「友だちが殴られたら倍返し? 殴らず、殴らせずの信頼関係の構築で、暴力の連鎖を止める」 ~政治学者・岡野八代氏の著作を文学研究者の越智博美氏が読み解く 2016.1.24

記事公開日:2016.2.10取材地: テキスト動画
このエントリーをはてなブックマークに追加

(文:IWJテキストスタッフ・花山格章)

※2月10日テキストを追加しました!

 「9.11以後の戦争が正しかったのなら、今頃は平和のはず。武力で平和を維持するためには、戦力を拡大し続けなければならない。武力で身を守ることには限界があると、この本は指摘している」。

 2016年1月24日、京都府京都市の同志社大学志高館にて、「『戦争に抗する-ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店・2015年刊)を読む」が行われた。アメリカ文学研究者の越智博美氏(一橋大学教授)が同書をテーマに講演を行い、その後、著者で政治学者の岡野八代氏(同志社大学教授)と意見交換をした。

 越智氏は、「主体、個人および正義をめぐって、リベラルの立場から政治を語っている。その立場から社会を考える時、主体と正義という大きな概念に対して、歴史を振り返りながら再考を迫るものだ」と同書を紹介。常に他者との関わりの中でしか主体を構成できないわれわれは、他者を尊重しなければならない、と解説した。

 また、みんなが政治参加して話し合うのが民主主義だとすれば、参加の立場を平等にするために、不正義を特定することが不可欠だとし、「だとすれば、私たちは不正義とその歴史的な経緯を見なければいけない。そして、子孫が過ちを繰り返さないよう、未来へとその記憶を受け渡していかなければいけない」とした。

 同書の最終章「戦争に抗する」で、どのように暴力の連鎖を断ち切るのかを、越智氏はこう読み解く。

 「注視すべきは、数限りない暴力の歴史の前に、私たちの誰もが暴力に加担する可能性があること。その暴力の可能性に自らがどう応えるか、私たちは常に試されている。友だちが殴られた。だから、倍返しをするのか。あるいは話し合って、次から殴られないよう、こちらも殴らないよう、信頼関係を結ぶことができるのか。ここに可能性を見ることになる」。

 著者の岡野氏は、政治学はもっとも非政治的な学問だとし、「私のように選挙カーに乗ったりするのは、政治学者としては異例。この本は、政治学の専門家にではなく、文学、しかも個人の心情を描いた作品を読んでいる人に読んでもらいたい」と語った。

記事目次

【講義】

【応答】

  • 日時 2016年1月24日(日)13:00~16:00
  • 場所 同志社大学鳥丸キャンパス志高館 SK101教室

主体と正義をめぐって、リベラルの立場から政治を語る

 はじめに越智氏は、岡野氏の最新刊である同書について、「この本で岡野さんは、人権や平等に対し開かれた発想を持つ社会を目指したいという意味での『リベラル』という立場から、主体、個人および正義をめぐって、政治を語っている。社会を考える時に、主体と正義という大きな概念に対して、歴史を振り返りながら、岡野さんなりに再考を迫っているものだ」と紹介した。

 主体とは、完全に自立した個人ではありえない。それを「ケア」あるいは「依存」というキーワードを使いながら考え直していく試みが、同書でなされているとした越智氏は、さらに、「9.11以降のアメリカの対テロ戦争の犠牲者や、元従軍慰安婦の人たちの呼びかけに対して、どのように日本政府が応答できていなかったかを問う中で、岡野さんは、正義を不正義という角度から捉え直そうとしている」と評価し、こう続けた。

 「政治学に無知な私がそこで気づくのは、もしかして、政治学は男性的な主体を基礎に据えた学問だったかもしれない、ということ。政治学それ自体も相対化するという意味で、岡野さんはアグレッシブな研究をされている。この本の理論的なバックボーンになるのが『フェミニズムの政治学』で、これはケアあるいは依存というところから、もう一度考え直す際の理論的な支えになっている」。

他者との関わりの中でしか主体は構成できない。ゆえに他者を尊重すべき

 越智氏は同書の第一部、正義を再考する章について、「ジュディス・バトラーの『Undoing Gender』と、それが引き継がれた『Precarious Life』の印象的な場所から、自立した主体への疑問へと入っていく。主体とは、そもそも私は私であることにいつも疑問を抱いていない。けれども、疑問を抱かない私は必ず他者を含みこんだ形で構築されている、というのがバトラーの論だ。バトラーは9.11以後、エイズで友人を亡くす。大切な人がこの世を去ってしまった時の胸の痛みから、議論を始めている」と越智氏は語る。

 「大切な人を亡くすと、私たちは『胸にぽっかりと穴が空いたような』という言葉を使う。いったん大切な人を亡くしたら、自分は元には戻らない。その痛みを抱えながら、明日へと生きていく存在になる。その感覚こそ、主体というものが、すでに他者に依存しながら作られていることを雄弁に物語る。それは、悲しみによってわかる」。

 人間は生まれた時には無力で、誰かの手を借りて育てられる。したがって、常に他者との関わりの中でしか主体を構成できない、と越智氏は言う。「私たちは他者を尊重しなければならない。非常に単純なことだが、私たちはそれを忘れていくのかもしれない」とし、主体が「私」だけで自立していないという認識から議論が始まる、と述べた。

 他者がいる「自分」であるからこそ、他者が暴力に苦しんでいる時に、私たちは何ができるのか──あるいは、これ以上暴力を続けてはいけないということを、私はひ弱な存在であるがゆえに理解しなければいけない、というところに話は及んでいく。「それこそが、人が社会的に構成されていることだし、人とつながるのは、そこがきっかけになる。だからこそ、自分を完全に所有しているのでなく、明け渡す『ディスポゼッション』という考え方も出てくる」と説明した。

正義を達成するためには、過去の不正義の歴史を知ること

(…会員ページにつづく)

アーカイブの全編は、下記会員ページより御覧になれます。

一般・サポート 新規会員登録

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です