想は自由だ。誰が言い当てられようか。
 思想は飛び去る。夜の影のように。
 それを知る者はいない。射貫く狩人もいない。
 それでよい。思想は自由だ。

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 これまでの岩上安身による石田教授へのインタビューは、下記URLよりご視聴ください。

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